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D陣日誌
- スタッフより
2024.06.20
4月12日(土)埼玉にてイベント開催!詳しくはこちら!
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嬉野です。
さて、今年2025年は、ヒゲマラソン部にとっては10年目の大阪マラソンだったのですが、周年のその大会にヒゲマラソン部部長は不出場。副部長は時間内にゴールできずに足切りとなりバスに乗せられるという、まったくもっての体たらく。
しかし、これだからこそ、あの人たちから目が離せない。
私としても「応援📣」ということで( まぁその応援にしたって私は言われるがまま無批判に毎年通い詰めて10年なんですが )、天満のアパホテル前で今年も応援隊の列に加わっておりましたが、先頭集団の走りの速いこと!
あれではいけません。
あんなに速く走られては応援している方の気持ちが盛り上がらない。
目の前をあんなにあっさり通過されては、私だって10年も応援に通いませんし、部長、副部長だってあんなに速く走れたら10年を待たずにマラソンなんかやめてたはずです。
やっぱりランナーは、我々応援の前に、ヘロヘロになって現れてくれないと応援隊としてはマラソンの醍醐味が感じられない。そこへ行くとうちの部長も副部長も、我々応援隊が沿道に立てました幟にすがりつくように吸い寄せられて来ますから、応援としては堪えられない。この弱りようこそがマラソンランナーです。
やっぱりね、毎年うっかり記録を更新してしまうようでは我々応援の期待に応えたことにはならない。
マラソンランナーであれば、とにかく心底疲弊して、応援している沿道の我々に、「あの人たち、なんであの程度の実力で毎年出場してはるんやろう?」と、疑問に思わせるぐらいじゃなきゃいけない。
つまり、人間というものは、自分らと遊んでくれる人が好きなんです。そこは大人になっても小さな子供と同じです。同じレベルまで降りて来て、一緒に、力を出し切って遊んでくれる人が好き。
そういうことになると思うんですね。
そういう意味では、大阪マラソン、走ってから10年目というのに、いまだこの体たらくというのは、実に寿ぐべきことであり、まだまだ、うちの部長も副部長も皆さんと遊ぶ気充分という気迫を感じました。
変わらないふたりには驕りがない。
そして性懲りもなく来週も竹田で走るという、マラソンを舐め切ったこのスケジューリングで、こっちもそろそろ10年です。
こういうことの積み重ねが、ヒゲマラソン部という集団が、マラソンの楽しみ方というものを勝手に独自の文化に捻じ曲げてゆくわけです。
宗教で言えば、メジャーな信仰から抜け落ちてしまって、もはや異端、異教、邪教と変貌して行くように、マラソンの楽しみ方というものを、土俗的に横滑りに発展させて後戻りもできない独自のものとしていくという、文化的にも実に目が離せない展開となっておるわけですから、みなさんも、そこのところへ注力して、今後とも信心していただければ、まだまだ人生、お楽しみいただけるということで、副部長がバスに収容されて終わるという、10年目の大阪マラソンにふさわしい金字塔を建てたな、ということで、長く記憶に残る体たらくを成したと思えば、たいへんに宜しゅうございました。
立派、立派。
ということで日誌です。
流れとしては上の記事とは、いささかも関連性がない話で恐縮ですが。「クレイジージャーニー」に、たまに出てくる呪物コレクターの田中さんという人が、この頃、私は気になっていて。
この方は関西で怪談師をしていて、稲川淳二さん主催の怪談師王座決定戦みたいなやつに、当時、ゆいいつの素人枠ながら出場してみたら芸人さんらを押し退けて優勝してしまったという人らしく。
近年、東京に出てきて現在は安アパートに住んで、狭い自室に世界中から集めた呪物が足の踏み場もないほど並んでいて、それを私は、「クレイジージャーニー」で見て、田中さんのお部屋から醸し出されるビジュアルの凶々しさに毎回戦慄を覚えるわけですが。
なんで、あんなおっかない呪物とかを収集して、あんなおっかないものたちに囲まれて生活できるのか。
私などには理解不能なんですが。
でも、なんでしょう。一見、風采の上がらない田中さんが( いや、今となってはあの風貌だからこそ私は田中さんが信頼できたりもしているわけなんですが、まぁそんな田中さんが )、呪物1つ1つの因縁話もしてくれて、当然その話だって聴くだに身の毛もよだつ凶々しさなわけです。
