シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第8回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
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☆今回のお悩み☆
シャープさん、ヤンデル先生、こんにちは♪
お2人のこのコーナーがとっても好きです♪
私も何かお2人からのお言葉が欲しい!
と、意気込んで、Googleフォームを開き、回答を入力
の文字を、何度見送ったことか☺︎肝心のお悩みが、うまいこと出てこないのですよ。
せっかくのチャンスなのですから、小洒落た感じのお言葉が欲しい♪そんな欲にまみれた想いでは、採用されないですね。
ここは正直に、1番聞いてみたい事を書くしかない!やっとここまできました☺︎
ただ、まぁ、打つ手はないです。
わかってます。もう会えない人に、会いたくなった時、
どうしたらよいのでしょうか。なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、
そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡
(PN. ぢぢ@札幌さん)
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どうで荘にご入居のみなさん、ごきげんよう。@SHARP_JP の山本です。聞くだけ聞いて解決しないお悩み相談は毎月連載ですので、これが載るのは11月。ボーナスとかクリスマスとか、なにかとみなさまにモノを買わせる12月に向け、私が勝手に忙しくなる月です。無粋なごあいさつでした。
さて今回はポエティックな相談です。あるいは人々が口ずさむポピュラーソングのフレーズのような相談だと思いました。
「もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか」
切なく、美しいですよね。こういう美しいフレーズに出会うと、それに言葉を続ける役割の私は、どうしても尻込みしてしまいます。だってもう、完結しているのですから。このお悩みはもう完結している。それゆえ美しいフレーズだと、私は感じたのだと思います。
尻込みする私は、結論を急ぎます。
会えない人に会いたくなった時、われわれはもう、その人と会っているのです。会えなくなった人とはすなわち、記憶です。あなたは「どうしたらよいのでしょうか」と私に送信した時、会えなくなった人にすでに会っていた。あなたは記憶を手繰りよせることで、かろうじて会えることを知っていた。だからその問いは、あらかじめ完結していたのです。
私たちは、会えなくなった人を思い出すことで、何度でも会う。いや逆かもしれません。会いたいから、何度でも思い出すのかもしれません。たとえ会える人でも、思い出さなければ会う行動を起こすこともありません。実際に会っても、思い出すことがなければ、それはほぼ他人です。人間は介在する記憶さえあれば、会うのも会わないのもさほど違いがないのではないか。そんな極端なことすら、私は考えてしまいます。
もちろんわかっています。思い出すことで会うたびに、もうその人がいないという事実を突きつけられることを。私たちは思い出すことで何度だって会えるけど、もうこれ以上思い出が増えることがないこともまた、同時に思い知るわけです。私たちは記憶で会う能力を、小さな痛みと引き換えに獲得したのかもしれません。
会えなくなった理由はなんであれ、私たちには、会えなくなった事実に打つ手はないです。悲しいほどに、ないです。それでもやっぱり記憶を縁にその人と会おうとする、相談者さんの日々が穏やかでありますように。そう締めざるをえないほど、私にはただまぁ、打つ手はないです。
こんにちは。
冒頭からいきなり挨拶もそこそこに本質的なことを申し上げますと、今回、ぢぢさんからいただいたご相談は、今までの中で一番難しいです。なんとか「回答」しようと思い、何度も何度も書き始めてはみたのですが、どうにもうまくいきません。
悩んで、キーボードに両手を置いてバカスカ叩き、しっくりこなくて、右手の中指をおもむろにバックスペースに伸ばして全部消す、あるいは左手でCtrl+Aと押して全選択して、左手でdeleteするというのを、もう4回ほどくり返しています。
本来、そこまで苦しんで書くようなコーナーではないはずなのですが。
最後、オチの部分を定型文の「打つ手はないです。」で締めるという本連載のシステムは、書く方としてはとても楽です。なぜなら、これによって、悩み相談系コンテンツの一番難しい部分を回避できるからです。結論が「打つ手はない」ということはすなわち、「解決」しなくていいということですからね。他人の問題に解決策を提示するほど難しいことはないですから。
私どもは、お題を見て、思ったことをただ書けばいい。それだけでいい。
疑問や懸念に本気で向き合うことなく、肩肘を張ることなく、ぢぢさんの書かれた文章から着想したイメージを随意に記していけばいい。シャープさんとはこの企画に関しては一回も相談をしたことがないので、彼がどういうやりかたで書いているのかはわからないですけれども、少なくとも私はこれまで「随想形式」で書いてきました。
しかし、今回は、どうもそれがうまく行きません。
理由はおそらく、ぢぢさんの文章全体から、強く、ねばっこく、絡まり合って、へばりつくような、強烈な苦しみのようなものが感じ取れるからです。それをぢぢさんは半分意図的になさっているようで、でも一部は無意識なのかなとも思います。苦しみの一部はどうやら自罰的にご自身に向いているようで、かつ、どうやら私どものほうにも向けられている。
今回のご相談内容は、段違いに重いです。こんなおちゃらけコーナーに送ってくる類いのものではない、まがまがしいオーラのようなものが、文章の奥からビンビン伝わってくる。
「これに、いつものように答えを用意することなく、シレッと随筆を書いていいのだろうか?」というとまどいが、私のキータッチを途中で止めてしまうのです。
ぢぢさんは、死別か離別かわからないですが、とにかく何らかの別れを経験されたのだということはわかります。そこは「誰もがわかるように書いている」。
しかし、その別れについて、私どもに「詳しいことを知らせる気はない」という意思もまた伝わります。本質の部分をホワイトノイズの中に埋もれさせて、このコーナーを読む人に「あまり心を探られないようにしたい」という、仮にも「相談企画」であるはずの本コーナーに対する本末転倒な心意気を同時に感じとることができます。
「小洒落た感じのお言葉が欲しい♪ そんな欲にまみれた思いでは採用されないですね」
いえ、そこまで厳密に相手を選別するような企画ではないんです、ここは。
ていうか大抵の質問者は「まあちょっとなんか小洒落たこと言ってくれや」くらいの軽い気持ちで投稿してくださってきたと思います。
「欲にまみれた」なんていう言葉をここで目にすると、ぎょっとする。コーナーの空気に合っていない。
「なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡」
「ですがね」が引き受ける、あるいは逆転させるべきものが、明確には書かれていませんが、普通に考えれば、この「ですがね」からは、「今は笑って生きられない」という意味を読み取れます。テンションが激重です。ハートが空虚です。
「打つ手はないです。わかってます。」
それは私どもの伝家の宝刀、あるいはエクスキューズ(言い訳)です。先に使われてしまいました。ご丁寧に、「わかってます」で無効化までして。
開示と秘匿とを同時に行っているような。軽量化しながら重装備しているかのような。
ここで唐突にごく個人的なことを申し上げることになり、大変恐縮ではありますけれども、「離別の悩み」は、私自身、背骨の辺りに一本貫通している、私の性格や行動に大きく影響を与え続けている、私の人生のテーマそのものと言って差し支えないものです。
この悩みに関しては私自身、誰とも共有したいとは思わないし、誰かが解決できるとも思っていないのですが、ぶっちゃけ、まれに、誰かこの悩みを引き受けてくれないかな、でも絶対に全部はわかってくれないだろうけどニュアンスだけでもわかったふりをしてくれないものかなと、何度も何度も何度も何度も考えて、でもやっぱりやめてきた、という歴史があるので、その……ぢぢさんがこの七面倒くさい形式の文章を書いた理由も、全部わかるなんて怖ろしいことは絶対に言いませんが50%くらいはわかります。「誰にもわかるわけないんだけど多少は他人に伝えておかないと苦しんでいる甲斐がない」みたいな感覚が、半分弱はわかる。
ぢぢさんが今回の相談文に書かれた言葉は、一文ずつ切り取れば明るくも読めますが、しかし総体として伝わってくるニュアンスは暗黒です。音符も絵文字もこれみよがしに「明るさを演じている」ように見えるし、「これだけやってあげれば、明るさを演じている私に気づくでしょう?」という、探偵が気づきそうなヒントをあえて現場に残す怪盗のような挙動にも見える。
あるいはぢぢさんは日常生活では、カムフラージュに成功しすぎてしまっているのかもしれませんね。周りに「明るく振る舞っている元気な人だ」と思われているのかもしれない。だから、相談文では、我々に「本当のつらさが伝わらない可能性」をおそれて、このようなある意味わかりやすい重さを配備した文章を書かれたのかもしれない。
そしてぢぢさんは今、あらゆる他人の言葉を、あまり自分の中に入れる気がないのではないか、とも感じます。誰に何を言われても私はどうしようもないのだということを、ご自身の中で何度も咀嚼して、あきらめるまでの時間を稼いでいる。だからこんな文章を私どもに送ることを思い付かれたのではないか。
こうしてひたすら読みとろうと試みていくと……そのいくつかはピント外れだったかもしれませんが……、しみじみ感じます。
打つ手がないです。
今回ばかりは全く打つ手はありません。
本当にそうだろうか?
はい、そうです。本当に打つ手はないです。
永遠の離別に打つ手はないのです。
ただし、待つ手はあるかもしれない。
「打つ手はないです」という言葉がゲシュタルト崩壊するくらい、何度も何度も入力していくと、「手を打たずに待っている棋士の姿」がふと思い浮かびました。長考をする。王も飛車も歩も動かさず、ただ待つ。なんらかの手を指したら局面が動いてしまって、それはあるいは、自分を敗北に導く一手になるかもしれないのだけれど、手を打たずに待てば、その将棋はいつまでも終わらないのです。
だから待てばいいのかなと思う。
将棋だと制限時間があるから許されないやり方ですけれどね。人生ならば待てます。
……まあ人生にも制限時間はあるんですけれども、ここは考えようでして、「永遠の離別」という言葉があるように、別れに伴う時間というのは基本的に無限に引き延ばされるんですよね。その無限を生きるのは本当に辛いことですので、人はしばしば耐えられないほどの辛さを感じます。しかし、無限に続くかのような時を過ごすというのなら、心象風景的には制限時間はなくなっていると言い換えることができます。となれば、いっそ、制限時間のない将棋みたいな気持ちで、いつまでも待つ。そういうことは可能なのではないでしょうか。
待つ間には本を読みましょう。永遠の離別を永遠に待つということは、理論上、永遠に本が読めます。
先日、エリザベス女王を主人公にしたフィクションを読みました。『やんごとなき読者』という本です。白水社から出ています。エリザベス女王は、多くの方よりも長生きしましたので、じつはとんでもない量の別れを経験している方です。もっとも、この本は女王陛下の別れの苦しみを直接書いたものではないですが、手を打たずに待つ女王の姿と、あるタイミングで手を打つ女王の姿とが両方描かれており、テーマは「限りある人生における、自分で選べない別れと自分で選べる別れ」ではないかと思います。湿っぽい本ではなく、ウィットに満ちあふれています。よかったらどうぞ。
あと、少し前になりますけれども、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』という本を読みました。この本の主人公はロボットです。人より長く生きます。この「人より長く生きるモチーフ」というのを私はとても好んで、しょっちゅう読んでいます。よかったらどうぞ。
そう言えば20年以上も前になりますが、ライトノベルで『狼と香辛料』というシリーズがありまして、これ、基本的には経済ラノベでして、かなりよくできているのでいちいち感心するのですけれども、主人公は狼娘で、もちろん人より長く生きます。よかったらどうぞ。
この際ですから申し上げますと、『薄暮のクロニクル』というマンガがありまして、これは機動警察パトレイバーを書いたゆうきまさみさんの著作なのですけれども、主人公は人なんですがもう一人の主人公が吸血鬼で、もちろん人より長く生きますがよかったらどうぞ。
あとは『ダンジョン飯』も……いや、これはあまり語らない方がいいかもしれませんが、よかったらどうぞ。既刊12巻で現時点では完結していませんが、なあに、永遠に待っているうちに必ず完結するはずです。
以上、本日は胸を張って申し上げます。かれこれ8本書いて消してこれが9本目になりますが結論ははっきりしています。永遠の離別に、「打つ」手はないです。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第7回
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☆今回のお悩み☆
会話をうまく続かせることができません。特に初対面の人ですが、仕事関係、プライベート、性別、年齢問わず、話題が次から次へと出るようになるといいなぁ、と思っています。
『水曜どうでしょう』やYouTube等での藤村さん・嬉野さんを見てると、どんな相手でも会話が途絶えることがなくてすごいなぁ~、と思います。 何かよいアドバイスはありませんか?
