シャープさんとヤンデル先生の相談室 〜ただまぁ、打つ手はないです〜 第7回(どうで荘公開版)
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第7回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
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☆今回のお悩み☆
会話をうまく続かせることができません。特に初対面の人ですが、仕事関係、プライベート、性別、年齢問わず、話題が次から次へと出るようになるといいなぁ、と思っています。
『水曜どうでしょう』やYouTube等での藤村さん・嬉野さんを見てると、どんな相手でも会話が途絶えることがなくてすごいなぁ~、と思います。 何かよいアドバイスはありませんか?
(PN:t-aoao@川崎)
こんにちは。病理医ヤンデルです。
奇遇ですね~。
私もかねがね、藤村さん・嬉野さんを拝見するたびに、会話がすごいなぁ~、と思っていたんですよ。これってt-aoao@川崎さんと一緒ってことですね。全く同感。
あのお二方、本当にすごいですよね。
で、そのすごさ、藤村さんと嬉野さんでは、微妙にタイプが違う気がするんで、ちょっと整理しますね。なあにすぐ終わります。ご相談にお答えするのはそれからにしましょうね。
まず、藤村さんのすごさというのは、舌先からとびだすパワーワードの豊富さ、移りゆく状況の中から的確な「編集点」を見出してメリハリを付けながら会話の進行をコントロールする巧みさ、目先の享楽的な話題に飛び付くときにすかさず一番楽しそうな顔になって声帯も肛門までも解放できるハイレベルな反射神経、それでいて現在進行中の話題が「どのような構造の中に含まれたものなのか」を俯瞰して分析し「目先の享楽ではない、本質的で持続的な快楽」に話題を引き上げることができる地頭の良さ、みたいにいくらでも上げられますが、今日の私が思いますに、
「トークしている相手を動かす力」
が半端ねぇなと思います。たぶん、これが一番、常人にはできないことじゃないかなあ。
たとえばYouTubeで、D陣おふたりは様々なゲストの方々とお話しをされていますよね。芸能人だったり、声優さんだったり、学者だったり、テレビマンだったりと本当にばらばらですけれども、それらの方々が、「どういう現場で、どちらを向いて立っている人か」というのを最初にきちんと把握した上で、その相手が「絶妙に、ギリッギリ取れるくらいのボールを投げる」のが藤村さんらしさだと思います。
いや、暴投してるわけじゃないんですよ。
胸元に投げるだけのコントロールがあり、相手が一番捕りやすい球速で投げられる肩もあるんです。しかし、ジャンプ一番手を伸ばさないと取れないところにやたらと早い球を投げてみたり、チェンジアップで相手があわあわとしつつ結局は胸元でパンとキャッチできるような球を放ってみたりする。そうすると、取りに行くほうはどうなりますか? 「体が温まる」んですよね~。つまりは「しゃべりやすい感じ」に自然と体がフィックスしていく。
さらに、ゲストがキャッチするときの動きが、観客にとって「魅せる」ものになるというのもでかい。会話ならではの楽しみ方です。放ったネタで客が一ウケして終わりじゃなくて、そのネタをキャッチする側のリアクションを見て、もう一ウケするということ。最近はリアクション芸人が人気ですけれど、やっぱり、「リアクションをさせる仕組み」あってのものだな、って感じます
さらにさらに、相手がボールを後ろにそらさない、「ギリッギリ取れる」というのがミソで、取れないボールを投げるとキャッチボールのリズムが悪くなるんですけど、結局は取れちゃうので、ポンポンやりとりがつながる。こりゃ楽しくてしょうがないですよね。
ちなみに、投げる球は基本的に水曜どうでしょうに関係のある……いや、違うな、そのとき藤村さんが手に持ってなじんでいるボールなんですよ。だからゲストはけっこうびっくりします。藤村さんに投げるんならやっぱり水曜どうでしょうのあの名シーンだよな……なんて、ロージンをたっぷり付けた「対決列島」を藤村さんに放ってみると、そのボールをいきなり藤村さんが木製バットでガツンと叩いてスタンドに放り込んで拍手喝采を巻き起こすんだけど、次に藤村さんがゲストに投げるボールがいきなり「最近ハマっている戦車ゲーム」だったりするから油断できない。
