シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第21回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
様々な「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
水曜どうでしょうの楽しさをコミュニティに入ってより感じます。この楽しさを伝えたいのに伝わらない。そして、伝えられないから、諦めてしまう私がいます。これ、解決方法はあるのでしょうか。私もどのタイミングでなんでこの番組に行きつき、この楽しさに気づいたのか?が全く記憶にないのです。
ここで楽しく生きてるから良いのですが、妻にすらこの楽しさが伝わらず、悲しくなります。
どーしたら良いのでしょうか。。
(PN:きむら)
こんにちは。まるで私の投稿かと見まがうようなご相談、ありがとうございます。
楽しさを伝えたいのに伝わらない、良さを伝えることができなくてもどかしい、布教の仕方がわからないからとりあえず自分だけ信心して、まあ自分は救われてるからそこはいいんだけど、信者(ふりがな:ナカマ)を増やせないことに一抹のさみしさを覚えている……。
もう本当に、我が事です。さまざまな場面で、毎日実感するところであります。
なので打つ手はありません。早。
打つ手があったら私も打ってます。回答もう終わった。早。
それで、えー、この案件に関しては私自身、解決のしようがなく、長年あきらめてしまっている部分もあるのです。
ただしあきらめたと言いましても、決して、飛行機に乗っていたら目的地が視界不良だったから普通の着陸はあきらめたけど、どうしても目的地に着きたいからむりやり胴体着陸してみたら大変なことになりました、的ニュアンスではありません。「釧路空港の滑走路が霧だから、丘珠に引き返すわ! おまえらJRで行け! 特急スーパーおおぞらに乗っちまえば、4時間10分で着くから!」的なニュアンスでございます。
もともと想定していたルート自体はさっさとあきらめ、ヤケになってむりやりそのルートを強行するのではなしに、手間も時間もかかるけど別ルートで行く! という、旅慣れた感を出しながら、見栄に突っ張りカラ元気に胸を張る姿勢でございます。
といったわけで、ああこれは本当に解決しないパターンなんだな、とわかっていただきつつ(この企画はいつでもそうですが)、ひとつ申し上げたいことがあります。
逆に。
逆にですよ。「おすすめしたらめっちゃ伝わる」というパターンを思い浮かべてほしいのです。
たとえばiPhoneの最新機種みたいなことを思い浮かべてほしいのですね。
iPhoneの良さってすごく伝わります。商品自体がいいのはもちろんですがAppleという会社のブランドの力もすばらしく、それらの「提供元のすごさ」に加えて、ユーザーの推す力も半端ないなといつも思います。
iPhoneユーザーたちは、良さを伝えようと思うとすぐ伝わる環境にいますよ。ちょっとうらやましくなります。伝わるからめちゃくちゃ布教してきますよね。Xとかもうお祭りですからね。機種が出るたびにトレンドに乗ります。なんならOSのアプデだけでニュースになったりするじゃないですか。は? OSだろ? なんでそんな興奮してんの? みたいなね。いや失礼。ちょっとひがみましたけどね。
「どのタイミングでiPhoneに行きつき、その良さに気づいたのか問題」についても、わりとわかりやすいんですよ。「知人や親がiPhoneいいよって言いまくってたから、いても立ってもいられなくなって最初からiPhone」とか。「世間がめちゃくちゃ盛り上がってたからiPhone」とか。「自分が使って良さを実感する以前に、周りがガンガンほめてるからそれはもう、いいものなんだろうと最初から勘違い」みたいな感じだと思うんですよ。は? お前自身の感想はないの? みたいなね。失礼。ちょっとひがみましたけどね。
ね。
つまりはね。
あなたのご相談の内容、そして私が長年くるしんできたこの命題を、丁寧に掘り進んでいった先で要約しますと、つまりは「iPhoneが目標」ということになると思うんです。
水曜どうでしょうがiPhone並みのブランドだったらどれだけいいか、という話になってくる。
ジョブズが黒タートルでリアカー引いてタコ星人と共に登壇するところを見たい、みたいな話になってきます。
となると。
そろそろ……あの……「いや、どうでしょうはそういうのじゃないな。」みたいな気持ちになりませんか。
なりませんか?
なりませんか?
なるでしょう。
いやまあジョブズとタコ星人は見てみたかったけれどもだ。
そういう話ではなく。
ぼくらはね。水曜どうでしょうはそういうのじゃない、と薄々感づいていますよね。
あのね。
「誰もがよさを伝えやすいコンテンツからでは採れない栄養」みたいなものがあるんですよ。これが。悲しいほどに。
水曜どうでしょうというコンテンツは、「良さを他人に伝えるのが難しいーッ!」と、もぞもぞするところに、じつはそもそも楽しみのコアみたいなものがちょっとあるんですね。これはもう、20年以上に亘って、多くの藩士たちが、ていうかD陣たちも、くり返しくり返し述べてきたことではあるんですけどね。
D陣が昔よく書いていた話なんですけど。水曜どうでしょうが0時台→23時台と放送時間をステップアップ(?)させて、順調に視聴率を高めていって、一度、ゴールデンタイムに滲出……じゃなかった進出したことがあったんですよ。
滲出じゃないわ。好中球か。
で、ゴールデンタイムで放送されたら、さらに視聴率が爆上がりするかと思ったら、上がらなかったんですよ。23時台とほとんど同じ人数しか見ていなかった。
申し訳ないですが我々それを、ホームページか、もしくはえーと、クイックジャパンの水曜どうでしょう特集号か何かで読んで爆笑したんですよ。
「ゴールデン行ってもナカマが増えるわけじゃないんかい!」とね。
「伝わらねぇなー! この良さ! ガハハハ!」とね。
しかもそこでD陣が考えた話が、輪を掛けてすばらしかったですね。
「ああ、なんだ、何時にやっても同じやつらしか見てねぇのか、だったら俺たちはその同じやつらにだけ向けて番組つくるわ」
その後の、すなわちサイコロ6のあとの企画、私、全部好きです。
水曜どうでしょうクラシック的には後期に位置づけられる一連の作品群。
あそこで水曜どうでしょうはさらに数段成熟したようにすら思える。
「たくさんの人に、いい! いい! と思われるような番組づくり」だったら、つまり水曜どうでしょうがiPhoneだったら、きっと、ああいう形で「我々」がホーチミンにたどり着くことはなかったと思うんですね。
まあ、ラストランのあとDVDが出たらめちゃくちゃ視聴者増えましたけど。番組終わったら増えるんかい。DVD出たら増えるんかい。
今もそういう不思議な流れは続いています。
Netflixで配信されたら増えるんかい。
大泉さんが大河に出たら増えるんかい。
でもねえ、このオバケ番組は、ふしぎなことに、これだけ不動の地位を築いているのに、これだけ儲かってるのに、今もなお、あなたや私が考えているように、「良さが伝わらねぇーッの魅力」を失っていないんです。
藤村Dが山奥の水曜どうでしょうハウスに籠もったときのこと、ついこないだみたいですけど、もう3年ちょっと経ちましたけど、あのときのこと覚えてますか?