(PN:t-aoao@川崎)
こんにちは。病理医ヤンデルです。
奇遇ですね~。
私もかねがね、藤村さん・嬉野さんを拝見するたびに、会話がすごいなぁ~、と思っていたんですよ。これってt-aoao@川崎さんと一緒ってことですね。全く同感。
あのお二方、本当にすごいですよね。
で、そのすごさ、藤村さんと嬉野さんでは、微妙にタイプが違う気がするんで、ちょっと整理しますね。なあにすぐ終わります。ご相談にお答えするのはそれからにしましょうね。
まず、藤村さんのすごさというのは、舌先からとびだすパワーワードの豊富さ、移りゆく状況の中から的確な「編集点」を見出してメリハリを付けながら会話の進行をコントロールする巧みさ、目先の享楽的な話題に飛び付くときにすかさず一番楽しそうな顔になって声帯も肛門までも解放できるハイレベルな反射神経、それでいて現在進行中の話題が「どのような構造の中に含まれたものなのか」を俯瞰して分析し「目先の享楽ではない、本質的で持続的な快楽」に話題を引き上げることができる地頭の良さ、みたいにいくらでも上げられますが、今日の私が思いますに、
「トークしている相手を動かす力」
が半端ねぇなと思います。たぶん、これが一番、常人にはできないことじゃないかなあ。
たとえばYouTubeで、D陣おふたりは様々なゲストの方々とお話しをされていますよね。芸能人だったり、声優さんだったり、学者だったり、テレビマンだったりと本当にばらばらですけれども、それらの方々が、「どういう現場で、どちらを向いて立っている人か」というのを最初にきちんと把握した上で、その相手が「絶妙に、ギリッギリ取れるくらいのボールを投げる」のが藤村さんらしさだと思います。
いや、暴投してるわけじゃないんですよ。
胸元に投げるだけのコントロールがあり、相手が一番捕りやすい球速で投げられる肩もあるんです。しかし、ジャンプ一番手を伸ばさないと取れないところにやたらと早い球を投げてみたり、チェンジアップで相手があわあわとしつつ結局は胸元でパンとキャッチできるような球を放ってみたりする。そうすると、取りに行くほうはどうなりますか? 「体が温まる」んですよね~。つまりは「しゃべりやすい感じ」に自然と体がフィックスしていく。
さらに、ゲストがキャッチするときの動きが、観客にとって「魅せる」ものになるというのもでかい。会話ならではの楽しみ方です。放ったネタで客が一ウケして終わりじゃなくて、そのネタをキャッチする側のリアクションを見て、もう一ウケするということ。最近はリアクション芸人が人気ですけれど、やっぱり、「リアクションをさせる仕組み」あってのものだな、って感じます
さらにさらに、相手がボールを後ろにそらさない、「ギリッギリ取れる」というのがミソで、取れないボールを投げるとキャッチボールのリズムが悪くなるんですけど、結局は取れちゃうので、ポンポンやりとりがつながる。こりゃ楽しくてしょうがないですよね。
ちなみに、投げる球は基本的に水曜どうでしょうに関係のある……いや、違うな、そのとき藤村さんが手に持ってなじんでいるボールなんですよ。だからゲストはけっこうびっくりします。藤村さんに投げるんならやっぱり水曜どうでしょうのあの名シーンだよな……なんて、ロージンをたっぷり付けた「対決列島」を藤村さんに放ってみると、そのボールをいきなり藤村さんが木製バットでガツンと叩いてスタンドに放り込んで拍手喝采を巻き起こすんだけど、次に藤村さんがゲストに投げるボールがいきなり「最近ハマっている戦車ゲーム」だったりするから油断できない。
藤村さんの投げるボールの種類は時期によって違います。水曜どうでしょうのレギュラー放送時代は「甘い食べ物」をボールにしているときがありましたが、その後、「お酒」だったり、「演劇」だったり、あの方、どんどん好きなものを増やしていらっしゃるんですよね。その都度、藤村さんが手にするボールは変化している。水曜どうでしょうという「硬式野球ボール」を使ってキャッチボールするのが基本だと思わせておいて、本当に彼がゲストに向かってゲラゲラ投げてくるボールは「最近ハマっているクラフトジン」みたいな、手元でギュンと曲がったりホップしたりするピンポン球みてぇな球をいきなり投げてくる。ただし取れないものは投げないんですよ。ハンマー投げのハンマーとか、ウニとかは彼は投げない。だって自分でも持ちづらいし面倒くさいですからね。
そもそも藤村さんは、「何かおもしろい、新しいことを言おう」と常に話題を探して回るような、人気ラジオのアナウンサーみたいなことは、全くなさっていないんですよね。色とりどりのボールを買って揃えておくようなことをしない。「今の俺はこれが好きなんだ、楽しいんだ」というのが、彼のペースで少しずつ移り変わっていくことはあるけれど、彼がゲストを楽しませるために「このボールがいいだろう」みたいな選び方はしないんです。藤村さんがやっていて、他の大多数の人がやっていないのは、「投げる場所を工夫する」ということなんですね。あーそこに投げたらどんなボールであっても相手は笑いながら必死で取りにいくよなあ、みたいな。
じゃ、次に、嬉野さんのすごさについて、ごく簡単にご説明しましょう。なあにすぐ終わりますよ。
嬉野さんのすごさというのは、会話を彩る形容フレーズのバリエーションの豊富さ、会話相手がこれまで気づかなかった角度から話題に陰影を付け直す「ライティング」の巧みさ、目先の享楽的な話題に飛び付くときにパンすべきなのかズームすべきなのか、あるいはカメラを一切動かさずにぐっと待つのがいいのかと、会話における自らの立ち位置を一瞬で選び取るセンス、それでいて現在進行中の話題が「どのような時間経過のすえにそこにたどり着いたのか」を時間的に俯瞰して分析し「目先の享楽ではない、本質的で持続的な快楽」に話題を引き上げることができる地頭の良さ、みたいにいくらでも上げられますが、今日の私が思いますに、
「トークしている相手に考えさせる力」
が半端ねぇなと思います。たぶん、これが一番、常人にはできないことじゃないかなあ。
たとえばライブイベントで、D陣おふたりは様々なゲストの方々とお話しをされていますよね。芸能人だったり、声優さんだったり、学者だったり、テレビマンだったりと本当にばらばらですけれども、それらの方々が、「どういう話題を、どこまで言語化していて、どこからは本人の心の中でまだ言語化していない状態で抱え持っているのか」というのを最終的に浮かび上がらせるべく、その相手が「絶妙に、考えないと取れないタイプのボールを投げる」のが嬉野さんらしさだと思います。
いや、暴投してるわけじゃないんですよ。
胸元に投げるだけのコントロールがあり、相手が一番捕りやすい球速で投げられる肩もあるんです。しかし、今から君の胸元に投げるよ、と宣言してギュルンギュルンに曲がるカーブを投げたり、次は君の腹のあたりに投げるからね、と宣言してエグい揺れ方をしながら予想つかない角度で落ちるナックルを放るんですね。そうすると、取るほうはどうなりますか? 半信半疑でボールの行方を目で追うんですよね~。つまりはじっくりと「展開」を考えることになる。
しかも、そのボールは見たことない変化をするんですが、最終的に嬉野さんが言った通りの場所にストンと収まるようになっている。会話でありながらエンタメなんですよね。放ったネタで客が一ウケして終わりじゃなくて、そのネタが飛んでいる最中、キャッチする側も、観客も、固唾を呑んで見守っているから、最後にスパンとキャッチされるとワッともう一ウケするということ。
さらにさらに、相手がボールを後ろにそらさない、「結局取れる」というのがミソで、取れないボールを投げるとキャッチボールのリズムが悪くなるんですけど、結局は取れちゃうので、しっとりとやりとりがつながる。こりゃ楽しくてしょうがないですよね。
ちなみに、投げる球は基本的に水曜どうでしょうに関係のある……いや、違うな、そのとき嬉野さんが手に持ってなじんでいるボールなんですよ。だからゲストはけっこうびっくりします。嬉野さんに投げるんならやっぱり水曜どうでしょうのあの名シーンだよな……なんて、ロージンをたっぷり付けた「ジャングル」を嬉野さんに放ってみると、そのボールをいきなり嬉野さんが金属バットでカキンとスタンドに叩き込んで拍手喝采を巻き起こすんだけど、次に嬉野さんからゲストに投げるボールがいきなり「子どものころの駄菓子屋での思い出」だったりするから油断できない。
嬉野さんの投げるボールの種類もまた多彩です。水曜どうでしょうのレギュラー放送時代は……クリームパン……シカ……いや彼とキャッチボールできるなんて思ってもいなかったんだよな、……それがDVDが出て副音声が出て、嬉野さんがしゃべるんだってことがわかると(当たり前です)、「お父さんとお寺」だったり、「奥さんとバイク」だったり、あの方、昔からものすごい数のボールをお持ちで、それを青空に向かって放って自分でキャッチして、みたいなことをずーっとやってらしたんですよ。だから、嬉野さんが手にするボールには長年しみ込んだ汗の質量がある。水曜どうでしょうという「硬式野球ボール」を使ってキャッチボールするのが基本だと思わせておいて、本当に彼がゲストに向かってニコニコ投げてくるボールは「日向小次郎が荒波に向かって蹴りまくった黒いサッカーボール」みたいな、あっサッカーになっちゃった、まあいいか、常人からするとびっくりするような質量のボールを、山なりで、でもすごい変化をかけて投げてくる。ただし取れないものは投げないんですよ。円盤投げの円盤とか、イガグリとかは彼は投げない。だってそんなの捕ったら痛いですからね。
