シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第8回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
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☆今回のお悩み☆
シャープさん、ヤンデル先生、こんにちは♪
お2人のこのコーナーがとっても好きです♪
私も何かお2人からのお言葉が欲しい!
と、意気込んで、Googleフォームを開き、回答を入力
の文字を、何度見送ったことか☺︎肝心のお悩みが、うまいこと出てこないのですよ。
せっかくのチャンスなのですから、小洒落た感じのお言葉が欲しい♪そんな欲にまみれた想いでは、採用されないですね。
ここは正直に、1番聞いてみたい事を書くしかない!やっとここまできました☺︎
ただ、まぁ、打つ手はないです。
わかってます。もう会えない人に、会いたくなった時、
どうしたらよいのでしょうか。なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、
そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡
(PN. ぢぢ@札幌さん)
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どうで荘にご入居のみなさん、ごきげんよう。@SHARP_JP の山本です。聞くだけ聞いて解決しないお悩み相談は毎月連載ですので、これが載るのは11月。ボーナスとかクリスマスとか、なにかとみなさまにモノを買わせる12月に向け、私が勝手に忙しくなる月です。無粋なごあいさつでした。
さて今回はポエティックな相談です。あるいは人々が口ずさむポピュラーソングのフレーズのような相談だと思いました。
「もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか」
切なく、美しいですよね。こういう美しいフレーズに出会うと、それに言葉を続ける役割の私は、どうしても尻込みしてしまいます。だってもう、完結しているのですから。このお悩みはもう完結している。それゆえ美しいフレーズだと、私は感じたのだと思います。
尻込みする私は、結論を急ぎます。
会えない人に会いたくなった時、われわれはもう、その人と会っているのです。会えなくなった人とはすなわち、記憶です。あなたは「どうしたらよいのでしょうか」と私に送信した時、会えなくなった人にすでに会っていた。あなたは記憶を手繰りよせることで、かろうじて会えることを知っていた。だからその問いは、あらかじめ完結していたのです。
私たちは、会えなくなった人を思い出すことで、何度でも会う。いや逆かもしれません。会いたいから、何度でも思い出すのかもしれません。たとえ会える人でも、思い出さなければ会う行動を起こすこともありません。実際に会っても、思い出すことがなければ、それはほぼ他人です。人間は介在する記憶さえあれば、会うのも会わないのもさほど違いがないのではないか。そんな極端なことすら、私は考えてしまいます。
もちろんわかっています。思い出すことで会うたびに、もうその人がいないという事実を突きつけられることを。私たちは思い出すことで何度だって会えるけど、もうこれ以上思い出が増えることがないこともまた、同時に思い知るわけです。私たちは記憶で会う能力を、小さな痛みと引き換えに獲得したのかもしれません。
会えなくなった理由はなんであれ、私たちには、会えなくなった事実に打つ手はないです。悲しいほどに、ないです。それでもやっぱり記憶を縁にその人と会おうとする、相談者さんの日々が穏やかでありますように。そう締めざるをえないほど、私にはただまぁ、打つ手はないです。
こんにちは。
冒頭からいきなり挨拶もそこそこに本質的なことを申し上げますと、今回、ぢぢさんからいただいたご相談は、今までの中で一番難しいです。なんとか「回答」しようと思い、何度も何度も書き始めてはみたのですが、どうにもうまくいきません。
悩んで、キーボードに両手を置いてバカスカ叩き、しっくりこなくて、右手の中指をおもむろにバックスペースに伸ばして全部消す、あるいは左手でCtrl+Aと押して全選択して、左手でdeleteするというのを、もう4回ほどくり返しています。
本来、そこまで苦しんで書くようなコーナーではないはずなのですが。
最後、オチの部分を定型文の「打つ手はないです。」で締めるという本連載のシステムは、書く方としてはとても楽です。なぜなら、これによって、悩み相談系コンテンツの一番難しい部分を回避できるからです。結論が「打つ手はない」ということはすなわち、「解決」しなくていいということですからね。他人の問題に解決策を提示するほど難しいことはないですから。
私どもは、お題を見て、思ったことをただ書けばいい。それだけでいい。