「コロナで出かけられないから仕事もしないで山に籠もる」って、それ、誰が見るんだと。
いやいやそれ、おもしろさの伝えようがないっちゅうねんと。
緊急事態宣言下に、あれほど、「いつも通りだな……」みたいな気持ちになったこと、まあ、ほかにはなかったですよ。
そしてあれめっちゃバズりましたね。本まで出てね。
いいですか。
もはやこれは我々の、「癖」に関することであります。くせではないです。ヘキです。
我々には、「他人に伝わらねぇーッ! この良さは、俺にしかわかんねぇーッ!」と思うものを愛する嗜癖があります。
水曜どうでしょうがiPhoneだったらこんなに愛することはできなかった。
あきらめるしかないでしょう。
あきらめて自分が楽しむしかないんですよ。
水曜どうでしょうはその点偉いです。
決してやけっぱちの胴体着陸なんかしません。
「明るくて魚が釣れねぇ? ならタレントなんか撮らなくていいからライトオフしろよ」を平気でやるのが水曜どうでしょうですよ。
為せないなら為さないんです。彼らはね。
それにわれわれはしびれてきたんですよ。これはもう、D陣や出演陣のすごさだというのはその通りなのですが、さらに言うと、我々が内包したヘキのたまものでもある。
フグは自分の毒に当たってしなない、とか言いますけど、我々はみずからの毒にあたってしびれてちょっと気持ちよくなるタイプの生き物なんですよ。やばいですね。脳内麻薬所持のかどで大麻取締法違反で検挙される日も近いと思いますよ。
返す刀でついでに切っちゃいますが、この連載にも言えることですよ。
そもそもこの連載、「どうで荘」の掲載なのにD陣が一切書いてないんですよ。でもどうで荘の人気連載とかって銘打ってるんですよ。
しびれますよね。
毎月やってくる原稿の督促文に、「D陣も楽しみにしてます」って書いてたりするんですよ。これあんたらのサイトじゃないんかい、主役が書かずに「読んでます」って、それで企画として成立してるって、どれだけ自由なんだよと、いつもツッコみながら、はい承知しましたつって、爆速で原稿書いてますよ。これもう仕事じゃなくて年貢ですよ。
笑っちゃいます。脱力します。このおかしみのニュアンス……ああ、伝わらないだろうな……妻にも子どもにも……。
この連載を楽しんでくださっている方々もまた、基本的には「コミュニティに入った人びと」です。みんなもどかしいだろうなー。
すみませんね、我々、書く方も読む方も、番組の本丸から藩士の一人ひとりにいたるまで、ヘキがこんな感じですから。あきらめましょう。ご唱和ください。まあその、打つ手はないです。
どうで荘にご入居の藩士あるいは同志のみなみなさま、いかがお過ごしですか。関西在住の私は、遅ればせながら、おそるおそる、ようやく新作を見終わりました。なにがあっても結局おもしろくなる魔法のような時間でした。われわれはその魔法を何度も見せられてきたので、またかよと思うわけですよね。私はゲラゲラ笑いながら「夢だとわかりながら見る夢みたいだな」と、妙な感慨に包まれたのでした。
ただし上記の感想は、私と同じ属性の人を相手にする時しか、まともに機能しません。まさにここ。どうで荘のような、同じモノを履修してきた同志がいると確信できる場所でだけ通用する、あまりにぶっきらぼうで、あまりに説明を省いた言葉です。もしここではない場所でどうでしょうの新作について語らなければならないなら、私はもっと言葉を選び、もっと長々とした語りを選択するでしょう。
文脈も注釈も言葉選びもすっ飛ばして、ただよかったというという気持ちを垂れ流してよい安心が保証された場所を、私たちはコミュニティと呼びます。なにかと生きづらい世の中にあって、そのくせ人の好みは孤島化する時代にあって、コミュニティは好きを楽しむ理想郷のひとつだと思います。家族とか友人といったつながりとは別に、好きを共通項に暗黙の連帯を感じられるコミュニティは、今後人生を長く生きようとする人類にとって、さらに重要になっていくのかもしれません。
一説によると、驚くほど多くのモノやサービスは、その売上の8割をわずか2割のファンが支えているそうです。業態や業種に関わらず、企業は満遍なく少しずつお客さんに依存するのではなく、熱心なお客さんの上位20%が繰り返し購入することで、モノやサービスはようやく存続できるそうです。ふだん私はSNSで多くの人にモノの購入を促す仕事をしていますが、積極的にそれを買おうとするファンや、リピーターと呼ばれるお客さんの姿を見る限り、この8割/2割の法則はあながち間違いではないという実感があります。
つまりモノを作ったり売ったりする側にとっても、コミュニティはとても重要なのです。むしろコミュニティこそが、死活問題とも言えます。コミュニティが活発に機能し、そこに集うファンが熱心に語りあうことが、実は好きの対象そのものの永続を担保している。言葉を変えれば、コミュニティが活性化すればするほど、作り手側は儲かる。儲かるは語弊があるにしても、少なくとも作り続けることができるといえます。
このサイクルは長年のどうでしょうファンなら、よくわかると思います。これは私の憶測ですが、どうでしょうD陣のおふたりは野生の勘というか天性の商魂でもって、番組の早い時期からファンとコミュニティの大切さを体得されていたのだと思います。だからこそ相談者さんが体験したような、現在のどうでしょうコミュニティの楽しさがあるのでしょう。
じゃあコミュニティをどんどん大きくすれば、さらにどうでしょうは飛躍するのではないか。コミュニティに入るファンをどんどん増やせば、儲かるのではなかろうか、という話になりそうですが、おそらくモノゴトはそう単純ではありません。むやみにコミュティの大きさを目指すと、コミュニティの熱量が失われたり、逆にコミュニティの囲い込みを追求すると、その閉鎖性が活度をじわじわ奪っていく現象もよく見聞きするところであります。なんでも比例しないところが、好きという人間の気持ちを扱う難しさなのです。