そもそも嬉野さんは、「何かおもしろい、新しいことを言おう」と常に話題を探して回るような、人気ポッドキャストのインフルエンサーみたいなことは、全くなさっていないんですよね。色とりどりのボールを買って揃えておくようなことをしない。「昔から俺はこれが好きなんだ、今はさらに楽しいんだ」というのが、彼のペースで少しずつ醸成されていくことはあるけれど、彼がゲストを楽しませるために「このボールがいいだろう」みたいな選び方はしないんです。嬉野さんがやっていて、他の大多数の人がやっていないのは、「投げたボールをみんなに目で追いかけさせる」ということなんですね。あーその軌道で投げたら相手は目で追いながらきっといろいろ考えるんだろうなあ、みたいな。
ね。藤村さんと嬉野さんってちょっとずつ違うでしょう。『水曜どうでしょう』やYouTube等での藤村さん・嬉野さんを見てると、どんな相手でも会話が途絶えることがなく、しかもそれが、話題になるようなネタをいつも仕入れているためとかではなくて、言葉のキャッチボールをする際に相手と観客をどうやって自分なりに楽しませようかなっていう工夫……というか場を楽しくするための気概があるんだなってことが、だんだんわかってくるんです。
で、それをどうやったらマネできるかって? ぼくは藤村さんでも嬉野さんでもないので、あなたと同じように、すごいなあとは思いますが、どうしたらいいかはぜんぜんわかんないです。ていうか、D陣おふたりに聞いてほしいです。なんなんだよこのコーナー。あー、でも、キャッチボールなんだから、ボールをいっぱい探しに行くとかじゃなくて、投げ方なんじゃないのかな、ってことは書いていてわかった気はするんですけれども、これはアドバイスかというとあんまりそういう感じもしませんし、つまりはまあ、私からは特段こう、申し上げられるレベルでの打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、いかがお過ごしですか。@SHARP_JP の山本です。さて今回は、私もその答えが切実に知りたいお悩みです。私もなかなかどうして、口下手な人間です。特に初対面の相手となると、いっそう「会話を続けること」自体が目的化してしまい、焦ったり、よくわからないことを言ったりと、不審なムーブをとってしまいがち。人との会話が怖い、とまでは言いませんが、会話が負担となる場面は多々あります。なので、そもそも自分が知りたい回答を、はたして自分でひねり出すことができるのか、はなはだ難儀な気持ちになりながら、進めたいと思います。
いま私は前文で「進めたいと思います」と書きました。おそらく私はここから先、つらつらと話題を提示しつつ、途絶えることなく文章を書くことができます。できます、というと正確でないかもしれません。今この瞬間はまだできていないけれど、数瞬後にはできているという確信があります。少なくとも私は、書くことにおいては、相談者さんのようなお悩みを抱くことはありません。書くという行為に限って、私は「うまく続かせることができない」という心配を回避できています(もちろんそうやって書かれた文章がおもしろいかどうかはまた別の問題ですが)
なぜ私が書くことにおいて、うまく続けられないという不安から自由であるかといえば、それはもう場数の問題といえるでしょう。なぜか私は、書くことが大きなウェイトを占める仕事に就き、書いたものを発信するという職務を長らく続けています。自慢する気持ちはありませんが、結果として私は、一般的な人より膨大な量を書き、それを世に放ってきました。その経験が私から、書くこと(そしてそれが読まれること)への苦手意識を取り去ってくれたのだと思います。
と、ここまでつらつら書き進めました。続けましょう。
では私はなぜ、書き続けるのは平気なのに、おしゃべりを続ける行為に苦手意識を抱くのでしょうか。たぶんそこには、書くこととしゃべることの本質的な違いが横たわっているのではないか、と思っています。
少々乱暴に言いますが、おしゃべりが他者との会話であることに対して、書くことは自分との対話です。たとえ書かれたものが、最終的に読まれることで他者とコミュニケーションを図るものだとしても、書いている間は自分との対話によってしか、書くことを進めることができません。冒頭で私が「今この瞬間はまだできていないけど、数瞬後にはできているという確信」と述べたのは、私は私と一文ごとに対話して、次に自分がなにを言うのかを発見する連続こそが書くことではないか、と考えているからです。
私が私と対話すること。それが書くための動力です。翻って会話とは、他者を相手におしゃべりすることです。仕事での初対面なんか、名刺くらいしか寄る辺のない他者でしょう。対話の相手は、勝手知ったる私の中の私。会話の相手は、私の外にあるむき出しの他者。どうやら私の苦手意識には、そういう対話と会話のちがいに関係がありそうな気がしてきました。
私もそこそこ年をとりました。職歴も口下手歴もそこそこ長くなりました。おそらく私は「書ける口下手」という微妙なポジションで、ベテランになりつつあります。そしてベテランゆえに私は、対話と会話を分けるものに、おおよその見当がつくようになりました。対話と会話を分けるもの。それは「たわいのなさ」と「段取り」だと思うのです。
暑いね。暑いですね。どこ行くの。ちょっとそこまで。特に目的もなく、なんとなく交わされるやりとり。私たちの日常は、すべて「意味」が付随する行為だけでできているわけではありません。意味のない行為があるからこそ、私たちは息がつまることなく、リラックスして生きることができます。そしてそういう、特に意味を持たない「たわいのなさ」を交換する行為が、会話にも含まれています。終わりも道筋も見通すことなく、ダラダラと友だちと続けるおしゃべりが楽しいのは、おそらく「たわいのなさ」があって「段取り」がないからではないか、と私は思うわけです。
一方対話はそうはいきません。対話は文字通り、相手と面と向かって行われます。上司と部下が机を挟んで話し合うシーンが典型でしょう。そこでは報告あるいは説得、時には叱責が行われます。対話とは、なんらかの目的に向かって双方が話し合ったり、あるいはこの場の意味を両者で共有するためにおしゃべりが進められます。揉めている人同士が話し合うことを会話と呼ばないように、対話には「たわいのなさ」はなく、ひたすら目的に向かうための「段取り」だけがある、とも言えるのではないでしょうか。
そう考えて行くと、私が会話より対話の方に苦手意識を感じないことも、あながち無理もない気がしてきます。私はあくまで仕事や職務的な要請から、書くこと(書き続けること)を、自身との対話を通して追求してきました。仕事で書くのだから、目的があり、段取りが存在します。そうやって私は、とことん合目的化した人間になってしまった。そして会話にも段取りを持ち込もうとするようになった。会話に段取りを持ちこむような人間の話に、たわいもなさが存在するはずもありません。こうして会話が苦手な私ができあがった、そういう風に思えてきます。なんだか切なくなってきました。
さてここで私は、ひとつ恐ろしいことに気づきます。藤村さんと嬉野さんのことです。あの方たちはなにをやってきたか。よくよく思い返せばあの方々は、どうでしょうで、会話のおもしろさをわれわれに見せ続けたのではなかったか。遠慮のいらない男4人が繰り広げる会話には、たしかに「たわいのなさ」があふれ、「段取りのなさ」の魅力に満ちていました。そしてわれわれは、あの人たちの会話を聞く快楽を知ってしまった。だからあのおふたりに、そもそも会話で勝てるわけがないのです。ひとたびあの方たちがしゃべれば、私たちはただ、耳を傾けざるを得ないのです。ただまぁ、打つ手はないです。
(追伸)
「打つ手はないです」で終わるという縛りが設けられたコラムですから、追伸が禁じ手であることは重々承知の上で、今回はどうかご容赦を。実は今回の相談者さんに、うってつけの書籍があります。田中泰延さんの『会って、話すこと。』という本です。目から鱗とはちがいますが、読めばおそらく気持ちが楽になること請け合いですので、ご一読をおすすめします。
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山本隆博
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病理医ヤンデル/市原真(43)
好きなどうでしょうはユーコンです。
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第5回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
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☆今回のお悩み☆
物心ついた時からこうでした。
悩みというより、不思議に思っていることがあります。
幼稚園に行かず、小学校に上がるまで自宅でずっと過した自分ですが、 誰に教えられるわけでもないのに腐っていました。 腐っているという表現はもっともっと大きくなってから意味を知っ たのですが
男女の普通のロマンスの数倍、男同志のロマンスに興味を惹かれてしまう体質です。 誰からも教えられていないのに、変換する脳が備わっていて、 しかもそれがあまり大っぴらにしてはいけないということを幼児に して知っていてこっそり、こうであったらばな、 あれはこういうことであったのであろうなどと、 自らの妄想の世界に一人でいるしかありませんでした。
そして、小さいころあんなに「どうしてこうなったのだ」と悩んでいたのに、長じてみると、 こんなに同じことを考えている人が多くて、何でもないのだ。 それもまた解せぬ。
どうしてこういう芽が種もなく生えてくるのでしょうか?なんの役に立つのでしょうか?男の人にもあるのでしょうか。 (P.N のりぞう)