藤村さんの投げるボールの種類は時期によって違います。水曜どうでしょうのレギュラー放送時代は「甘い食べ物」をボールにしているときがありましたが、その後、「お酒」だったり、「演劇」だったり、あの方、どんどん好きなものを増やしていらっしゃるんですよね。その都度、藤村さんが手にするボールは変化している。水曜どうでしょうという「硬式野球ボール」を使ってキャッチボールするのが基本だと思わせておいて、本当に彼がゲストに向かってゲラゲラ投げてくるボールは「最近ハマっているクラフトジン」みたいな、手元でギュンと曲がったりホップしたりするピンポン球みてぇな球をいきなり投げてくる。ただし取れないものは投げないんですよ。ハンマー投げのハンマーとか、ウニとかは彼は投げない。だって自分でも持ちづらいし面倒くさいですからね。
そもそも藤村さんは、「何かおもしろい、新しいことを言おう」と常に話題を探して回るような、人気ラジオのアナウンサーみたいなことは、全くなさっていないんですよね。色とりどりのボールを買って揃えておくようなことをしない。「今の俺はこれが好きなんだ、楽しいんだ」というのが、彼のペースで少しずつ移り変わっていくことはあるけれど、彼がゲストを楽しませるために「このボールがいいだろう」みたいな選び方はしないんです。藤村さんがやっていて、他の大多数の人がやっていないのは、「投げる場所を工夫する」ということなんですね。あーそこに投げたらどんなボールであっても相手は笑いながら必死で取りにいくよなあ、みたいな。
じゃ、次に、嬉野さんのすごさについて、ごく簡単にご説明しましょう。なあにすぐ終わりますよ。
嬉野さんのすごさというのは、会話を彩る形容フレーズのバリエーションの豊富さ、会話相手がこれまで気づかなかった角度から話題に陰影を付け直す「ライティング」の巧みさ、目先の享楽的な話題に飛び付くときにパンすべきなのかズームすべきなのか、あるいはカメラを一切動かさずにぐっと待つのがいいのかと、会話における自らの立ち位置を一瞬で選び取るセンス、それでいて現在進行中の話題が「どのような時間経過のすえにそこにたどり着いたのか」を時間的に俯瞰して分析し「目先の享楽ではない、本質的で持続的な快楽」に話題を引き上げることができる地頭の良さ、みたいにいくらでも上げられますが、今日の私が思いますに、
「トークしている相手に考えさせる力」
が半端ねぇなと思います。たぶん、これが一番、常人にはできないことじゃないかなあ。
たとえばライブイベントで、D陣おふたりは様々なゲストの方々とお話しをされていますよね。芸能人だったり、声優さんだったり、学者だったり、テレビマンだったりと本当にばらばらですけれども、それらの方々が、「どういう話題を、どこまで言語化していて、どこからは本人の心の中でまだ言語化していない状態で抱え持っているのか」というのを最終的に浮かび上がらせるべく、その相手が「絶妙に、考えないと取れないタイプのボールを投げる」のが嬉野さんらしさだと思います。
いや、暴投してるわけじゃないんですよ。
胸元に投げるだけのコントロールがあり、相手が一番捕りやすい球速で投げられる肩もあるんです。しかし、今から君の胸元に投げるよ、と宣言してギュルンギュルンに曲がるカーブを投げたり、次は君の腹のあたりに投げるからね、と宣言してエグい揺れ方をしながら予想つかない角度で落ちるナックルを放るんですね。そうすると、取るほうはどうなりますか? 半信半疑でボールの行方を目で追うんですよね~。つまりはじっくりと「展開」を考えることになる。
しかも、そのボールは見たことない変化をするんですが、最終的に嬉野さんが言った通りの場所にストンと収まるようになっている。会話でありながらエンタメなんですよね。放ったネタで客が一ウケして終わりじゃなくて、そのネタが飛んでいる最中、キャッチする側も、観客も、固唾を呑んで見守っているから、最後にスパンとキャッチされるとワッともう一ウケするということ。
さらにさらに、相手がボールを後ろにそらさない、「結局取れる」というのがミソで、取れないボールを投げるとキャッチボールのリズムが悪くなるんですけど、結局は取れちゃうので、しっとりとやりとりがつながる。こりゃ楽しくてしょうがないですよね。
ちなみに、投げる球は基本的に水曜どうでしょうに関係のある……いや、違うな、そのとき嬉野さんが手に持ってなじんでいるボールなんですよ。だからゲストはけっこうびっくりします。嬉野さんに投げるんならやっぱり水曜どうでしょうのあの名シーンだよな……なんて、ロージンをたっぷり付けた「ジャングル」を嬉野さんに放ってみると、そのボールをいきなり嬉野さんが金属バットでカキンとスタンドに叩き込んで拍手喝采を巻き起こすんだけど、次に嬉野さんからゲストに投げるボールがいきなり「子どものころの駄菓子屋での思い出」だったりするから油断できない。