現に、どうでしょう関連のコミュニティで、あからさまに規模を大きくするようなアクションを私は見たことがありません。ここ、どうで荘の入会案内も楚々としたものですし、キャラバンといったイベントも知りたい人に向けて開催を伝達するだけで、知らない人を振り向かせるような広告的アプローチはとられません。コミュニティからいかに離脱させないかという、逆方向のあからさまさも感じたことがありません。むしろ去る者は追わずといった自然体を、運営されている人たちの中に見ることができます。たぶんコミュニティを維持する人も、コミュティに集う人も、大事なのはそんなことじゃない、ということがわかっているからだと思います。
ですから相談者さんも、だれかをコミュニティへ無理に引き込むような勧誘をする必要はありません。たしかに「布教」とか「沼」という言葉はよく目にします。好きを周囲に感染させることは、推しを抱く者の務めといった言説もたしかにあります。しかし相談者さんがすべきは、どうでしょうの敷居を下げることでも、上げることでもありません。まずあなたがやるべきは、安心して好きを謳歌することです。それこそが、コミュニティにとっても必要なことなのです。
相談者さんは書かれています。どうでしょうにいつどうやって出会い、なんで好きになったのかわからないと。たぶん、好きとの出会いはそういうものなんだろうと思います。好きは、他人にわかるように理路整然と説明できるものではありません。それを過不足なくわかってくれるのは、同じ好きに出会った人たちだけです。好きは複雑で奥ゆかしくて、かんたんに説明されることを許さないから、好きはつねに言葉足らずでしか伝えらないのでしょう。だから相談者さんが妻にすら伝わらないと絶望するのも無理はないことだと思います。
ただしひとつだけ、好きを伝える手段はあります。あなたがその「好き」によって、たのしそうにしていればいいのです。人は、たのしそうにしている人に興味を持ちます。それがなにかわからなくとも、他人はたのしそうにしているあなたに興味がわくのです。おそらく相談者さんも、きっかけはそうだったんじゃないですか。だれかがどうでしょうに夢中になる様を見て、興味を持ったのではないですか。私には、相談者さんの「記憶にないあいまいなきっかけ」は、そういう風にファンが楽しむ姿を通してどうでしょうの魅力が伝わった証に思えます。
だから相談者さんはそのまま、たのしそうにしていればいいのです。たのしそうな姿を隠す必要はありません。とりわけ身近にいる家族は、あなたが好きを謳歌する姿を見せることこそが、相手にどうでしょうのたのしさを伝える唯一着実な手段なのだと思います。ただし相談者さんの配偶者さんがまた別の好きを抱えている場合、あなたが勧誘される可能性も非常に高いわけです。ただまあ打つ手はありません。
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あらかじめ解決を放棄したお悩み相談は今回でいったん終了です。理由は諸般の事情によりけり、打つ手はありません。
当初の予想を超えて、21回の連載となりました。どうで荘にご入居のみなさま、おつきあいありがとうございました。また、解決しないぞと看板を掲げているにも関わらず、相談を寄せてくださった方々にも感謝申し上げます。
なによりこの相談室は、私とヤンデルという他者なる二者が、同じ相談に鏡のように回答する対比こそが真骨頂だったと思います。その四苦八苦は、同じく迷走してきた私がいちばん理解できます。おつかれさま。ヤンデル先生、ありがとう。
連載中はひそかに、このコンビがどうでしょうD陣のおふたりの姿に重なって見えればいいなと、図々しく思っていました。藤村さんと嬉野さん、私はおふたりの生き方が好きです。
それでは機会がありましたら、またどこかで。ありがとうございました。
山本隆博
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【連載終了のお知らせ】
「シャープさんとヤンデル先生のお悩み相談室~ただまぁ、打つ手はないです~」は、今月の連載をもちまして、終了させていただくこととなりました。
これまで多くの方にご愛読いただき、誠にありがとうございました。
お悩みをお送りくださった皆様にも御礼申し上げます。
【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(45)
好きなどうでしょうはユーコンです。
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第20回
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☆今回のお悩み☆
こんばんは。先ほど同期の裏アカと思われるTwitterで「同期にモヤっとする」という発言を見てしまいました。
つい私も裏アカからいいねを押してしまい、会社や先輩の愚痴やらをスクショしてしまったところ夫にドン引きされてしまいました。
ここで相談です。特定可能な愚痴を世間に垂れ流す同期と他人の裏アカをニラニラ楽しみにしている私、どっちが性悪でしょうか。
(P.N インキー子虎)
どうで荘にご入居のみなさま、きょうもきょうとて、自分の後ろめたさを持て余してますか。きょうもきょうとて、私もです。私の半分は後ろめたさでできている。他人に言えない、見せられない自分など、いくらでもあります。満ち欠けする月をいつまで眺めても、決して月の裏側は見えないように、日々感情の起伏を見せる人をどれだけ見つめても、その人の全貌は結局のところ見渡せないのかもしれません。
見えている自分が自分のすべてではない。そのことは本人だけが実感できることです。本人だけが、見せていない自分の部分を見ることができる。その見せていない自分は案外と膨大で、しばしばその扱いに自分で困ることがあります。むくむく膨れあがる裏の自分が次第に表の自分を圧迫するようになった時、われわれはなんらかの対処を必要とするでしょう。放置していたら、見せられない自分が見えてしまう自分へ、裏返ってしまいますから。
私が言うまでもないことですが、物語の創作とか、音楽や絵といった表現が、そういう時の対処法を担ってきたのだと思います。自身の内側にうごめく、見せられない自分を鎮めるために、芸術が果たしてきた役割は大きかったはずです。翻って言えば、見せられない自分が抽象をまとって表に差し出されるからこそ、だれかの芸術はだれかを強烈に惹きつけるのかもしれません。