疑問や懸念に本気で向き合うことなく、肩肘を張ることなく、ぢぢさんの書かれた文章から着想したイメージを随意に記していけばいい。シャープさんとはこの企画に関しては一回も相談をしたことがないので、彼がどういうやりかたで書いているのかはわからないですけれども、少なくとも私はこれまで「随想形式」で書いてきました。
しかし、今回は、どうもそれがうまく行きません。
理由はおそらく、ぢぢさんの文章全体から、強く、ねばっこく、絡まり合って、へばりつくような、強烈な苦しみのようなものが感じ取れるからです。それをぢぢさんは半分意図的になさっているようで、でも一部は無意識なのかなとも思います。苦しみの一部はどうやら自罰的にご自身に向いているようで、かつ、どうやら私どものほうにも向けられている。
今回のご相談内容は、段違いに重いです。こんなおちゃらけコーナーに送ってくる類いのものではない、まがまがしいオーラのようなものが、文章の奥からビンビン伝わってくる。
「これに、いつものように答えを用意することなく、シレッと随筆を書いていいのだろうか?」というとまどいが、私のキータッチを途中で止めてしまうのです。
ぢぢさんは、死別か離別かわからないですが、とにかく何らかの別れを経験されたのだということはわかります。そこは「誰もがわかるように書いている」。
しかし、その別れについて、私どもに「詳しいことを知らせる気はない」という意思もまた伝わります。本質の部分をホワイトノイズの中に埋もれさせて、このコーナーを読む人に「あまり心を探られないようにしたい」という、仮にも「相談企画」であるはずの本コーナーに対する本末転倒な心意気を同時に感じとることができます。
「小洒落た感じのお言葉が欲しい♪ そんな欲にまみれた思いでは採用されないですね」
いえ、そこまで厳密に相手を選別するような企画ではないんです、ここは。
ていうか大抵の質問者は「まあちょっとなんか小洒落たこと言ってくれや」くらいの軽い気持ちで投稿してくださってきたと思います。
「欲にまみれた」なんていう言葉をここで目にすると、ぎょっとする。コーナーの空気に合っていない。
「なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡」
「ですがね」が引き受ける、あるいは逆転させるべきものが、明確には書かれていませんが、普通に考えれば、この「ですがね」からは、「今は笑って生きられない」という意味を読み取れます。テンションが激重です。ハートが空虚です。
「打つ手はないです。わかってます。」
それは私どもの伝家の宝刀、あるいはエクスキューズ(言い訳)です。先に使われてしまいました。ご丁寧に、「わかってます」で無効化までして。
開示と秘匿とを同時に行っているような。軽量化しながら重装備しているかのような。
ここで唐突にごく個人的なことを申し上げることになり、大変恐縮ではありますけれども、「離別の悩み」は、私自身、背骨の辺りに一本貫通している、私の性格や行動に大きく影響を与え続けている、私の人生のテーマそのものと言って差し支えないものです。
この悩みに関しては私自身、誰とも共有したいとは思わないし、誰かが解決できるとも思っていないのですが、ぶっちゃけ、まれに、誰かこの悩みを引き受けてくれないかな、でも絶対に全部はわかってくれないだろうけどニュアンスだけでもわかったふりをしてくれないものかなと、何度も何度も何度も何度も考えて、でもやっぱりやめてきた、という歴史があるので、その……ぢぢさんがこの七面倒くさい形式の文章を書いた理由も、全部わかるなんて怖ろしいことは絶対に言いませんが50%くらいはわかります。「誰にもわかるわけないんだけど多少は他人に伝えておかないと苦しんでいる甲斐がない」みたいな感覚が、半分弱はわかる。
ぢぢさんが今回の相談文に書かれた言葉は、一文ずつ切り取れば明るくも読めますが、しかし総体として伝わってくるニュアンスは暗黒です。音符も絵文字もこれみよがしに「明るさを演じている」ように見えるし、「これだけやってあげれば、明るさを演じている私に気づくでしょう?」という、探偵が気づきそうなヒントをあえて現場に残す怪盗のような挙動にも見える。
あるいはぢぢさんは日常生活では、カムフラージュに成功しすぎてしまっているのかもしれませんね。周りに「明るく振る舞っている元気な人だ」と思われているのかもしれない。だから、相談文では、我々に「本当のつらさが伝わらない可能性」をおそれて、このようなある意味わかりやすい重さを配備した文章を書かれたのかもしれない。
そしてぢぢさんは今、あらゆる他人の言葉を、あまり自分の中に入れる気がないのではないか、とも感じます。誰に何を言われても私はどうしようもないのだということを、ご自身の中で何度も咀嚼して、あきらめるまでの時間を稼いでいる。だからこんな文章を私どもに送ることを思い付かれたのではないか。
こうしてひたすら読みとろうと試みていくと……そのいくつかはピント外れだったかもしれませんが……、しみじみ感じます。
打つ手がないです。
今回ばかりは全く打つ手はありません。
本当にそうだろうか?