嬉野さんの投げるボールの種類もまた多彩です。水曜どうでしょうのレギュラー放送時代は……クリームパン……シカ……いや彼とキャッチボールできるなんて思ってもいなかったんだよな、……それがDVDが出て副音声が出て、嬉野さんがしゃべるんだってことがわかると(当たり前です)、「お父さんとお寺」だったり、「奥さんとバイク」だったり、あの方、昔からものすごい数のボールをお持ちで、それを青空に向かって放って自分でキャッチして、みたいなことをずーっとやってらしたんですよ。だから、嬉野さんが手にするボールには長年しみ込んだ汗の質量がある。水曜どうでしょうという「硬式野球ボール」を使ってキャッチボールするのが基本だと思わせておいて、本当に彼がゲストに向かってニコニコ投げてくるボールは「日向小次郎が荒波に向かって蹴りまくった黒いサッカーボール」みたいな、あっサッカーになっちゃった、まあいいか、常人からするとびっくりするような質量のボールを、山なりで、でもすごい変化をかけて投げてくる。ただし取れないものは投げないんですよ。円盤投げの円盤とか、イガグリとかは彼は投げない。だってそんなの捕ったら痛いですからね。
そもそも嬉野さんは、「何かおもしろい、新しいことを言おう」と常に話題を探して回るような、人気ポッドキャストのインフルエンサーみたいなことは、全くなさっていないんですよね。色とりどりのボールを買って揃えておくようなことをしない。「昔から俺はこれが好きなんだ、今はさらに楽しいんだ」というのが、彼のペースで少しずつ醸成されていくことはあるけれど、彼がゲストを楽しませるために「このボールがいいだろう」みたいな選び方はしないんです。嬉野さんがやっていて、他の大多数の人がやっていないのは、「投げたボールをみんなに目で追いかけさせる」ということなんですね。あーその軌道で投げたら相手は目で追いながらきっといろいろ考えるんだろうなあ、みたいな。
ね。藤村さんと嬉野さんってちょっとずつ違うでしょう。『水曜どうでしょう』やYouTube等での藤村さん・嬉野さんを見てると、どんな相手でも会話が途絶えることがなく、しかもそれが、話題になるようなネタをいつも仕入れているためとかではなくて、言葉のキャッチボールをする際に相手と観客をどうやって自分なりに楽しませようかなっていう工夫……というか場を楽しくするための気概があるんだなってことが、だんだんわかってくるんです。
で、それをどうやったらマネできるかって? ぼくは藤村さんでも嬉野さんでもないので、あなたと同じように、すごいなあとは思いますが、どうしたらいいかはぜんぜんわかんないです。ていうか、D陣おふたりに聞いてほしいです。なんなんだよこのコーナー。あー、でも、キャッチボールなんだから、ボールをいっぱい探しに行くとかじゃなくて、投げ方なんじゃないのかな、ってことは書いていてわかった気はするんですけれども、これはアドバイスかというとあんまりそういう感じもしませんし、つまりはまあ、私からは特段こう、申し上げられるレベルでの打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、いかがお過ごしですか。@SHARP_JP の山本です。さて今回は、私もその答えが切実に知りたいお悩みです。私もなかなかどうして、口下手な人間です。特に初対面の相手となると、いっそう「会話を続けること」自体が目的化してしまい、焦ったり、よくわからないことを言ったりと、不審なムーブをとってしまいがち。人との会話が怖い、とまでは言いませんが、会話が負担となる場面は多々あります。なので、そもそも自分が知りたい回答を、はたして自分でひねり出すことができるのか、はなはだ難儀な気持ちになりながら、進めたいと思います。
いま私は前文で「進めたいと思います」と書きました。おそらく私はここから先、つらつらと話題を提示しつつ、途絶えることなく文章を書くことができます。できます、というと正確でないかもしれません。今この瞬間はまだできていないけれど、数瞬後にはできているという確信があります。少なくとも私は、書くことにおいては、相談者さんのようなお悩みを抱くことはありません。書くという行為に限って、私は「うまく続かせることができない」という心配を回避できています(もちろんそうやって書かれた文章がおもしろいかどうかはまた別の問題ですが)
なぜ私が書くことにおいて、うまく続けられないという不安から自由であるかといえば、それはもう場数の問題といえるでしょう。なぜか私は、書くことが大きなウェイトを占める仕事に就き、書いたものを発信するという職務を長らく続けています。自慢する気持ちはありませんが、結果として私は、一般的な人より膨大な量を書き、それを世に放ってきました。その経験が私から、書くこと(そしてそれが読まれること)への苦手意識を取り去ってくれたのだと思います。