しかし現代、見せられない自分を鎮める方法は、スマホによって驚くほどカジュアルに獲得されるようになりました。SNSにおける裏アカがそれです。かつては文字通り「心血を注ぐような」時間と労力を投じた表現の先にようやく鎮めることができた「見せられない自分」が、いまや文字通り「吐き出す」ほどの気軽さで「見せられない自分」をなだめることができます。
それが人類にとって有益かどうかはわかりません。私自身は、こまめに吐き出すことで見せられない自分がコマ切れにされ、ドロドロと自分が積層した表現の生まれる機会が失われてしまうことに一抹の残念さを感じます。現代は小さな負が撒き散らかされる一方、積もり積もった負を表現した巨大なパワーが巨大な共感を得る可能性が失われてしまったのかもしれません。しかし手軽に裏の自分を吐き出せる手段があったら、だれだってそれに手を伸ばすことは容易に想像ができます。私でもそうします。ストレスだってこまめに解消するのがコツなんですから、見せられない自分だって、こまめに成仏させるのが肝心なのでしょう。
だから相談者さんの同期も、なんらめずらしい存在ではありません。裏アカを所持し、そこでふだん言えないことを垂れ流す行為は、別に非難されるようなものではないと思います。そして裏アカで同期の裏アカを覗こうとする相談者さんもまた、非難されるものではないでしょう。なぜなら、人間は人間の裏側を見たいと欲望するものですし、見せられない自分とは結局のところ、だれかに「見られること」でしか成仏できないからです。
おそらく相談者さんの同期も、虚空に向かって「見せられない自分」を吐き出しているわけではないと思います。裏アカはただの独り言ではありません。相談者さんの同期は、見られるかもしれないリスクを心血にして、見せられない自分を鎮めようとしているのではないか。あるいは、見せられない自分をだれかにそっと肯定してほしくて、裏アカで吐き出す行為を選んだのではないか。相談者さんが「特定可能な愚痴」と書かれていることからも、私にはそういう風に思えて仕方ありません。
であるなら、相談者さんが(たとえ裏アカからとはいえ)その愚痴にいいねを押したことは、相談者さんの同期が持て余す後ろめたさをいくばくか解消させたのではないか。その人の裏のかけらに成仏をもたらしたのではないか。相談者さんの夫さんはドン引きされたかもしれませんが、私は相談者さんの衝動をむしろ賞賛したいと思います。
こういう時いつも私は、ファッションのことを思い出します。ファッションは「自分がほかの誰よりも際立って個性的にありたい」と願って、自身の装いを案じます。私たちは他人と被らないように、他人と見分けがつくように、他人とちがう服を着ようとします。しかし同時におしゃれの追求は、それをあなたの個性として認識してくれる他人を必ず要求します。私はほかと違うという記号は、あなたはほかの人と違うねと受信されないと成立しません。自分が他人と似ないようにしながら、自分と似た他人を探す。ファッションには、そういう矛盾した欲望が内在していると思います。
たぶん裏アカの愚痴も、どこか似ているように思うのです。見られたくないけど見て欲しい。わかられたくないけどわかられたい。そういうアンビバレントな欲望が同期の裏アカから発せられているのなら、相談者さんがそれを受け止めてあげたと考えることもできます。それはある種の人助けです。
しかし、しかしですよ。スクショはいかがなものでしょうか。いずれ本人に突きつけることもあろうかと、万が一のケースを考えるのはどうかと思います。そこはやはり、受信したサインだけをそっと残すのが人間関係です。だから「スクショを撮った」という点において、性悪なのは相談者さんの方に軍配が上がらざるをえません。
ですがそこはほら、陰気(インキー)だとペンネームで自称されるあなたですから、ご自身の裏に潜むうしろめたさは重々おわかりかと思います。見せられない自分を見れるのは自分だけです。あなたの性悪さを知るのはあなただけなのです。ただまあ、打つ手はありません。
こんにちは。ご相談をお送りいただきありがとうございます。
まず、私の理解がずれているとお返事もずれてしまいますので、いったんお話しをまとめさせていただきます。
あなたは、前提として、
・お勤め先の同期の裏アカを把握して追いかけている
わけですね。そして、
・その同期の方が裏アカで、「同期=あなたにモヤッとする」と書き込んだ内容を見つけた
ということだと思います。同期の方から見た同期イコールあなたですよね。もしかしたらあなたを含めた数名かもしれませんが、そこは情報が足りていないので、間違っていたらご勘弁ください。
そして、
・あなたは自分の裏アカ(たぶん同期の人にはそうとはばれていない)を使って、「自分に対してモヤッとする」と書いた投稿にいいねをつけた
ということですが、これはちょっと深読みが必要です。いきなりあなたの裏アカにいいねを付けられたら、同期の方はびっくりするのではないでしょうか。こいつ誰だ、みたいな感じで。そのいいねが不自然じゃない状況には、ぱっと思い付く感じで三通りのパターンがありえます。
① あなたの裏アカを含めた複数のアカウントがいっせいにいいねをつけている状況で、同期の方はいちいちいいねを見ていないから問題にならない
② あなたは裏アカで、同期さん(の裏アカ)と仲良くしており、あなたの裏アカがいいねを付けることに不自然さがないし、同期さんはあなたの裏アカの正体があなただと認識していない
③ あなたの裏アカは鍵アカウントなので、いいねをつけても相手に見えないし、あくまであなたが同期の裏アカの投稿をチェック・保存するためにいいねをつけただけである
まあこのどれかではないかと思うわけです。なんとなく③な気がしますが、それはわかりません。続きもまとめましょう。
・その同期の方は、裏アカで会社の愚痴や、共通の先輩の愚痴をも投稿しており、あなたはそれらをスクショした
・その話をすべて夫さんにお話しされ、引かれた
こういった内容をお書きいただきました。
さて、以上の内容から、「ここで相談です」につなげる場合、文章の定跡通りに行くならば、
「このような行動をしてしまう私は性悪でしょうか」
が普通の流れだと思います。