なのにどういうんでしょうね。田中さんの口から聴いてますと、そのうちそれほど怖くないように思えてくる。
それが不思議で。
なんでしょうか、ある意味、人と接するときの距離というんでしょうかね。上手く言えそうにないんですが、田中さんから呪物の「いわく因縁」を聞いてますと凶々しいものにしか見えない呪物にも日常性が帰ってくるとでも言えばいいのか。なんか呪物の見てくれが普通じゃないからと言って、内実は、そうまで凶々しくもないんじゃないかしらと段々思えてくる感じがしてくるんですね。
「これは亡くなった人の人骨で作った笛なんですけど( 人骨の笛?ですよ。誰とも知れない死んだ人の骨で作った笛ですよ。こんなことを聞いた時点で、よくそんな笛をコレクションするよな!と思うんですが その先の話を田中さんはこう続けるのです)、なんかですね、この人、生前、たいそう不幸な方だったらしくて。そうすると、生前この人が体験できなかった幸福というものは使われずにこの骨の中に貯められているらしくて。だから、この人の骨で作ったこの笛を吹けばね、この人が使わなかった幸福が、笛を吹くたびに世の中に撒かれることになって、みんなが幸せになれるみたいなんですね」と、そんな話をしてくれる。そういう物も呪物の1つなんですね。
そんな由来を聴きますとね、呪物やら呪術やらの根っこにある考え方というのが窺い知れるようでね。つまり、単に誰かを呪うとか不幸に陥れるとかいうだけのヤバい物ではなくて、それこそ人間社会に良い影響を与える助けにもなる。
なるほど、知らないからこそ得体の知れない気味の悪いビジュアルだけを見て、それだけでこっちは肝が縮み上がってしまうからバイ菌みたいに見えてしまって、バイ菌なら見たり触ったりそばに置いたりして関わるだけで禍いが自分たちに感染してくるじゃないかと、勝手な考えに陥りそうにもなるんですけど、
田中さんの話を聞いてると、呪物は病原体のように人に祟るとかじゃない。むしろ人間の生前の運と不運をバランスして考えて、生前のその人の運と不運の偏りに目をつけて、生前に不幸過ぎた人なら、その人が使わなかった幸福はどこへいったかとさらに考え、その人のことを、「この人は生きてるときに福を使わなかった人なのだ」と喝破するわけです。
そして、そんなにも不幸な人生を送った人が残した物を祀ったならば、その人が使わなかった多くの福を、後々を生きる我々が使わせてもらえるたろう、とでもいうようなね。不幸な人の人生すらも前向きに捉えて崇めれば、残された自分たちに幸福をもたらす結果をもたらすのだという思想ですね。
そこには、生前の不幸を、死後、恨みに変化させず。崇めて祀り、敬意を表することによってその人の人生の不幸をチャラにして、尚且つ後に残った者がプラスへと転嫁させ、その幸せを頂こうという、幸運を残さず食べる的な気質が呪物信仰には内在していると思えてくるわけです。
このように考えれば、世界には、ただ凶々しいもの、ただ忌避しなければならないものなど本来はなくて。
あらゆる物の価値は、辻褄を合わせ、筋道を通せば、マイナスもまたプラスに変えてしまえるのだ、とでも言うような。呪物というのは、そのようなプラス思考に根差した思想であり、運と不運、強力と無力といった生きてる人間たちの世界で対立しているプラスとマイナスを、死後、チャラにして、尚且つ全部プラスの方へ昇華させてしまおうという、物事をどこまでも前向きに見通してしまう信仰のようにも思えてくるわけです。
そうしたときに田中さんは、その呪物にまつわる、その呪物が引き起こしてしまった祟りの話とかもしてくれるから、それをコレクションしてしまった田中さん自身だって「これは、本当に注意して祀ってないと祟られると言われてますんで」とか言いながら、それでもやっぱりコレクターの血が騒ぐのでしょう、手に入れてしまって部屋に置いているわけで。つまり田中さんにとっては祟られることはリスクなんだけど、コレクターとしては、手に入れた呪物に祟られるんなら祟られたで、祟られた体験ごと受け入れるにやぶさかではない、みたいな。世間とは軸のズレた呪物に対するコレクター根性が見うけられて、それもまた呪物に微笑ましい一面もあるように見せてくれる一助ともなって、私に呪物に対する認識を新たにしてくれるわけです。