のりぞうさん、メッセージをお送りいただきありがとうございました。さっそく拝見して、私がおやっと思ったのは、冒頭の「悩みというより、不思議に思っていることがあります。」の一行でした。
のりぞうさんは、本コーナーの趣旨が「お悩み相談」であることをご存じの上で、「不思議に対するQ&A」としてメールを送った方がいい、と感じられたわけですね。
ここでわざわざ言い換えてくださった、「悩むこと」と「不思議に思うこと」の違いとは、なんでしょうか。
「悩む」とは、自分が直面している「あるものごと」が、自分がそれまで育んできた価値観や、暮らしていく上で頼りにするべき土台、あるいはよすがにしているシステムと、噛み合わないときに生じる感情です。噛み合わない、つまり歯車同士がうまくマッチしないと、価値観はジワジワとおびやかされ、土台はグラグラとゆるがされ、システムはボロボロに破壊されるかもしれません。もしそうなれば、これまで自分が自分であり続けてきた「当たり前の毎日」が変わってしまうかもしれない。
そういうとき、人は悩みます。
「あるものごと」には魅力がある。しかし、それを導入してしまうと、安穏と暮らしていた日々が壊れてしまう。現状が維持できない。
魅力があるものを取り入れても、何も変わらずに暮らしていけるのならば、誰も悩みません。しかし、「何かを手に入れる代わりに、何かを失うかもしれない」となるからこそ、人は考え込んでしまうのです。
これが、一般的な「悩む」という感情だと思います。
例をあげましょう。
美容師さんが、あなたに声をかけました。「今回、いつもと変えてみますか? 少しカラーリングを明るくしてみるとかいかがでしょう」。なるほど、気分が変わっていいかも。流行りの色に合わせるのもおもしろいかも。しかし、例えばこれ、私だったら、だいぶ悩むと思います。
私は自分の髪の毛の色が黒であることを前提とした生活をしています。服の色や、メガネのフレームが、新しい髪の毛の色と合わなくなるかもなあ、と思って悩むでしょうね。
さらに言えば、私は病院で仕事をしています。患者さんとすれ違うときに「チャラチャラした職員だ」と言われるのがちょっとコワイ、みたいな懸念もあります。いや、いまどき、医者が髪の毛を染めていたからって誰も怒らない? うーん、そうでしょうか? 世の中にはいろいろな価値観の人がいますからね。どうしようかなあ……。
これぞ、「悩む」です。カラーリングという「あるものごと」を選べば、私の日常は多かれ少なかれ影響を受けます。
「悩む」にはまだほかにもパターンがあります。たとえば、「当たり前になってしまった毎日に不満がある人」も、悩みますね。この場合は、さっきとは逆で、自分が浸ってしまっている価値観、自分が依存してしまった土台、自分が生かされてしまっているシステムを、「あるものごと」によって破壊してしまったらどうなるだろうかと思い、そのような破壊妄想そのものに魅力を感じつつも、どうしても伴ってくるであろう暴力性によって「悩む」わけです。
また、「確かに今までの自分の暮らしかたに不満はあるけれど、全部ぶっ壊してしまうというのは、やりすぎだなあ。毎日がまるで別モノになってしまってはイヤだなあ」というような、「どっちつかず」の気持ちにまごまごしてしまうこともあります。こういうときも、人は「悩む」。
「悩み」にはいろんなパターンがありまして、ここで具体例をいちいち挙げてもいいのですが、文字数が大変なことになりそうですし、やめておきましょう。
では、次に、「不思議に思うこと」とはなんでしょうか。
「不思議」とは、自分が直面している「あるものごと」が、自分がそれまで育んできた価値観や、暮らしていく上で頼りにするべき土台、あるいはよすがにしているシステムと比べて、「まるで違う論理で動いている」ときに生じる感情です。
ん? 「悩む」とどう違うのかって? それはですね。
「悩む」とは違って、「不思議」は、「自分のそれまでを壊さない」と思うんです。
先ほどご説明した「悩む」では、「あるものごと」が、まるで歯車同士がぶつかるように、それまでの自分を取り巻くものと衝突しました。
でも、「不思議」は、「あるものごと」が衝突しない。ただ、今まで自分が見てきたものと違うだけ。干渉しない。他者。世界線が交わらない。歯車が合うか合わないかという論点がない。
「あるものごと」が、シンプルに、「ああ~違うなあ~」と感じられるとき、人は「不思議だなあ~」と言います。
例を挙げましょうか。
ミスターは急いでいる日の朝にインキーしました。
このとき、ミスターがインキーをした理由がわからないからと言って、大泉さんや藤村さんの価値観が直ちに揺るがされるわけではありません。
大泉さんは「不思議だもん、エンジンかかってんだから」と言いました。ここで「悩むよね、エンジンかかってんだから」とは言いません。しっくり来ませんよね。
なぜなら、大泉さんは、ミスターを駆動しているインキー論理を目の当たりにして、純粋に「ああこの人は自分とは違う」とは思っていても、自分の価値観や土台、システムが揺るがされるとは思っていませんからね。
「不思議」は、「悩む」とは違って、それまでの自分を壊さないのです(アメリカ横断のスケジュールは壊れましたが)。
こうやってまとめてみると、「不思議」のほうが「悩みよりも」軽い感情……みたいに思えるかもしれません。
「若きウェルテルの悩み」が、「若きウェルテルの不思議」だったら、ウェルテル、学研ひみつシリーズ読んでそうだなって感じで、確かにちょっと可笑しいです。切迫感はないですね。
でも。
「不思議」と思う気持ち、自分とは違う論理で駆動している「全き他者」のメカニズムを知ろうとするありようは、「悩む」に勝るとも劣らないくらいの、とても高度な、すばらしい脳のうごめきです。
「悩み」と「不思議」とは、どちらがすごいとか、どちらがより大切だという類いのものではないと思います。
それはさておき。
そろそろ、のりぞうさんからいただいた相談に話を戻しましょう。
あなたが「不思議に思っていること」は、文章としてやや複雑な構造をしているのですが、「不思議」のコアは文末にある以下の部分だと思います。
「どうしてこういう芽が種もなく生えてくるのでしょうか」
「なんの役に立つのでしょうか」
「男の人にもあるのでしょうか」
それぞれ、
・生殖行動と直接関係しないロマンスを感じ取れる脳に対する驚嘆
・歴戦の腐パーソンズにこすられまくった伝統的な命題
・セックス/ジェンダーが思考に影響するかという基礎的かつ深淵な問い
だと思います。
のりぞうさんは、これらを「悩み」ではなく「不思議」だと思われたのですよね。
なぜでしょうか?
答えは、あなたがご自身で書かれています。
「長じてみると、こんなに同じことを考えている人が多くて、何でもない」。
大人になったあなたは、理解者を多く得たのですね。
そのおかげで、これらの問いを「多くの人と安心して共有できそうだ」と感じ、「あなたをおびやかさない、揺るがさない、壊さない」場所に立つことができたのでしょう。だからこうして相談コーナーにも投稿することができたのだと思います。
「脳ってすごいな。役に立つか立たないか、今の私にとってはどちらでもいいけどみんなはなんて答えるんだろう。男の人にもあるの? まああってもなくてもいいけどさ。
不思議っちゃあ、不思議だよね。」
さて。
じつはこの相談には、まだ見どころがあります。
それは、おそらくあなたの心から漏れてきたのではないかと思われる、以下のフレーズです。私はここを何度も読み直しました。
“小さいころあんなに「どうしてこうなったのだ」と悩んでいたのに”
そう、あなたは、小さいころには、「悩んでいた」のです。
なぜでしょうか?
「あまり大っぴらにしてはいけなかったから」。
小さいころのあなたが育まれてきた価値観や、頼っていた土台、大人に与えられたシステムと、「大っぴらな妄想」は、噛み合わなかったんですね。
価値観はジワジワとおびやかされ、土台はグラグラとゆるがされ、システムはボロボロに破壊されると思ったんですよね。
小さいあなたの「当たり前の毎日」が、変わってしまうかもしれないとおびえていらっしゃったんですよね。
今のあなたほど、理解者もおらず、頼れる価値観も、当時の社会に用意されたものでしかなかったから……。
今回の相談文には、「あなたが大人になる過程で解決した悩み」を含んでいます。そんなあなたの「かつての悩み」を生んだのは、BL妄想そのものではなく、それと噛み合わなかった社会の価値観、土台、システムだったのではないかと私は思います。
「そうやって考えることは普通じゃない」
「そうやって考えることは下品だ」
「そうやって考えるなんてとんでもない」
と、価値観を押しつけてくる人たちが「いそう」な雰囲気。
「大丈夫、そういう妄想、するよね!」と理解を示してくれる仲間がいない状態。
そんな暮らしをしていた小さいころのあなたは、BL妄想が(自分とではなく)社会と噛み合わないことに、ひとり「悩んでいた」のだと思います。
でも、それは。
あなたの交友関係によるものか、成長して精神が成熟したためか、あるいは、社会が「そういう妄想をも噛み合わせてくれる」くらいには多様になったためか。
いつしか、「不思議」にチェンジしていたのですね。
できればこれからの社会では、小さいころのあなたが抱えていたような「悩み」がちょっとでも減っていれば……理解者があちこちに暮らしていればいいな、と思います。
「悩み」を「不思議」に変換できるような、フレキシブルな価値観、包容力のある土台、応用の利くシステムの中で、みんなが暮らしていればいいな、と思います。
あーつかれた。
今日はもういいですね。めちゃくちゃ考えました。へとへとです。骨太だった。じゃ、そろそろこのへんで。
……え? 悩み相談?