あるいは、
「このような行動をして夫に引かれたのがちょっとショックだったのですが、やはり、他の人も私の行動を見ると、引くでしょうか」
あたりが自然だと思います。
しかしあなたは、「ここで相談です」の後に、
「同期と私とどちらが性悪でしょうか」
という内容を書かれました。
ここでひっかかりが生じます。
なぜひっかかるかというと、ここまでの文章を無心に読む限りでは、同期さんの「性悪さ」がいまいち思い浮かばないからです。
イヤイヤ、同期の方は、あなたのことを裏アカで「モヤッとする」と書いているのだから、性悪の候補ではあるだろうさ、という方もいらっしゃる……かもしれませんが……。
同期の方はどちらかというと、性悪というより脇が甘いというか、粗忽であるというか、うっかりしているというか、とにかく、悪というより失策、エビルというよりエラーで語るべき存在として書かれています。
なにせ「裏アカ」ですよね。根源的に隠しておきたいアカウントです。リアルでつながっている人たちにはわからないように運用する場所です。
それがこうして、こともあろうに当人にばれてしまっているのだから、悪いやつだなーではなく、ポンコツだなーという感想が出てくるのが自然です。
したがって、「同期さんとあなたとどちらが性悪ですか」という質問は、いまいち成り立っていないように思えます。
さらに言えば、あなたはあなた自身のことを「性悪」と読めるように文章を組み立てられています。
「つい私も裏アカから」と、あてこすりのような表現を用い、「夫にドン引きされてしまいました」と身近な家族からの反感をそえて、他人の裏アカをニラニラ楽しんでいる、とオノマトペ全開で不快をふりかけのようにまぶす念の入れよう。
つまり、この文章は、読む人に、「同期はポンコツ、あなたは性悪」と読めるように作られています。だから私は違和感にひっかかる。
「同期と私とどちらが性悪でしょうか」。いやいや、これは相談として成立していません。素直に読む限りでは、誰がどう考えてもあなたのほうが性悪だからです。
ここに書かれている内容だけを読むと、そう読めてしまうのです。
だから私はもう少し考えるべきなのだと思います。
あなたの本当の相談の内容は、「どちらが性悪でしょうか」ではないのではないか、と。
そもそも同期の方はなぜあなたにモヤっとしたのでしょうか。
同期の方が、あなたに対して少し嫌だと感じたことがあった。
それだけでしょうか。
同期の方が一方的にモヤッとしているのではなく、じつはお互いさまで、あなたはあなたで昔から同期の方にモヤモヤしたものを感じていたのかも。
昨日今日の話ではないのかもしれない。
だからこそ、同期さんの裏アカを把握して、今までずっと追いかけてきたのではないか。
あなたが相談の裏に(無意識に?)隠している背景情報として、今回のいいねやスクショのずっと前から、あなたと同期の方との間にはなんらかの摩擦がずーっと存在していたのではないかと思います。あなたはそれによって、それなりの期間、けっこうしんどい思いをしてきたのではないですか。
その結果、現在のあなたが同期さんに対して持っている、一番かんたんな表現語彙が、じつは「性悪」というものなのではないでしょうか。
あなたはずっと前から、この性悪な同期のヤロウめ、と、じくじたる思いを抱えていたのではないでしょうか。
しかしそれを表面に出さずに抑圧してきたのではないかと。
そこを抑圧していないなら、相談文に最初から書いていますよね。「この同期はそもそも昔から性悪で」と。
でもそういう内容を書かずに伏せた。
こじれてからの時間が長くて、どちらかが一方的に性悪だといえるような関係では、もはやなくなっている、ということかもしれません。
あなたも同期さんも互いに相手の本性をうっすらといやがっている。双方向で。性悪、性悪と念じ合っている。冷戦状態である。
仮にそうだとして、あなたは、同期さんを一方的に性悪とおとしいれることまではしていない。相談文になんて嘘を書いてもいいのだから、あなたはもっと、同期を性悪っぽく見せるような工夫をしてもよかったはずです。でもそれをしなかった。
そこは、なんというか、性悪どうしの仁義みたいなものがあったのではないか。
しかし今回、同期さんがポンコツな裏アカ運用をしたばっかりに、あなたに対する不満をあなたが直接受け取ってしまった。あるいはそれは「計算づく」なのかもしれないとすら邪推してしまうのですけれども、うーん、とにかく、同期さんがひとあし先に、あなたを、未必の故意的に殴った状態になってしまった。
あなたは裏アカを追いかけていたばかりに、ふいに、先に殴られた。
そういった背景を全部伏せたあなたは、伏せたつもりで相談文を書いたのだけれど、最後の最後に、つい、「同期と私とどちらが性悪ですか」と書いてしまった。もらしてしまった。
さて、ようやく核心なのですが。
あなたがこの相談文に用いるべき、本来のことばは、「性悪」ではなく、「痛くてつらくて悲しかった」なのではないですか。
たとえばそれはきっと、このような文章でもよかったのではないですか。
こんばんは。先ほど同期の裏アカと思われるTwitterで「同期にモヤっとする」という発言を見てしまいました。
そもそも私と同期とは、これまで、表だってケンカしたり陣地の奪い合いをしたりするような関係ではなかったのですが、内心ではなんとなく馬が合わず、いや、お互いにいい大人なので、そうとは互いに言わずに付き合ってきたつもりでした。
ただ、その裏で、けっこう前に見つけた同期の裏アカをつい追いかけてしまっており、今日にも職場の愚痴が出るかもしれない、明日にも私の悪口が書き込まれるかもしれないと、チェックするでもなくチェックしていたところ、果たして、先ほど私への愚痴を見てしまったわけです。
予想していたこととは言え、ショックです。傷つきました。
というか、隠すならきちんと隠せよ。裏アカだってわかるようなアカウントを作るなよ。なんで私にばれてんだよ……。
もっとしっかりしろよ。なんで私を、陰で殴るんだよ。
思わずかっとなった私は、同期の他の発言をあさり、会社やほかの同僚に対する悪口なども見つけて、これは何かに使えるかもしれないと思ってついスクショを保存してしまいました。それを知った夫にはドン引きされました。