なんだか、まるで、大泉洋さんをびっくりさせたいからと、彼をジャングルにつれて行くんだけど、結局、同じように自分たちも鬱蒼としたジャングルに分け入ってウンザリして、「来るんじゃなかった」と後悔している「水曜どうでしょう」の人たちを彷彿とさせるようでもあり、親近感を得るわけです。
そんなこんなで、田中さんには他のオカルトの人たちとは違うスタンスを感じて私は近年ファンですね。
ちょっと前に、アマプラでドキュメンタリー映画「続・三軒茶屋のポルターガイスト」ってのを見たときね。人ならざるものの手が床から生えてくるという奇妙なアクターズスタジオが三軒茶屋にあって。床から生えてくるその不思議な手の噂を聞きつけて訪れた人たちの誰の目にも、その手があまりにもハッキリ見えすぎるものだから、
「え? なんだろう」「え? これってなに?」と、訪れた誰もが、床から生えてきた手を見て奇妙に思って混乱し、出現してしまった「人ならざるもの」と、なんとかコミュニュケーションしたいとコックリさんとか試みるんだけど。
そこに超心理学を研究してる大学の学者先生も呼ばれて来たは来たけど、「どうですか?」とみんなに問われて、「どうもなにも、こんなものはインチキだよ!」と途中でカンスケに怒りはじめるという顛末がありましてね。科学者の人は集まった中の誰かがトリックを弄してみんなを騙してるだけじゃないかとお怒りで。私は、床から出現した手よりも、その科学者先生の唐突な怒りの方にびっくりしまして。
なんでしょう、「床から出現してしまった手」なるものをその目で見て、その存在を疑えず信じて集まっている人たちがその場に多くいらっしゃるのに、「科学は、嘘は嘘として暴く。それが正義なんだ!」と、コミュニュケーションは、疑うことからしか始められないと言わんばかりの、「認める、認めない」という厳格さで、「真実はひとつ」だけと規定して、真実が証明できなければ、それ存在できないと審判を下すジャッジマンとしての立場でしか他人と交れないと言いたげな科学信奉者の人が
私にはなんだか野蛮に見え。
それが、くだんの田中さんに見えないことも、私にはホッとできて気持ちが良いわけです。
だって、相手を疑うところからでは人と人とのコミュニュケーションは成り立たないでしょう。
そこを考えると、呪物に祟られることすら甘んじて受け入れてでも収集したいというコレクター根性の田中さんの方が、出現してしまったものに対する愛を感じるようでもあり。
そもそも、「認める、認めない」という厳格さで人と接していては、そこに愛が見えないだけに誰とも知り合えないでしょうから、田中さんみたいな人を見てますと私は大変気持ちが良いわけです。
人間なんて、気持ちの弱いものですから。「この呪物を持っていると祟りがあります」とか言われたら、僕らはついつい信じてしまって自分の方から祟りに遭いそうな、進んで不幸になってしまいそうな、人生を終わりたくなるような気持ちになって行くもんですよ。人間が不幸になるきっかけだって、その多くは自分から「ダメだ」と思ってしまう自滅だったりしますからね。
呪物は、科学とは違って、そんな人間の弱い気持ちに作用する物でしょうから、気味が悪いと思ったら自分で勝手に肝が縮んでしまうし、他人から、「おまえは不幸になる」って言われたら、なぜか、知らず知らず自分の方から進んで不幸になり始めるのが人間だったりするわけです。
結局、人間の根性には自分の方から負けに行こうとするところがあるわけですね。
田中さんはそうした、人間が本来持つ弱い資質を、「それって、ありますよね」と、肯定して、受け入れるところが前提になっているようですから、呪物を非科学的だという理由では否定などしないわけです。
たとえばクレイジージャーニーのアフリカロケで、「呪術相撲」とか言う、格闘戦なんだけど、腕力に加えて呪術や呪物を呪術師に与えられ、闘う両者共にその呪物を身に纏って相手の力を封じ込めたりもするんだ的な話を現地で聞かされても、対戦相手も同様に呪術の効力を信じる文化の人であるなら彼も当然相手の呪物が気になっちゃったら勝手に気持ちで負けてしまって、力が萎えてしまう。そうなれば本来の力が出せなくなる。だったら相手の呪術や呪物で自分の力が封じ込められてしまったりもするわけでしょうからね〜的に田中さんは納得する。
そんな田中さんが私は、近年、気になるわけです。