だってもうあなたの場合は、それもう「不思議」になっちゃってるでしょう。そういうのは、夏休みこども電話相談に送ってもらったほうがいいです。このコーナーとしてはねえ、「不思議」には、えー、まあ、打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、お元気ですか。@SHARP_JP の山本です。今年はさんざんやばいぞやばいぞと触れ回っていたせいか、夏に身構えるあまり、暑さにどうにか対処できている気がします。信じられないほど世の中が目まぐるし過ぎて、暑さへ注意が向いていないだけかもしれませんが。
さて、今回のお悩みです。お悩みというか、一種のカミングアウトと言えるのかもしれません。物心つく前から腐っていたという、相談者さんの告白です。
物心つく前から腐っていた。まるで意思を宿すことになったゾンビを描く、実験的なゾンビ映画がはじまりそうなモノローグに思えてきますが、そうではありません。腐るとはこの場合、有機物の腐敗を指すわけではありません。ニンゲンが腐るという意味ではゾンビと似ているのかもしれませんが、ここで腐るのは肉体ではなく、どちらかというとニンゲンの脳です。さいきん認知が進んだとはいえ、腐という文字を見て、意味の第一候補にBLが挙がる人はまだまだ少ないのではないでしょうか。BLのBに属し、Lを投影される男性ならなおさらかと思います。
しかし私は違いました。お悩みの文章に忽然と現れる「誰に教えられるわけでもないのに腐っていました」を一瞥してすぐ、これはBLの話だなと理解しました。申し遅れましたが、私はBL方面に話がはやい男性なのです。
なぜ私がBLに話がはやい一般男性かというと、自分がBLの素材としてきわめて親和性の高いマンガの主人公となり、BLを主とする出版社から書籍化されるという、そうとう粘度と難度の高い経験をしたからですが、長くなるので割愛します。気になる人は「シャープさんとタニタくん」で検索してみてください。いまでも書籍は買えると思います。
とにかく私がその時に理解したのは、BLとか腐女子と称する人たちが愛好し志向する目的とは、自身の性的嗜好を満たすのではなく、意識や認識のレイヤーを各人が増やそうとする行為にほかならない、というものでした。言い換えると、日常を取り巻く2つの事物の間にLOVEのフラグやサインをめざとく検知し、あらゆる事象に見えない物語を見出す力、とでも言えるでしょうか。つまり腐ったと自称される人とは、五感による世界の認識に腐という第六感を付加することで、物事の背景と奥行きを常人の何倍ものパワーで構築できる能力者なのです。
そして「腐」がそのような異能を指すのであれば、「誰からも教えられていないのに変換する脳が備わっていた」という相談者さんの述懐も、あながちないとも言えない気がしてきます。腐とはそもそも、人間が先天的に獲得する能力なのかもしれません。幼い子が石や木の枝といった、抽象性の高いモノでごっこ遊びに耽る様子を見ても、人間はそうとう早い段階から事物に物語を見出す能力が備わっているのではないかと、私は思います。
しかしここで同時に素朴な疑問も生じます。相談者さんはこうも続けるのです。「長じてみると、こんなに同じことを考えている人が多くて、何でもないのだ」ということがわかった、と。実は同じような能力者がこれほどまでにたくさん存在することを、大人になって知ったわけです。どれほど多いかというと、私が主人公となるマンガが出版社から書籍化され、それが書店で販売されるほど、です。つまり産業と呼べるレベルで、需要と供給や雇用の仕組みが社会にできあがり、文化と呼べる時間をかけ、歴史や作品が豊穣に積み上げられてきたわけです。
そう考えていくと、腐の能力を天与の才としてだけ語ることもまた、そうとう乱暴であると思うのです。腐は決して先天的なものだけではない。だれかから受け継がれ、育てられる能力という側面もあるはず。だから私はここで、ひとつの仮説を持つにいたります。
相談者さんのご親族、たとえばお母様が腐の者であった可能性はありませんか。物心がつく前から腐っていたとおっしゃる相談者さんは、物心がつく前から腐の指南を受けられていたのではないですか。私は相談者さんが腐の帝王学を修めた方ではないかとにらんでいます。折しも私は知っています。古の時代より腐を極めたベテランの方は、腐ェニックスと称されることを。もし可能であるなら、お母様と腐に関して、腹を割ってお話をされるとよいのではないでしょうか。ただまぁ、打つ手はありません。
ーーー
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(43)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第4回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
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☆今回のお悩み☆
実は、これはもう終わった出来事なんですが、かなりもやもやした思いが残ったので、お二人の考えを聞きたいと思い、相談します。 某有名アイス店でシングルを注文したら「今、料金はそのままでダブルにできます」と言われました。私は、野菜のようなたくさん食べてもいいものなら追加しますが、アイスなので追加したくなくて断りました。 すると、店員さんは引き下がらずダブルを勧めてきました。そこからは、先輩店員も出てきて「後から苦情のような事を言われることもあるので…」とよくわからない言い分でしつこく勧められて、私も意地になり「いらないって言ってるんだからいいじゃないですか!」と言い争いになる始末。 結局こちらが折れてダブルにしましたが、あれは何だったんでしょうか? なんかお得の押し付けのような気もしますが、私がおかしいのでしょうか? どうぞよろしくお願いします。
どうで荘にご入居のみなさん、こんにちは。@SHARP_JP の山本です。あっという間に梅雨が明けてしまいました。北海道には梅雨がない、という説はこの時分に定番の世間話ですが、ひょっとしたらその前提も変わってしまうのかもしれません。さいきん北海道で、エアコンがたくさん売れていますし。
さて、今回のお悩みです。お悩みというか、私には世のビジネス論とか、高度資本主義と呼ばれる世界への警鐘に思えてなりませんでした。寄せられた相談文をはじめて読んだ時、ちょっと考え込んだくらいです。これはただのお悩みではない。なにか、私の本来の仕事に対して非常に重要な示唆に富んでいる。そんな予感がしております。
人間は合理性を好み、合理的に行動する生き物である。私たちはざっくりと、そういう大枠の人間観に同意しつつ、毎日を生きています。なぜかというと、そう信じていないとやってられないから、だと思うのです。世界はあまりに複雑で、そこで生きていくにはなにか真実めいたルールを適用しないと、私たちは狂ってしまうのでしょう。
しかし日常は、容易にその人間観を揺さぶってきます。私たちはふつうに暮らしていたって、理不尽な目に会います。たまたま入ったお店でも、いつもの通勤電車でも、あるいは職場でも、最初から最後まで疑問符しかつかない怒りを撒き散らす人がいるし、時には理不尽な偏見や抑圧の目に自身が晒されることもあるでしょう。そんな理不尽で具体的な経験談があふれたSNSをひらくたびに、はて人間は合理的な生き物だったはずだよなと、私は頭を抱えたくなります。
目を離したすきに明後日の方向へ駆け出す。食卓にひろがる信じがたい食べこぼし。まったく筋の通らないイヤイヤ。小さなお子を育てる親御さんなら、いずれ合理性を獲得するのが人間だ、と呪文をとなえながら成長を見守られていると思います。どうやら人間は生来的に合理的ではない。そう思い知らされる時間です。
一方で私たちは、非合理が人間の胸を打つ経験もします。というか、なんとも説明のつかない表現が、見た人の心になんとも説明のつかない衝動をもたらすことこそ、芸術やコンテンツの力だとも言えます。
人間が繰り広げる、非合理的な行動がなぜこうもわれわれを魅了するのか。水曜どうでしょうを履修したみなさんなら、全員が知っているはずです。無意味や理不尽が時に痛快であること。合理性の追求が人間の創作の動機でないこと。ミラクルがあること。それを、身を以て証明したのが、あの番組の存在だと思うのです。
とにかく私たちは、人間は合理的に行動するといったんは解釈しつつも、どこか釈然とせず生きているのでしょう。むしろ合理性からはみでた存在を、愛おしく思う節すら私たちにはあります。つまり、人間は合理的でありつつも非合理的な生き物である。そのゆらゆらした立ち位置こそが、私たちが複雑で残酷な世界を生き抜く合理性なのかもしれません。
しかし、そのゆらゆらした立ち位置を徹底的に排除する場所があります。私たちがあくせく働くビジネスという場です。費用対効果だとかコストパフォーマンスだとかいう言葉が飛び交う職場は、人間の非合理性をとことん漂白することで生まれてきました。だからそこでは、人間が合理的に行動する以外の行動は、いっさい想定されません。そしてそういう場所(たいていは大きめの文字でマーケティングなるワードがつく部署)だからこそ、「アイスを買えばアイスがもう1個」という企画が生まれたはずです。
ですから相談者さんは、アイス屋の店員さんからすればまったく予想もしなかった登場だったのだと思います。おそらく「アイスを買えばアイスがもう1個」キャンペーンの店舗マニュアルにも、あなたのような存在は書かれていなかったのではないか。あまりに想定外だったからこそ、店員さんは頑なな態度しかとれなかったのでしょう。
人間はすべからく得を求める。企業の側はそれを所与にしないと、マーケティングがあまりに複雑すぎて、なんも計算ができないのです。だから、タダなのに享受しない人間は、見ないことにする。複雑なお客さんは透明にされるのです。ひどい話ですよね。
合理性の追求は、ほかの合理性を排除します。そうする方が仕事の効率があがり、合理的だからです。あなたの「野菜のようなたくさん食べていいもの以外はむやみに食べない」という姿勢は、徹底的に人間を単純化すればいいという、企業やビジネスの乱暴さを浮き彫りにしました。しかし悲しいかな、向こうにとっては、あなたは透明な存在なのです。
けれど私は、あなたの主張こそが合理的だと思います。自分で自分の人生を健やかにしようとされているわけですから、圧倒的に正しい。人は金という合理性にのみ生きる。そういう風に人間を単純化する企業にこそ、未来の市場へ打つ手はありません。私はそう思います。自戒を込めて思います。とはいえ私なら、まんまとダブルにしてしまうと思う。ただまぁ、打つ手はありません。
これはモヤりますわ。もやもやするのも、無理ないです。「あれは何だったんでしょうか?」にはすみません、ちょっと笑いました。ほんと何だったんですかね。おかわいそうに。お察しします。大変でしたね。
こういう店員さんみたいな人っていますよねー! こちらの都合とか好みとかを何も聞かずに、いきなり、「これを差し上げます」って一方的にモノを渡してくる人。基本的にそういう人から渡されるものって要りませんよね。だから、相手との関係にもよりますけれども、まあ要らないものは要らないってことで、正直に答えるわけですよ。すると……。
「要らねぇ」
「ああ?」
「要らねぇっつってんだよ」
「なんだと鈴虫」
「こんなもの別に欲しくねぇっつってんだ」
「黙って受け取れバカ野郎」
「(カチッ)」
とまあ、こんな感じでつばぜり合いが勃発してくるわけですよね。
ひたすら善意を押しつけてくる人。
本当に私のためを思っているんだったら、私が「それは要りません」と言ったときに、「ああ、要らないならあげるのはやめよう」と思ってくれるのが普通じゃないのかな、って、私も考えてしまいます。ですから相談者の方に100%同意です。
結局こういうことをする人の中で駆動している原理は、私に対する善意じゃなくて、「これを相手に渡すことで自分が良い気持ちになる」という、他でもない、自分に対する善意(何それ)ですよね。
「後から苦情を言われることもあるので~」とかホントに知ったこっちゃないですよ。こっちの都合なんか1ミリも考えちゃいねぇな。
そういう「自分への善行に忙しい人」と関わっていると、いくら日ごろおだやかな我々としても、だんだんイライラしてくるのは当然ですよね、ついカッとなって、バールのようなもので背中をかきながら、
「とにかくこれ要りませんから。はい。要りませんよ」
とね、毅然として対応するしかない。そしたら、たいてい、こんなこと言われませんか?
「こっちはよかれと思ってやってんだよ」
出た~~~~~~~~~~~~~~よかれ~~~~~~~~~~~~~~~。
「よかれと思ってやってんだよ」が出るシーンって基本的に「やってることが裏目に出てるシーン」だけです。私たち、こんなセリフ恥ずかしくて言えませんよね。本当に相手のことを考えていたら。でもあなたのアイスクリーム屋さんしかり、こういうことをやる人はどこにでも……
あれ?