確かに、裏アカをストークするような行動はよくないのかもしれません。その意味では私は性悪だと思います。
でも、同期のことも許せません。モヤッとしたという陰口よりも、なによりも、あんなガードの甘い裏アカで、私に対する不満を適当にもらすなんて。
その程度のことで傷ついた自分も許せないです。
この気持ち、どう落ち着けたらいいと思いますか。それとも、裏アカを追いかけていた人間の当然の末路として、あきらめるしかないのでしょうか。
……さすがに私の妄想が過ぎたかもしれませんので、このへんにしておきましょう。
事実はまったく違うかもしれません。
「どうで荘向けの相談」を送るために、ライトなエピソードをちょっと盛って書いてみたにすぎず、こんな複雑な過去は一切なかったのかもしれません。
ただ、ひとつ言っておきたいことがあります。
あなたは今、思った以上に傷ついており、そこにはケアが必要なのではないかということを、私は心配しています。
しかし、「どちらが性悪ですか」という、もしかすると本来のご相談とは異なる、あなたの痛みをカムフラージュするための「かりそめの声」かもしれないものがどうで荘に届いてしまった以上、私からは、あなたをどうやってもケアできません。
必要なければいいのですが。
あなたの本来癒やされるべき「声」は、あなたの閉ざされた心の中にしまわれているのではありませんか。その「声」が私たちの元に届いていれば、それを「カギ」として、私はあなたのドアを開き、中に乗り込むことができたかもしれません。
しかし、あなたは「カギ」をうっかり心の中にしまい込んで、インキーしてしまっている可能性がある。
「どちらが性悪でしょうか」というご相談に対して、お返事は可能です。しかし、あなたの本当の傷がほかにあるのだとして、そのような「書かれなかった相談」に対しては、まあその、打つ手はないです。
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☆現在、皆様からのお悩みを大募集中!
【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(45)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
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第19回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
様々な「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
採血の際、腕の血管が逃げます。右手の血管はレジスタンスの様になっており、看護師さんによっては腕の中で針がマツケンサンバ並みに動きます。マツケンサンバが嫌な私は涙を流しながら「後生ですから、手の甲から、手の甲から採血をッ……」と懇願しますが、看護師さんのプライドを傷つけてしまうのか、マツケンサンバはさらに加速。ここは梅田コマ劇場かと思う位の熱演を繰り広げた結果、腕にはいくつかの注射針の跡と内出血の跡。次の日警察官に職務質問を受けたことは言うまでもありません。腕の血管が逃げないように説得したいのですが、どのように説得すればいいのでしょうか。嘘でもいいので教えてください。
(P.N:匿名希望の中川学)
こんにちは。
――追いかけると逃げるよ。
人って、そういうものだから。
チラチラこちらを振り向きながら、楽しそうに逃げていく。
クスクスと笑いながら。
手の鳴るほうへ。
アハハ。
とはいえ、追いかけないわけにはいかないんだ。
私たちは、大人だから。
そして逃げていくのは、子ども。
血管は無邪気な子ども。
子どもが逃げていくとき、責任ある大人は、腹を決めて追いかける必要がある。茶番であっても。くり返される諸行は無常であっても。追いかけるのは、子どもの体ではなく、心。大人はそれをつかまえにいかないといけない。
それはそれとして……マツケンサンバって、別にそんなに動かないよ。
あれ、ほぼその場で踊るから。ちょっと揺れながら。
だから、たとえとしてはおかしいよね。冷静に考えると。
なぜあなたは、おかしいたとえを使ったのかな。
それはたぶん、本当は血管がそれほど動かなかったから、ではないかと思う。
スルッと逃げたのかもしれない。でも、そんなに派手に動き回ってはいない。
つまりたぶん妄想。
血管が動き回るという妄想に、想像上のマツケンサンバを付与したから、とっ散らかったんだと思う。
ちなみに、マツケンサンバって、サンバじゃないからね。
サンバにボンゴ使わないし。4割くらいマンボで3割くらいルンバ。その正体はラテン風歌謡曲。
陽気だから踊りたくなるかもしれないけれど。
血管が逃げるときのたとえに使うような歌じゃない。
これについては、かわいそうだなと思った。
引き合いに出されて、かわいそう。
マツケンサンバがかわいそう。
本当はマツケンサンバIIなのに、省略されてるところもかわいそう。
「マツケンサンバが嫌な私は……」って、嫌われ損。ああ、かわいそう。
そういうこと言うから逃げられるんだよ。
なんか血管の気持ちわかってきた。
この際だから書いておく。
まず、「後生ですから」なんて言ってないでしょ。大げさでしょ。盛ったよね。
看護師のプライドがどうとか言ってるけど、看護師って「刺す場所変えてください」って普通に言えば変えてくれるか、変えないならその理由を言ってくれるよ。つまりはその看護師のプライドのくだりも嘘じゃないかな。適当にふくらませたでしょ。盛ったよね。
ぶっちゃけ、職務質問も嘘でしょ。まあこれはみんなもわかったと思うけど。
わかるよ。大人だもん。
ほかにも気になった点がある。
レジスタンスって抵抗運動だから、どっちかっていうと「テコでも動かない」ときに使うほうがしっくりくる。血管が何度も針を受け止めて、ぼろぼろになって、それでもしぶとく生き延びていく、みたいな意味で用いるならジャストなたとえ。でも、逃げる血管をたとえるにしては変だよね。あんまりそこまで考えずに書いたでしょう。「レジスタンス」って言葉の響きにうっとりしたかっただけじゃない?