何かですね、呪物コレクターである田中さんが、自分の集めた呪物コレクションの1つ1つの由来を愛ゆえに鵜呑みにして信じて。呪物1つ1つの性質を受け入れて、その扱いを生真面目に気にして、呪物1つ1つと一定の距離を置いて接しているところが、なにか人と向き合うときに大切なこととも通底するように思えて、呪物信仰というものと、コレクター根性というものは、この世で生きる他人を意識して、そこに愛を感じて、そこから他人を大事に思うことに通じるようにも思えてきて、その辺りも田中さんを見てて気持ちがよろしいのです。
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どうで荘での居候が続いている。
御存知、リアルどうで荘、神奈川県川崎市中原区にあるどうでしょうD陣の配信拠点。
そこに居候をしているわけだが、配信拠点なので当然機材が多く配置されている。
高価でないとありえない画質のカメラが串刺しになった(もっと正しい表現があるのだろうけれど、無知ゆえにわからぬ)三脚が屹立し、照明機材も林立。マイクも何種類かがギリスの近衛兵の帽子みたいな頭(なんて言うんだあれは。マイクの部位の名前もわからないし近衛兵の帽子の名前もわからない)をもたげている。パソコン、どでかいモニター、そのほか使途不明の、官房機密費みたいな、高そうな機材。そして床、机の上でとぐろを巻いているのが各種コード・線類である。
この線類がなかなかのくせ者。
配信というのは一個の機材でできるわけではなく、いくつかの機材の協力のもとに行われる。
その機材の接続、連絡を取るのがこれらの線。玉木青が配信を仕切っているとすると例えるならば彼が殿様である。織田信長である。
各機材は能力のある武将たち。羽柴秀吉柴田勝家丹羽長秀。
そして各種コード・線は連絡役。母衣武者ということになる。つまり毛利新介、野々村三十郎と言ったところになる。コード・線類は毛利新介なのだ。
これ、逆にわかりにくくなっているな。
逆の説明で使うべき例えだ。母衣武者とか毛利新介を説明するときの例え。
さて、我が部屋の毛利新介なこと線・コードの類なのであるが、これがなかなかの荒武者、猪武者、蛮勇と言っても良い性格だ。
もちろん仕事はできる。いつも通信は快適。しかしながらとにかく素行が悪いというか態度が悪いというか、要するにいつもぐちゃぐちゃなのだ。
ぐちゃぐちゃなどという言葉では表現できないくらいである。ぐぢゃぐぢゃ、あるいはぐぢゃんぐぢゃん、ぐっぢゃんぐっぢゃん、って感じなのだ。
現代社会くらい複雑に絡み合っている。アレキサンダー大王やったらブチ切れて一刀両断しているくらいの混迷ぶり。ゴルディアスの結び目。いや、ゴルディアスの毛利新介状態。
玉木青が配信を指揮する際に、何やら線の付け替えなどを行うこともあるのだが、もう、その苦労と言ったた筆舌に尽くしがたいものがある。
だって、一本の線を手繰り寄せたら線全部が混然一体となって「ゴゴゴ」という感じでこちらへ近づいてくるのだ。スムーズな作業などできようはずもない。
玉木青、そういうことがおこるたびに「コードを整理しましょう」というのだけれど、やはり混然一体となってまがまがしい気を放っている、メデューサの頭にも見えなくないそのコードの黒塊を見ると、我々の意志は削げ、石のようになってしまうのである。
居候には感謝が重要だ。ということをインターネットで観た僕も、感謝の意を伝えるべくコードを整理しようかと思ったこともある。
しかしながら生来愚鈍無知蒙昧因循姑息惰気満満たる玉田玉山である。
手を付けようとはしたものの、多種多様のコード、まさに八百万。
HDMIやらAC、USB、AUX、DVD、果てはSONY、Panasonicの文字も恐ろしく、イヤホン糸くず抜け毛までもが一致に団結をしているものだから手出しをすることができない。
僕は震えて眠るだけである。
そんな状況でもまあ何とかコード同士、見た目には混迷を極めていたとしても、連絡を取り合い、配信等に支障が無ければそれでいいのだ。が、そうもいかない場面というのが近頃散見されている。
コードというのはコンセント類からの給電の役割も果たしているわけだが、その給電の役割のコードが抜けておることがあるのだ。
こうなると起動すべき電気機器が起動をせず、配信に重大な支障をきたすことになる。
何故、そういう仕儀になってしまうのか。
僕がコンセントを抜いているのである。
いや、こういえば配信への妨害行為即刻退去の所払い、武蔵新城より10里の外より近寄ってはならぬ。と思われる読者諸君も多いだろう。
しかしそんな妨害などという強い意志を持たねばできないことをできるほど僕には意気地というものがない。
これすべて我が暗愚の為である。