と、ここまでつらつら書き進めました。続けましょう。
では私はなぜ、書き続けるのは平気なのに、おしゃべりを続ける行為に苦手意識を抱くのでしょうか。たぶんそこには、書くこととしゃべることの本質的な違いが横たわっているのではないか、と思っています。
少々乱暴に言いますが、おしゃべりが他者との会話であることに対して、書くことは自分との対話です。たとえ書かれたものが、最終的に読まれることで他者とコミュニケーションを図るものだとしても、書いている間は自分との対話によってしか、書くことを進めることができません。冒頭で私が「今この瞬間はまだできていないけど、数瞬後にはできているという確信」と述べたのは、私は私と一文ごとに対話して、次に自分がなにを言うのかを発見する連続こそが書くことではないか、と考えているからです。
私が私と対話すること。それが書くための動力です。翻って会話とは、他者を相手におしゃべりすることです。仕事での初対面なんか、名刺くらいしか寄る辺のない他者でしょう。対話の相手は、勝手知ったる私の中の私。会話の相手は、私の外にあるむき出しの他者。どうやら私の苦手意識には、そういう対話と会話のちがいに関係がありそうな気がしてきました。
私もそこそこ年をとりました。職歴も口下手歴もそこそこ長くなりました。おそらく私は「書ける口下手」という微妙なポジションで、ベテランになりつつあります。そしてベテランゆえに私は、対話と会話を分けるものに、おおよその見当がつくようになりました。対話と会話を分けるもの。それは「たわいのなさ」と「段取り」だと思うのです。
暑いね。暑いですね。どこ行くの。ちょっとそこまで。特に目的もなく、なんとなく交わされるやりとり。私たちの日常は、すべて「意味」が付随する行為だけでできているわけではありません。意味のない行為があるからこそ、私たちは息がつまることなく、リラックスして生きることができます。そしてそういう、特に意味を持たない「たわいのなさ」を交換する行為が、会話にも含まれています。終わりも道筋も見通すことなく、ダラダラと友だちと続けるおしゃべりが楽しいのは、おそらく「たわいのなさ」があって「段取り」がないからではないか、と私は思うわけです。
一方対話はそうはいきません。対話は文字通り、相手と面と向かって行われます。上司と部下が机を挟んで話し合うシーンが典型でしょう。そこでは報告あるいは説得、時には叱責が行われます。対話とは、なんらかの目的に向かって双方が話し合ったり、あるいはこの場の意味を両者で共有するためにおしゃべりが進められます。揉めている人同士が話し合うことを会話と呼ばないように、対話には「たわいのなさ」はなく、ひたすら目的に向かうための「段取り」だけがある、とも言えるのではないでしょうか。
そう考えて行くと、私が会話より対話の方に苦手意識を感じないことも、あながち無理もない気がしてきます。私はあくまで仕事や職務的な要請から、書くこと(書き続けること)を、自身との対話を通して追求してきました。仕事で書くのだから、目的があり、段取りが存在します。そうやって私は、とことん合目的化した人間になってしまった。そして会話にも段取りを持ち込もうとするようになった。会話に段取りを持ちこむような人間の話に、たわいもなさが存在するはずもありません。こうして会話が苦手な私ができあがった、そういう風に思えてきます。なんだか切なくなってきました。
さてここで私は、ひとつ恐ろしいことに気づきます。藤村さんと嬉野さんのことです。あの方たちはなにをやってきたか。よくよく思い返せばあの方々は、どうでしょうで、会話のおもしろさをわれわれに見せ続けたのではなかったか。遠慮のいらない男4人が繰り広げる会話には、たしかに「たわいのなさ」があふれ、「段取りのなさ」の魅力に満ちていました。そしてわれわれは、あの人たちの会話を聞く快楽を知ってしまった。だからあのおふたりに、そもそも会話で勝てるわけがないのです。ひとたびあの方たちがしゃべれば、私たちはただ、耳を傾けざるを得ないのです。ただまぁ、打つ手はないです。
(追伸)
「打つ手はないです」で終わるという縛りが設けられたコラムですから、追伸が禁じ手であることは重々承知の上で、今回はどうかご容赦を。実は今回の相談者さんに、うってつけの書籍があります。田中泰延さんの『会って、話すこと。』という本です。目から鱗とはちがいますが、読めばおそらく気持ちが楽になること請け合いですので、ご一読をおすすめします。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(43)
好きなどうでしょうはユーコンです。