あとさあ、梅田コマ劇場って、今はないよね。
梅田コマ劇場が閉館・移転して梅田芸術劇場になったのって1990年代だよ。当然、マツケンサンバIIなんて、なかった。
そういう時代考証の適当さも、ちょっと雑だなーと思う。
そして極めつけは匿名希望なのに名前書いてるとこ。でもこれなんかツッコミ待ちでニヤニヤしてるところが普通にちょっと寒いから、特にコメントはしません。おもしろくはなかったよ。
つまり今回のお悩みのほとんど全部が嘘と脚色。
でも、この中に、まったく真実がないかっていうと。
そんなこともない。
今日の相談は、ここからはじまります。
血管は確かに逃げたんだと思うんだ。踊ってはいないけど。
いくら話しかけてもスンって感じでまともに取り合ってもらえなかった、高校時代の同級生の女の子みたいに、はかなく逃げたんじゃないかな。
やるせないね。
焦燥感と無常感がじわじわとブレンドされながら、心の下水道を満たしていく。
そういう逃げられ方を、あなたは実際に経験したんじゃなかろうか。
そこだけは、嘘じゃなかったんじゃないかな。
そして、そのことに、あなたはきっと傷ついた。
違う? 違わないよね。
あなたは傷ついたんだ。
傷ついたって言っても、内出血の話じゃないよ。心に傷を負った。
逃げられるってのはさ。
つらいよね。
でもあなたは、つらかった話を、そのままぱっとお悩みには書かなかった。
嘘にまみれた形にした。
私は今、そのことをとても真剣に考えています。
あなたは、もしや、これまでも、自分に何かつらいことがあるたびに、そのつらさに真っ正面から向き合おうとするのではなく、いったんその負荷を、衝撃を、傷を、あたかも砂の中に宝物を埋めてなくしてしまうように、自分の中に取り込んでしまったのではないですか?
傷を、内面化してきたのでは?
傷をつけられた自分に、「傷をつけられて当然の理由」があるんじゃないかと心の奥を探ってみたり、
傷がついている自分のほうが「じつは本来の自分」なのではないかと、トボトボ思索の荒野を歩いてみたり、
そういう自分にまた、二重に傷つきながら、傷を追った自分を茶化したり、環境を笑ったり、あえてズレた例えを使ってアイロニカルにまとめたり、してきたんじゃないでしょうか。
違う? たぶん、違わないよね。
だとしたら。
腕の血管が逃げないように、説得しましょう。私も手伝うよ。本気で。
その説得はネタっぽくやっちゃだめだと思う。
あなたの送ってきた相談のように、カムフラージュ過剰で、本当の心がどこにあるのかわからなくしてしまうと、たぶん、だめなんだと思う。
だからさ。
まっすぐ、説得しよう。一度でいいからしっかり向き合おう。
逃げるな!
血管、逃げるな!
戦え!
私たちが、ついてるから!
以上が、今の私の、精一杯のアドバイスです。匿名希望の中川学さん、健闘を祈ります。
あと今日のこの長い長いホラ話を読んでうっかり感動した人がいたとしたらちょっとそれについては打つ手がないです。
どうで荘にお住いのみなさまにおかれましては、健やかにお過ごしでしょうか。私はそれなりに健やかです。ことほどさように医療の現場に注目と負荷が寄せられる時代にあって、幸いなことに私はお医者さんにかかりっぱなしということはありません。ここでお悩みの回答を担うもうひとり、ヤンなんとかも医療の従事者ですが、ほんとうにご苦労さまと思います。
では今月のご相談です。採血がいつもうまくいかず、何度も何度も針をぶっさされるからどうしたらいいでしょう、という内容です。これまた幸いなことに、私は採血されることに苦労するという経験はありません。しかし会社の健康診断なんかで「なかなか順番が来ないな」と顔を上げると、射す方も射される方も四苦八苦していたり、あるいは採血という行為に気分が悪くなり別室へ運ばれる人もいたりして、なんとも気の毒だなと感じます。ちなみに気分が悪くなった人は翌年も運ばれていました。
自分の身体の状態を調べるためにするのが採血ですから、治す治さない以前に、治療のスタートラインに立つ段階から苦労を強いられるのは、なかなか奮闘の気がそがれるだろうと思います。加えて採血の苦労にはそもそも、する側の熟練度と、される側の血管の特性という、原因の二面的複雑さがあるはずです。しかし相談文を読む限り、採血のうまくいかなさは終始、ご自身の生きのいい血管(というと医療の現場における矛盾が生じそうですが)にあると自ら語られています。決して看護師のせいだとはおっしゃいません。そこに私は相談者さんの、医療に従事される方への配慮、言葉を変えれば「注射のプロフェッショナル」への敬意を、ほのかに感じます。
プロフェッショナルに注文をつけるのは勇気がいります。ある事象や行為について、明らかに自分より経験量もスキルも多い相手へあれこれ言うことに、私たちはためらいをおぼえます。なにせ向こうはプロですから。飲食店へ入って、うまいまずいはともかく、作り方まで指示する人はいないでしょう。私もこういう仕事が長いので、ようやく言葉のプロという認知が進んできたのか、さいきんは言葉の選び方について社内からあれこれ指定されることはなくなりました。うまいまずいは相変わらず言われますが。なので、相談者さんも「後生ですから」という懇願というかたちでしか、プロに注文をつけることができないのでしょう。結果、腕の注射跡は増えるばかり、とは相談文に書かれているとおりです。
ご相談には「逃げる血管の説得方法を教えてくれ」とあります。私には不随意筋の管理方法などわかりません。だいたい随意の筋すらうまくコントロールできない、極度の運動音痴で知られる私です。尋ねる相手を間違っています。とはいえ、なかやまきんに君ですら、筋肉に聞いても答えはわからず、筋肉はルーレットだとおっしゃっています。きんに君でも無理なのですから、われわれが「逃げるのかい?逃げないのかい?」と自らの血管に説得を試みても、成功するはずがないと思われます。つまり注射をされる側に、打つ手はないのでしょう。やはり採血は、注射のプロが成否を握る領域なのだと思います。