居候の寂しさは夜に来る。そういう場合は夜の街に繰り出す。と言っても寂しさと人の誘いのタイミングが合一するタイミングはまれだし、寂しいからと言って人を誘い呼び出し、寂しさをぶつけるような酒に突き合わせる度胸も自信もない。
結句行きつけのバーに行き、喋る。ということになる。バーというのは街の中でそういう地位を占めているのだ、ということを最近はとみに思う。
キャバクラ、ホストクラブ、スナック、ガールズバー、メイド喫茶、コンカフェ。そういったものの意味というのが一人で都会に暮らしてわかってきた。
僕の行きつけといえるバーは新宿、四谷三丁目、高円寺に一軒づつある。
ここへ出かけて、あるいは仕事帰りによって、喋りながら酒を飲む。
あのバーという空間へは皆がある程度そこにいる人と話をしに来ている。
うーん、進次郎のような話になるが、バーに来ている人は全員バーに来ている人、なのだ。
であるから知らない人が相手でも、なんだったら人見知りの僕だが、行きつけのバーであると、場所見知り、もないのでかなり話ができる。いや、相手の話を聴いているだけで面白い。寂しさに目が向かなくなる時間だ。
そうこうしているうちに23時を過ぎたあたりで終電。
さすがに朝まで飲む体力も財力もないので帰宅をすることになるが、3つの行きつけ、すべて武蔵新城から遠いのだ。
1時間くらいは帰宅に時間がかかる。
この1時間、ずっと座っていれれば楽なのだろうが、そうはいかない。混んでいる。さらに乗り換えも多数。そして人のことを言えた義理じゃあないが、とにかく電車全体が酒臭く気分が悪い。今から一人の居候のねぐらに帰るのか、と思うと突如として寂しさが吹きすさぶ。詮無いことだとわかりながた、酔った頭には大阪に置いてきたネコと妻の顔が浮かぶ。郷里の祖母の顔が浮かぶ。亡くなった母の顔が浮かぶに至って涙が出てくる。
母の顔が浮かんだあたりでやっと武蔵新城に着くものだから、コンビニでヘパリーゼ等各種肝臓機能補助製品と、もう一杯飲む為の酒を買ってどうで荘に帰ることになる。
飲酒と1時間の移動により意識は朦朧である。
鍵を開ける。ドアを開く。倒れこむように体を押し込む真っ暗などうで荘。電気をパチッとつけると撮影機材。モニター。DVDの山、山、山。
皆さんに貼っていただいた床にどったりと倒れこんでひとしきり「あー…」だの「のみすぎたあ…」だの唸った後に、手慰みにTwitter(現Ⅹ)を観ようとすると、スマートホンの電池切れが間近。これはいけない、這うようにして電源タップに近づく。当然すべての電源は埋まっているから一生懸命手を伸ばして手近なコードを抜いてそこに携帯の充電器を指す。
そう、長くなったが、この手近なコードが重要なコードだったりするわけである。
そしてべろんべろんに酔っ払っているのでその重要性を認識せずに眠る。
起きるとすべてを忘れて健やかになってしまっているので、もう抜かれたコードはそのままだ。
そうなると後日の配信に支障をきたす。
と、こういう流れになるわけである。
全て我が暗愚より来ているというのはそういうわけだ。
今迄配信に支障をきたすたびに「なんで抜けているんだこのコードはわからんねえ」という顔を玉木青に僕もしていたのだが、すまぬ、あれは酔っぱらった僕が抜いている。ここで懺悔をする。
今後はやるまいぞとは思っている。しかしどうすれば防ぐことができるのか、というのが皆目見当がつかん、さて、と懊悩しているとにこの度、新しいスタッフYこと横山清正氏がその持ち前の粘り強さでこの線のぐちゃぐちゃを整理しきったのであった。
中々できることではない。
整理すると意外と空きの電源口も確保されるもので、今後はそこに充電器を刺せば事足りる、という状態となったのであった。
降ってわいた平和を寿ぎ、後はまたコードがぐちゃぐちゃにならないよう、注視していくことが、居候の僕にできる平和維持への努力であろう。
しかし横山清正、すごい男である。よくもまああのようなコードを整理しきったものである。ゴルディアスの結び目も、彼さアレキサンダー大王の傍にいれば、一刀両断されることもなかったかもしれぬ。心強い人間がスタッフになったものである。皆もどうぞ彼を頼りにしてください。
僕のことはここまで3000文字書いてきたようななことですからあまり頼りにせずに、期待もせずに、どうか優しく見守ってくれると嬉しいです。
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