今のセリフもなんかどっかで見たことありますね? たしか西表島あたりで……。
じつは今回、ご相談にお答えしようとして、文面を読んで考えている最中、なぜか、アイスクリームのダブルの要る要らないみたいなちっちぇえ押し問答をしているのが、とあるスズムシとゲンゴロウのやりとりに変換されてしまって私はたいそう困惑しました。
そして今実際にこうして回答を書きながら、ふと思ったのです。
「余計なお世話」や、「よかれと思って」をエンタメにした某番組は偉かったなあ……と。
「よかれと思って」が太字で画面一杯の字幕になる番組、他にないですよね。人間の本質に近いところにある汚ねぇ部分を抽出して笑いに変えていく構造、エグいなあ。だから歴史に残るんだろうなあ。
最終的に今回の件で折れたあなたは、今モヤモヤしていることも含めて、ポジションとしては大泉さんみたいなもんですよ。誇っていいんじゃないでしょうか。
以上、今回のご相談ですが、えー、すでに終わったことだと相談者さんも書かれておりますので、まあ、打つ手はないです。
ーーー
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(43)
好きなどうでしょうはユーコンです。
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シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第3回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆今回のお悩み☆
2年前から在宅勤務が始まり、会社に
行かなくなってから、同居している母が、
色々な人からかかってくる電話
(私はこの電話の事を“生存確認”と呼ぶ。
何故なら妹や弟、母が昔から仲の良い
友達からだからだ。)で、「私は娘
(つまり、私)が結婚するまでは死ねない。」
と言っているのが聞こえてくる。
私は別に結婚しないつもりもないし、
嫁に行かないと言った覚えもない。
でも、毎度毎度“生存確認”の度に言われると、
さすがの私も凹みます。
こんな母へどんな対応をしたら
良いのか教えて頂きたいです。(PN:恋するうさぎ)
こんにちは。興味深いクエスチョンです。どうもありがとうございます。
さっそくですが2×2表を作ってみていいですか? 医者がけっこうよくやるやつです。これによってデータを整理して、厳密な解析をしてみようと思います。
はい、ドン。
あなたが結婚しないかどうかと、お母さまが死ねないかどうかについては、この4パターンがあります。さっそく空欄を埋めて参りましょう。
まず、あなたが結婚しなかったときです。お母さまは「結婚するまでは死ねない」とおっしゃっていたので、複雑かつ緻密に専門的な分析を致しますと、つまりはこういうことかと拝察いたします。
「そうありたい」。まあこれですよね。かなり困難な検討でしたが、私は医者ですので、非常に論理的にこの結果を導きました。
さて、次に行きましょう。人体ってほんとうに不思議で、あなたが結婚しなければお母さまは死ねないとおっしゃっているようですが、人間の寿命というのはいつか必ずやってきてしまいます。ですから、左下の欄ですね、たとえあなたが結婚しなくても、じつはお母さまは……。
こうなのです。残酷ですが、これは医学的な事実です。エビデンスもあります。人はいつか死にます。悲しく、寂しいことです。
では次に、あなたが結婚したパターンも見てみましょう。あなたは、「結婚しないつもりはない」とおっしゃっていますので、つまり、厳密に考えますと、結婚される可能性があるわけですから、ここも検討の価値があります。
さてこのあたりから衝撃の事実なのですが、あなたが結婚しないと死ねないと言ったお母さまは、あなたが結婚しても、たぶん死にたくないと思います。データは不十分で追加検討の余地はあるにせよ、これまでの私の臨床経験から推測致しますに、空欄をこのように埋めることが可能かと考えます。
「そうありたい」。あなたが結婚したからそれで安心してはい死ねます、という人間って、えー、そのー、たぶんあんまりいないと思うんですよね。なんだかんだ、子どもの行く末を見てみたいんじゃないかな。たいてい。ここ、エビデンスレベルがやや低いですけれど、観察研究的にはまあ、こうだと思います。
そして……最後に残った枠。くり返しになりますけれども、とても悲しいことですが、人はみな、必ず寿命がやってきます。あなたが結婚したあとで、残念ながら、他の人と同じように、あなたのお母さんもいつか天寿をまっとうされる日が来ます。これはもう、間違いありません。早いか遅いかの違いはあれ。それが遅ければいいなと願いつつ。
……できました。
非常に稠密(ちゅうみつ)な検討の結果、結論が出ました。
あなたが結婚しなくても、結婚しても、お母さんは死ねない(そうありたい)。そして、人は、いつか死ぬ。
2×2表を用いることで、非常に明確で、かつ、少しだけ残酷な、でも、希望を抱きたくもなるような結果が導かれました。
いかがでしたか?
驚かれましたか?
無理もありません。こんなにはっきり結果が出るなんて、びっくりですよね……。
ただし、2×2表は、なんだか高校時代の数学の、統計学とか場合分けのようなものをほうふつとさせますね。人間味がないですよね。パッと見でよくわからないし。うっとうしくもある。
これでは、「説明のへたな医者」のそしりを免れません。
そこで、よりわかりやすさを追究するために、図にしてみましょう。情報を視覚化することは大切です。
そうそう、あなたはお母さまに電話がかかってくることを「生存確認」とおっしゃっているのだそうですね。滑稽さ、哀愁、人生の無常さ、軽いテンションが入り混じった、どことなく落語的なテンションを感じました。誰かから電話がかかってくるたびに「生存確認されたの?」と言われるお母さまのお気持ちはどんな感じかなーというのがちょっと気になったりはしますが……あ、そうか、言われてはいないのか、あなたの頭の中で親しみを込めてそう呼んでいるだけなら問題ないですね。まあ、お母さまの方も、あなたに直接言うでもなく、妹さんや弟さんとの会話の中で、(おそらくはあなたに聞こえるか聞こえないかくらいの距離感で)直接あなたに言うともなしに、「(あなたが)結婚するまでは死ねない」とくり返されているとのことで、これはつまり、お互いに、相手に直接言うではなしに「生存確認」「死ぬに死ねない」とおっしゃっておられるのかな、と理解をしました。というわけで、直接言っているわけじゃないからその言葉使いについては一切問題ないと結論しまして、あなたのおっしゃった「生存」という言葉が、なんだかぎょっとしつつも愛らしいなあと思いましたので、少々拝借いたしまして、グラフを作って見ました。
縦軸が生存確率。
横軸が時間です。
左のグラフが、あなたが結婚しなかった場合の、お母さまの生存確率です。これは本当に、人類という名の生物を生み出した物理法則や化学法則、あるいはそれを超越するような何か、そういったものを恨むしかない……という残酷な結果ではありますが、人間は生きていれば時と共に必ず生存確率が下がります。できればそのカーブよ、緩やかであれかし! と願うばかりでございます。
で、右のグラフが、あなたが結婚した場合の、お母さまの生存確率です。こちらは色を変えてみました。非常に丁寧にプロットしました。その結果二つを見比べてみましょう。暖色系は少し盛り上がって見えますから気を付けてくださいね。
わかりづらいですか? きちんと、厳密に解析しましょうか? では、グリッド線を引き、二つを厳密に比べてみました。
本当に驚きました! い、い、一緒です! ぴったりと!!!
まさかの結果に、藩士一同驚愕です。
つまり……じつは……なんと……。
お母さんの言う、「あなたが結婚するまで死ねない」は、根拠に乏しい、誤った認識、すなわち、誤解だったのです……。
「あなたが結婚するかしないか」と、「お母さんが死ねるか死ねないか」は、「独立の事象」と言えます。両者に相関関係がなく、因果関係もありません。
以上、大変クリアカットに証明できました。私も医師としての責務を果たせたような気がします。
しかし……。
ここで、あなたが、私の検討を参考にして、
「何言ってるの、私が結婚するとかしないとか、お母さんの生き死にとはなんの関係もないでしょ」
などと、一方的に、「正しい顔」でものを言うのは、果たして適切な対処法でしょうか?
このような状態を、俯瞰して、医学的に解析すると、こういうことになります。
「朗書体」はかつて正規のルートで私が購入したものですので、安心して使えます。皆さんも安心してください。ともあれ、このように、親子の関係、あるいは成人した人間同士で、「片方が正しくて片方が誤っている!」みたいな尺度で会話をするのは、なんか、対等じゃないです。
偏っているというか。
一方的というか。
とにかく、嫌な感じですよね。
正論を押しつけてくる医者って嫌な感じしませんか?
私はします。2×2の表を作ったりグラフを作ったりして、エビデンスを盾にとうとうと説明されても、
ハァーむかつきますよね。カチッと来そうです。いやいやこれは、まずいでしょう。人間味なさすぎるわ。不寛容ですよね。空気読まなさすぎ。そう思いませんか? 私は思います。
かと言って、ですよ、ここで、平等とか寛容ばかりを考えて、このような対処をするのも、やっぱりよくないと思うんですよね。
もはや何言ってるかわかんないですからね。これじゃ売り言葉に買い言葉ですね。パイ生地で菊練りするのと同列です。言える組み合わせを言いたいように言っただけでじつは倫理とかすっ飛んだセリフになってますよね。
そこで。
こういう、難しい問題を解くにあたっては。正誤を急がないのがいいんじゃないかと思います。
あの、ぜんぶひっくり返しますけどね。
2×2とか、グラフとか、クソですよ。
合ってるも間違ってるもないんですよ。
人のセリフってのは正しい正しくないで判断するものじゃないんですよ。
そこに毎回感情が乗るんですよ。
感情ってのは正誤で説明できない、しちゃいけないものだと思いますよ。
正解とかないんで、受け止めりゃそれでいいです。あるいは、
これでもいいと思います。
だってもう正解なんてないんだから。
正しいこととか誤ったこととかいう判定自体がまちがってるんですから。
何度言われても関係ありません。
「ああ、また感情が川を流れてきたぞ、ドンブラコドンブラコ」ってスルーしていいと思うんですよね。
でもその、あなたは、たぶんそんなこと、とっくにわかっていて、それでもなんかちょっとイラッと来ていて、なんとかならんか、正解はないのか、って、迷いを言葉に組み換えて、こちらに相談を送ってくださったんじゃないかとは思うんですけどね。
私も、一応そこまでわかってたんですけどね。でもまあこの原稿は、とりあえず書き始めなきゃ書き終わんないからなーって気持ちで、がんばって図を作りながら、必死で考えまして、そのー、結果がね、だいたいこうやって書いてきた感じになっちゃったんですけども、えぇー、なんと申しますか、私の努力と感情が伝わっていればいいなーと、今はそういう気分でいるわけですけれども、じゃあそれが具体的に何かの解決になったかと、えーとー、あー、そのー、ただまぁ、打つ手はないです。
どうで荘のみなさん、こんにちは。@SHARP_JP の山本です。ご入居の方におかれましては、各部屋に備え付けエアコンの試運転はお済みでしょうか。とか言いながら、どうで荘がエアコン完備な近代的アパートだとはとうてい思えません。やはりどうで荘には、風鈴や扇風機が似合う。あと浴衣と相撲。狭い部屋に男4人。私はそう思います。
さて、今回は全面的に打つ手がないお悩みでしょう。人間の思い込みほど、対処のしようがないものはない。その思い込みが善意にもとづいたものだとなおさらです。ましてやここは母から娘への思い込み。心配が愛情という行為の大部分を占める親子関係は想像に難くありません。心配が愛情の発露であるかぎり「心配するな」と言っても伝わるはずもなし。それゆえの圧や悲劇が日々どこかで、相談者のようなお悩みを生んでいるのだと思います。
ただしひとつ光明があるとすれば「私は別に結婚しないつもりもないし、嫁に行かないと言った覚えもない」という点ではないでしょうか。あなたは結婚についての態度を、これまでいっさい表明したことがない。ならばいっそのこと、お母さまへ宣言してしまえばいいと思うのです。「未来はわからない。だから未来を決めない」と。