はい、そうです。本当に打つ手はないです。
永遠の離別に打つ手はないのです。
ただし、待つ手はあるかもしれない。
「打つ手はないです」という言葉がゲシュタルト崩壊するくらい、何度も何度も入力していくと、「手を打たずに待っている棋士の姿」がふと思い浮かびました。長考をする。王も飛車も歩も動かさず、ただ待つ。なんらかの手を指したら局面が動いてしまって、それはあるいは、自分を敗北に導く一手になるかもしれないのだけれど、手を打たずに待てば、その将棋はいつまでも終わらないのです。
だから待てばいいのかなと思う。
将棋だと制限時間があるから許されないやり方ですけれどね。人生ならば待てます。
……まあ人生にも制限時間はあるんですけれども、ここは考えようでして、「永遠の離別」という言葉があるように、別れに伴う時間というのは基本的に無限に引き延ばされるんですよね。その無限を生きるのは本当に辛いことですので、人はしばしば耐えられないほどの辛さを感じます。しかし、無限に続くかのような時を過ごすというのなら、心象風景的には制限時間はなくなっていると言い換えることができます。となれば、いっそ、制限時間のない将棋みたいな気持ちで、いつまでも待つ。そういうことは可能なのではないでしょうか。
待つ間には本を読みましょう。永遠の離別を永遠に待つということは、理論上、永遠に本が読めます。
先日、エリザベス女王を主人公にしたフィクションを読みました。『やんごとなき読者』という本です。白水社から出ています。エリザベス女王は、多くの方よりも長生きしましたので、じつはとんでもない量の別れを経験している方です。もっとも、この本は女王陛下の別れの苦しみを直接書いたものではないですが、手を打たずに待つ女王の姿と、あるタイミングで手を打つ女王の姿とが両方描かれており、テーマは「限りある人生における、自分で選べない別れと自分で選べる別れ」ではないかと思います。湿っぽい本ではなく、ウィットに満ちあふれています。よかったらどうぞ。
あと、少し前になりますけれども、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』という本を読みました。この本の主人公はロボットです。人より長く生きます。この「人より長く生きるモチーフ」というのを私はとても好んで、しょっちゅう読んでいます。よかったらどうぞ。
そう言えば20年以上も前になりますが、ライトノベルで『狼と香辛料』というシリーズがありまして、これ、基本的には経済ラノベでして、かなりよくできているのでいちいち感心するのですけれども、主人公は狼娘で、もちろん人より長く生きます。よかったらどうぞ。
この際ですから申し上げますと、『薄暮のクロニクル』というマンガがありまして、これは機動警察パトレイバーを書いたゆうきまさみさんの著作なのですけれども、主人公は人なんですがもう一人の主人公が吸血鬼で、もちろん人より長く生きますがよかったらどうぞ。
あとは『ダンジョン飯』も……いや、これはあまり語らない方がいいかもしれませんが、よかったらどうぞ。既刊12巻で現時点では完結していませんが、なあに、永遠に待っているうちに必ず完結するはずです。
以上、本日は胸を張って申し上げます。かれこれ8本書いて消してこれが9本目になりますが結論ははっきりしています。永遠の離別に、「打つ」手はないです。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。