ことほどさように未来はわからない。そればかりはお母さまも、自分の人生を振り返るまでもなく、ここ2年にわたるウイルスの猛威を思うだけでわかるはずです。未来はわからない。わからないからこそ、私は保留する。そう高らかに、お母さまへ宣誓したらどうでしょうか。
「宣誓! 私、娘一名は、そこそこの仲間とそこそこの仕事ができることに感謝し、なんでこうなったと愚痴りたくもなる見通しの立たない社会を呪いつつ、やっぱり私だってそれなりの幸せが欲しいと思うけど、私にとってなにが幸せかから模索せざるをえない時代と人生に、最後の一秒まで諦めることなく、正々堂々と未来を保留することを誓います!」
多少の軋轢は覚悟の上で、私とお母さんの時代は異なるのだと、高校球児のごとく全力で叫べばいいのです。私たちだって、そこそこがんばっているのです。その点は少なくとも私が保証します。
しかしまたここで問題が立ち上がることを、サラリーマンの私は同時に知っています。思い出してほしい。会社で選手宣誓する行為がどういうものだったかを。今期の売上ノルマを立てさせられる時。自らが組み込まれたKPIを設定する時。挑戦する項目をいくつも述べさせられる時。会社はなぜか、自分の都合を社員の目標にすり替えます。その証として、未来の達成を社員の側から宣言させる。その後に待ち受けるのは何か。報連相であり、期末の査定です。
つまりは、大人の宣誓には進捗が問われるのです。「未来はわからない。だから未来を決めない」と宣誓したとたん、母親からの「保留の進捗どうですか」がはじまるでしょう。そのしんどさは、在宅勤務でも仕事をがんばる相談者さんなら、よくわかると思います。ただまぁ、打つ手はありません。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(43)
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シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第2回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
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入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆今回のお悩み☆
賃貸か?マイホームか?悩みまくり。家族4人です。
(PN:きむら)
どうで荘にご入居のみなさん、こんにちは。@SHARP_JP の山本です。なんかアンダーバーでジェイピーなんて書くとかっこいいですが、れっきとしたただの会社員です。
今回は「賃貸か、持ち家か」です。極めて会社員的なお悩みかと思います。とりわけサラリーマンという職種では「買うか借りるか問題」は、昼メシや飲み会における、上司の悪口に次ぐホットなイシューと言えるのではないでしょうか。さいきんは職場の飲み会自体が非常に稀有な存在になってしまいましたが、思い返せば私にも、ちびちび飲むビールの上を上司や同僚の「買うか借りるか論」が飛び交った経験があります。
その激論を観覧席から見てきて、私はずいぶんわかったことがありました。買うか借りるか問題は、たいていポジショントークに過ぎないということです。家を買った人は買うメリットを主張し、家を借りる人は買わないメリットを主張する。お互いが自分の行動の正当性を主張しているだけなのです。
もちろん私だって、ポジショントークするお気持ちは痛いほどわかります。家を買うというひとかたならぬ選択をした人は、その選択が間違っていたなんて間違っても認めたくないでしょう。逆もまた然り。ひとかたならぬ選択をしないという選択も、それなりのメンタルが求められるもの。保留を続けるという行為だって、実はけっこう意思の力が要るものです。
ただいずれにしろ、それぞれの側にそれぞれの結論ありきなのです。実際のところそこに議論の余地はほとんどない。議論を尽くしたところで決着がないのなら、買うか借りるか問題ははじめから買うコミュニティと借りるコミュニティに別れて、その中で「それな」とか「わかる」とメンバー同士で声をかけあった方がよほど建設的なのではないかと、私なんかは思うところであります。
私が会社の飲み会でこの話題をどこか敬遠したくなる理由はほかにもあります。買うか借りるか議論に参加することはすなわち、人生を収支で見る倫理に参加してしまうからにほかなりません。おうおうにして買うか借りるか論争は、買う方も借りる方も自らの人生を収支で換算することで、あなたにその正しさを説いてきます。
正味なところ、私の人生やあなたの人生は、儲かったのか、損したのか。これ、われわれがひいひい言いながら毎年駆け抜ける、会社の決算といっしょですよね。とある時点の収支に基づいて、己が社会に存在する正当性を問われることは、企業にとって当然のルールです。しかし私は、自分の人生までを収支で語るのはちょっと遠慮したい。会社の飲み会であっても、自ら進んで自分の人生を企業活動のルールに載せるのは、さすがに御免被りたい。どうしてもそう思ってしまうのです。
やはり私は青臭くとも心のどこかで、カネで計れないコトはあるしカネで買えないモノがあると思っていたいのでしょう。ましてや収支を見るということは、自分の人生に恣意的な線を引かねばなりません。人生の収支を集計するための線とはいったいどこか。おそらく「死ぬ時」以外にありえないのではないでしょうか。
つまりは「賃貸か?マイホームか?悩みまくり」は、メメント・モリなのです。会社員が飲み会でのポジショントークはかろうじて回避できたとしても、愛する家族を前に「死を忘ることなかれ」でいることほど酷なこともないでしょう。
買うか借りるか問題は、メメント・モリ。
ただまぁ、打つ手はありません。
このご質問、主語がないですね。他にもいろいろない。でも我々は、言葉を補って行間のニュアンスを掴むことができます。人間の脳ってすげぇなーと思う。
にしても、ですよ。この質問は読み解くのがけっこう難しいです。
まず、「賃貸か?マイホームか?」というのは、「今後、どちらに住むべきかと迷っている」ってことでいいんですよね? 質問主さんが巨大怪獣で、今から賃貸とマイホームのどちらかを(家族4人で)踏み潰す、というシチュエーションだったらどうしよう。
A. どちらも踏まないでください。
悩みまくっている方がどういう方なのかについても、もう少し情報が欲しいところです。「家族4人」だそうですが、質問主さんのポジションは? なんとなーく「お父さん」的なものをイメージしてしまうのは、私の脳が古いステレオタイプに引っ張られているからでしょう。引っ越しを悩んでいるのは末のお子さんかもしれない。犬かもしれない。座敷わらしかもしれない。
でも、ま、たぶん、この方の発言にはある程度の決定権があるでしょう。「だから悩みまくれる」んですよね。「自分ごと」として。
もう少し細かいところを説明してくださると、こちらとしても「自分ごと」として考えることができるんですけど。これじゃあ、わかんないな。だって、家族4人と言っても、「大人2名、小学生1名、クレヨンで壁画を作成中の幼児1名」と、「高齢者1名、中年1名、そのパートナー1名、大学生1名」と、「タレント2名とディレクター2名」では、だいぶ状況が変わってきます。最後のパターンなら、ツインルームに4名押し込んでおけば十分でしょうし。
ところで、この質問文が極めてシンプルなのは、質問主さんのせいではないかもしれません。説明なしに原稿を依頼してくるどうで荘スタッフが、「これでわかるやろ」とばかりに、個人情報のくだりをまとめて削除した可能性もあります。本当は、質問主さんは詳しいことを書いていたのだけれど、お悩み相談のお題として全部掲載するのはさすがに個人情報的にアレだから、やむなく削除した……とか。
だとしたら幸村(スタッフ)は後で説教です。しっかり怒っておきます。バカ野郎。もう少し書け。これじゃツイッターじゃねぇか。いいねしか押せんわ。なんだてめぇ幸せそうな名字しやがって。
……ということで、あらためて、お答えしましょう。多少ピントが外れていたらごめんなさい。でも、あなたのことがよくわからないので、平均的な方のものの考え方に合わせて、ゆるーく照準をセットして、ぼやーっとお答えするしかないんです。
では、失礼ながら……。
賃貸がいいに決まっています。
賃貸って気にくわなかったら引っ越しできるじゃないですか。隣近所とトラブルがあっても賃貸なら次のお部屋を探しやすいです。その点マイホームは、一回建てたらそう簡単には処分できません。そもそも、ローンだけじゃなくて税金もかかるんですよね。冷暖房とか水回りとかの維持費用だって賃貸より高いですし。「長い目で見ればお得」なんてのは、それ、売る側の理屈で、ローンをせしめていく側の理屈ですからね。騙されてはいけませんよ。そうそう、建てる場所はどうしたって、賃貸の物件にくらべると郊外になります。都心で一戸建てってのは普通に考えて無理でしょう。あと、庭のある暮らしにあこがれる、とか、畑を持ちたい、とか、そういう夢を言い出したらきりがないですからね。どれもこれもお金はかかるんですよ。賃貸かマイホームかで迷う人は、全員賃貸にしたほうがいいです。マイホーム建てたからってそこに「得」は存在しません、とりわけお金に関しては、ただ、マイホームの方に「より自由なあり方」と「夢」があるように思えるだけ。おまけに、本当は賃貸にだって自由も夢もある。だったら余計なことを考えずに、世の多くの「家族4人」が住んでいるであろう賃貸にしておけばいいんです。ほらほら、賃貸、賃貸。こうやってすぐに名詞を2倍にしてはいけません。
一気にガーッと書いてみました。
「そうそう! その通り!」と思ったなら、あなた(どなた?)はそもそも迷っていない、悩んでいない人です。
でも、
「えー? そうは言うけどさ……マイホームだってさ……いいところはあるじゃん」
と思ったのなら、その場合、あなたが本当に必要としている、あなたがすがりたいと思っている、あなたが大事にしようと思っている部分が、私にまるで伝わっていないのだろう、と思います。
そりゃあそうでしょうよ。あなた(どなた?)のご質問には、自分の年齢も、家族の構成も、これまで何をしてきたのかも、今後何をしたいのかも、賃貸の何がよくてマイホームの何がいいのかをどのように比べてきたのかも、自分の悩みが誰のためのものなのかも書かれていない。根本的な話として、お住まいが都会なのか地方なのかによっても賃貸とマイホームの性格は変わってきますし、予算によっても、ご職業によっても、何よりほかのご家族がどういう気持ちでいらっしゃるかによっても、おすすめの仕方はまるで違うんです。
でもそういうのが伝わらないと、私は、ググった結果を適当につなぎ合わせた、それっぽいけどぜんぜんオーダーメードじゃないお答えしかできない。
「えーでもさあ、そういう些細なところじゃなくて、世の中には、もっと絶対的に、賃貸とマイホームならこっちのほうがいい! って、多くの人が納得できるような秘密があるものなんじゃないの?」
ありません。
大事なことはいつだって些細な、個人的な、あなた(どなた?)たちだけの都合と性格と歴史に関わる部分にひそんでいます。そこをもっと深掘りしましょう。そしたら、きっと、あなたが何のせいで悩んでいるのか、もう少し具体的に見えてくるんじゃないですかね? ただまぁ、打つ手はないです。
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山本隆博
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大型月刊連載、始動ーー。
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第1回
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毎月1度、どちらかお一人の回答を無料公開。
もうお一人の回答や過去のアーカイブは「どうで荘」入居者向けに掲示します。
今月はオープン記念ということで両回答を特別掲載!
来月からは「どうで荘」にてお楽しみください。
(お悩みの募集はどうで荘内で行なっています。入居者の方はドシドシお寄せください。)
☆今回のお悩み☆
「ぶりっ子」の損得について悩んでいます。現在小売業で働いているのですが、レジや接客のトラブルを回避するため、いわゆる「ぶりっ子」な店員を演じています。年配の方など一部のお客様には好意的に受け取られることが多く、「いいよいいよ、仕方ないよ」とトラブル回避になることもよくあるのでこの点では得なのですが、パート社員の奥様たちや一部のお客様、特に女性のお客様には白い目で見られるような気がします。4月からは転勤で別のお店に移るのですが、ぶりっ子戦法を続けるべきかどうかアドバイスを頂けたら嬉しいです。
(PN:菜央)
お手紙ありがとうございます。拝見しました。いいですね。誰も傷つけない気遣いが伝わってくる一方で、隠し味程度にストレスもまぶしてある名文だと思いました。冒頭から「損得」という単語を用いて読む人の欲望と打算と理性と倫理を揺さぶる構成に、天性の計算高さを感じます。原生林のど真ん中で大型猛禽類の鳴き声を聞き、「お前をいつでもこのかぎ爪でかっさらうことができるのだぞ」的な目線をチクチク感じたときのような、ザワザワとした畏怖に襲われています。さすがどうで荘に寄せられるご相談は市井のソレとは戦闘力が違う、と背筋を伸ばしています。
かくも見事なご相談にお答えするにあたって、いきなり「こうすればいいんじゃない?」とか「それはやめたら?」のような対処法を申し上げるべきではないでしょう。まずは、現状を正しく分析することからはじめようと思います。分析が先、打つ手を考えるのは後。この順番を間違えてはいけません。というか、それ以外のやり方は私には難しいです。それでは分析をはじめましょう。
さっそくですが私は今、「いぶりがっこ」のことを考えています。ご存じですか? 秋田県の郷土料理ですよ。「くんせい+つけもの」みたいな感じでおいしいおつまみになります。この「いぶりがっこ」という文字列の中に、そう、お気づきですよね、「ぶりっこ」が含まれています。単なる言葉遊びなんですけれども、あら不思議、一度そう聞いてしまうと次からは、たとえば居酒屋のメニューの中に「いぶりがっこ」を見つけるたびに、あなたはきっと無意識に「いぶりがっこ」の中に潜んだ「ぶりっこ」を発見してしまうことでしょう。
似たような例で、「マイナンバーカードの中にはバーカが含まれている」というのもあります。ここまで来ると呪いみたいなものですが。
人間の脳は、複雑な模様の中に隠れたなんらかの情報を一度見つけ出すと、次からは容易にその情報を拾い上げられるようになります。たとえば、「ウォーリーを探せ!」では、一度ウォーリーを見つけてしまうと、次にまたその本を開いたときに「確かここにウォーリーがいたよな~」と、目が無意識に答えを掘り出しに行ってしまうようになります。ほかにも、レストランのメニューの横にしばしば置かれている、お子さん用の間違い探しクイズ(2枚の絵を見比べて違うところを探すアレ)で、眉毛が片方だけ細いとか、ストライプの間隔が狭いとか、動物のヒゲの本数が違うと言った、細やかな違いを最初はなかなか見つけられませんけれども、一度見つけてしまうと、違いが浮き上がって見えてくるようになります。いったん目を離してからまた見てもすぐに違いが発見できるので、一度解いたクイズはもうおもしろくなくなります。
脳って、一度何かを見つけると、その部分を周囲から浮き立つように強調してくれるんですよね。ですから「いぶりがっこの中のぶりっこ」も、もうこれからはずっとハイライトされっぱなしだと思います。
で、まあ、「いぶりがっこ」の中に「ぶりっこ」を見出したところで、いぶりがっこの味が落ちるわけではないですし、居酒屋のメニューを見ながらカップルが「あんたそういうぶりっ子タイプ好きだよね~」「は? 気にしすぎだし~、何ソレ、嫉妬?」などと口論を始めることもありませんので、さほど問題はないです。
しかし、「人間の中にぶりっ子という要素を見つけてしまう」場合、話は別です。
人間の脳は、ひとたび誰かの中にぶりっ子成分を見つけると、そこから先は「ぶりっ子」の部分を強調し続けます。あ、こいつぶりっ子だわ、と認識するやいなや、どれほど目を離しても、次にその人を見たときには「あー、あのぶりっ子ね」と、光り輝くひとつの属性によってその人を判断するようになります。
さて、あなたはぶりっ子を「演じている」とお書きになりました。レジや接客のトラブルを回避するため、と誰もが納得するような理由も書き添えられています。最後には「戦法」であると明言され、「続けるかどうか」、すなわちいつでもやめることができるのだ、というニュアンスまでお伝え頂いております。でもこれ、自己分析として間違っているのではないかと思います。いわゆる「誤診」です。私が診察、じゃなかった、拝察いたしますに、あなたはいぶりがっこです。あなたを構成する成分のなかにそもそも「ぶ」「り」「っ」「こ」が含まれているのだと思います。「演じている」のではありません。ぶりっ子という着ぐるみを一時的に着て、脱ごうと思えばいつでも脱げるという類いのものではないと思います。ぶりっ子はあなたの外にある概念ではなく、あなたの中にある、あなたの一部を構成する「要素」です。そしてあなたは、それを意図的に抽出して、「ほらぶりっ子だよ」とみずから強調なさっているわけです。
細かいことを付け足しますと、「レジや接客のトラブルを回避するためにぶりっ子を演じる」というのは一般論として通じないと思います。ここ、思わず読み飛ばしそうになりましたが、レジや接客を担当される方がみんなぶりっ子になっていくわけではないですので、詭弁ですね。人間は、「リンゴは甘いからカレーに入れてみた。」のように、「~から」とか「~ために」といったフレーズを使うことで、なんかちょっと論理的にうまくつながったかのような文章を書いて人を誘導することができます。私も誘導されかけました。漫然とお手紙を読むと、「そうかー、理由があって、ぶりっ子という成分を外から持ってきて、自分に一時的にくっつけているのだな」と納得しがちですが、実際には、理由があって外挿したのではなく、「内からにじみ出てくるものに対し、後から理屈を付け足した」のではないかと思います。そもそも、「パート社員の奥様たちや一部のお客様、特に女性のお客様には白い目で見られる」とお書きになっていますように、これ、別のトラブルの火種になってしまっていますよね。でもまあ、年配の方など一部のお客様には好意的に受け止められているそうですから、これはもう、損得も利害も入り混じっているわけで、あとは個人でその道を選ぶか選ばないか、くらいの話になっています。
以上、私はあなたのお手紙を拝見して、このように感じました。
「ぶりっ子を演じているのではなく、自分の中からぶりっ子成分がにじみ出てくるのを、損得ともに織り込み済みで、自分なりに利用されているのでは?」
4月から移られる次のお店でも、ぶりっ子を演じるかどうか、みたいなレイヤーの問題ではなく、自分の中から温泉のお湯のように続々と湧き上がってくる「ぶりっ子成分」をどう有効活用するか、という問題として考えた方がより建設的なのではないでしょうか。いぶりがっこの中からぶりっこを除去したら「いが」しか残りません。これではもはや、いぶりがっこの痕跡も感じられません。だったら、無理に除去するのではなく、「ぶりっ子」はそこにあるものとして計算していったほうがいいかもしれません。以上が私の分析です。
ただまぁ、打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさん、こんにちは。@SHARP_JP の山本と申します。家電メーカーのしがないサラリーマンがなんの因果か、北の病理医ヤンデルさんといっしょに他人さまの悩み相談に乗ることになりました。
相談に乗るのはせいぜい家電の買い替えくらいのボンクラ会社員が、なんらかの解を提示しようとするわけですから、悩む方も油断がなりません。なにより回答する本人が「だいじょうぶだろうか」と疑心にとらわれているわけで、ままならないとはこのことでしょう。
さて「ぶりっ子の損得」です。まるで「ニッポンの論点」とか「武士の一分」といったスケールの大きさを感じさせる語感ですが、ご本人にとっては接客を仕事とされているだけに、お悩みは切実かと思います。
結論から先に申し上げますと、ぶりっ子の損得は総合的に勘定すればちょい得ではなかろうか、私はそう考えております。
ここを読むみなさんが、私のふだんの仕事をご存知だとうれしいのですが、私は主にツイッターを舞台に、勤め先の製品を身の回りのよしなしごととともに発信しています。もう10年あまり、広義の広告宣伝という企業活動に身をやつしております。
化粧品や嗜好品ならいざ知らず、家電のお客さんは潜在的に老若男女の全員です。つまり私の仕事はほぼ全ての人を対象にメッセージを発信し、その結果あわよくば多くの人から好感を獲得する、そうでなくとも最低限、だれからも嫌われないというラインが課せられるのです。当たり前ですが、広告はイメージや売り上げに関わりますから、反感を買うことは許されません。
では、だれからも嫌われない広告に必要なことはなにか。沈黙か、ぶりっ子以外にありません。沈黙では私の仕事が成立しないので、つまり私は職能的ぶりっ子を10年続けてきたことになります。ぶりっ子のプロフェッショナルと言ってもいい。
すると私はどうなったか。驚くべきことに、私はいい人になったのです。10年前の私と現在の私を比較検証できる人間は限られますが、その張本人である私は自信をもって断言できます。私は今、いい人です。10年前より、いい人になったのです。
おそらく人間は打算的なふるまいであっても、それを続けることで自身が影響を受けるのでしょう。たとえ仕事上の言動でも、長期的に見ればぶりっ子は本人の人格に深い影響を与える、私はそう考えています。いい人になることに不利益を唱える人はいないはずです。だからぶりっ子でお悩みの菜央さんも心配いりません。あなたはいずれ、いい人になります。
もちろん「だれからも嫌われない私」が非常に困難なゴールであることは私も知っています。ぶりっ子は「ほんとうの自分」を覆い隠す手段であるのもまた事実。多くの人と触れあう職能的ぶりっ子なら、なおさら「あなたの本心がどこか」を探る白い目に晒され続けるでしょう。お互いが裏をかきあう、メタ化したコミュニケーションは疲れるものです。
しかし本来ぶりっ子が目指していた「いい人」を、あなたが名実ともに実現したらどうでしょうか。ぶりっ子というふるまいが実際のあなたに影響を与え、あなた自身が「だれからも嫌われない私」そのものになれば、ぶりっ子は戦法でなくなります。そこにいるのは、ただのいい人。すなわちぶりっ子とは、やめずに続けることにこそ、その成否がかかっているのです。
が、問題はここで終わりません。ぶりっ子を続けることを阻む、最大の敵がいることをゆめゆめ忘れてはいけません。ぶりっ子の継続を邪魔するのは、ぶりっ子に白い目を向けてくる他人ではない。過去のあなたです。過去のあなたが「お前、そんなにいい人だったっけ」と、ぶりっ子を続ける現在のあなたを執拗にあざ笑ってくる。それに耐えるのは至難の技でしょう。白い目は世間でなく、身内にある。つまりあなたは、あなたの中に敵をインキーしているのです。そしてぶりっ子はかくも困難な道かと思うたび、あなたの脳裏にはあの声が蘇るはずでしょう。
「ただまぁ、打つ手はないです」
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