と、ここまで私は胸騒ぎを覚えながらも、その胸騒ぎがいったいなにかを把握しないまま回答を進めてきました。回答も終盤に差し掛かるいま、胸騒ぎの出元を探るべく、ペンネームのお名前を検索してみたのです。そこでわかったのは「相談者さん、あなたもプロですよね…?」ということでした。
もちろん相談者さんがプロの作家さん、それもマンガ家さんであることは推測の域を出ません。私には確かめる術もありません。しかし、この相談文の流れるようなおもしろさ、客観性と躍動感にあふれた血管描写力、そして必要以上に語られるマツケンサンバへの多幸感に、私は一読目からただならぬ胸騒ぎをおぼえていたのでしょう。これはプロの仕事だ、と。
であれば、なおさらです。プロに注文をつけるなど、私にはできません。私にはそんな勇気はありません。私が申し上げることができるのは、この相談文で綴られたお悩みをぜひマンガで読ませてください、それだけです。ただまあ、打つ手はありません。
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山本隆博
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☆今回のお悩み☆
くだらない悩みですみません。夏はさっぱり、美味しい料理の時期ですね。こんにちは。
週末いま 推しているジャンルで某コラボカフェ的なものに通っています。ただここ最近、ヘルシーブームもあり腹八分目の生活から食べ物を沢山食べることが出来ません。歳のせい? 揚げ物は特に……
もっと推しに貢ぎたい!!健康も大事と思いますが、屈強ないっぱい食べれる胃袋をつくるにはどうしたらいいでしょうか…?内臓強くなれますか?出来ることがあればご教授願いたいです。宜しくお願いします。
(P.N:たくあん)
残暑どころではありません。暑熱お見舞い申し上げます。どうで荘にご入居のみなさまにおかれましては、無事ですか。元気ですか。こちらは夏バテですと言いたいところですが、春夏秋冬バテているので通常運転でした。生まれてこのかた、頑強な身体も漲る覇気も持ち合わせてこなかったから、私には「昔はこうじゃなかった」という悔恨がほとんどありません。ずっとバテてたし、ずっと少食でした。ずっと元気がないし、いまもない。それ以上でもなくそれ以下でもなく、それが普通です。
相談者さんの年齢はおいくつくらいなのでしょう。はっきり書かれていないからわからないけど、文面には「昔はたくさん食べられたのに」という風な名残があるので、いっぱんに中年とくくられる世代なのかもしれません。もしそうなら、相談者さんは食べる量にかぎらず、なにかにつけて「衰え」に直面されているのではないですか。そしてその衰え感を埋めるように、いま推し活にのめりこまれているのなら、また別の心配が立ち上がってきます。
自戒をこめて言いますが、中年は衰えをさっさと「自身の前提」にしてしまうのが生きるコツではないかと思います。「できなくなった」ではなく「できない」を普通にしてしまうのです。できないことができるようになった時の輝かしさは忘れがたいものですが、できることができなくなった時にやましさを感じる必要はありません。私たちは自我が過去の自我と連綿と続くあまり、すぐ近過去の自分と比較してしまいますが、もっと過去へ遡ればなにもできない幼子だったわけです。つまり中年の現在地と子どもの頃を比べれば、むしろなんの差もない。もちろん詭弁です。
とはいえ、食べることに関して、相談者さんはもう「できない」を普通にしているように思います。腹八分目の生活をしていたらたくさん食べることができなくなったとおっしゃるように、たくさん食べられないが「あなたの前提」なのです。それでいいと思います。無理して食べるなんて、中年のやることではありません。身の丈にあった食事。病理医のあの人も、健康な中年のあるべき姿として、そっと頷いてくれるにちがいありません。
ところで私は昔から、テレビの大食い番組が好きでした。いまも好きです。YouTubeなんかで大食いの様子が流れてくると、つい見入ってしまいます。自分が少食なせいかもしれません。自分ができないことを軽々とやってのける人に、憧れと称賛めいた気持ちがあるのだと思います。中年になるとわかりますが、自分ができないことを軽々とやってのける人は、存外にたくさんいます。つまり相談者さんも、自身の衰えを補って余りあるような、自分より遥かに食べる人を連れて行けばいいのではないでしょうか。
中年のやることは過去の栄光を取り戻すことではありません。やるべきは人生の合理化です。屈強な胃袋を取り戻すことができないのなら、屈強な胃袋を外部化すればいいのです。食べたくてしょうがない人をお供に、推しのカフェに行く。あなたが食べられない分をモリモリ食べる様子をニコニコ眺め、そしてあなたがお会計すれば、だれも不幸せにはなりません。それでいいと思います。
もしそのお供が見当たらないなら、私が行きましょう。ただし当方、少食でした。1人前もおぼつきません。ただまあ、打つ手はありません。
こんにちは。食ですね。なるほど食か。いいテーマだなあ。
思い起こせば我々は、幾年もの間、うまいものを食わせないというだけでタレントが激昂する番組を観察してきたわけです。「食」をめぐった感情のぶつかり合いというものは、じつに人間らしく、しみじみとあさましく、どことなくいさぎよく、むき出しの心と心のつばぜり合い、極上のエンタメ、人生劇場ここに極まれり。ため息まじりに感心するわけでございます。
いっぽうで、たくあんさんの場合には、「腹八分目以上に食べられなくなった」ことがお悩みであるということですね。ははあーそうですか、腹八分目ならいいじゃないのよ、健康にいいからそのままでいなさいよ、と書いて終わろうかと思っていたのですけれども、コトはそう単純ではないようです。
なぜ、たくあんさんは「いっぱい食べれる胃袋」をご所望なのか。
それはひとえに、
「推し活動においてコラボカフェでメニューを片っ端から平らげたい」
からなのですね。
栄養のためでもなければ、道楽のためでもなく、「推すために食わなければいけない」という使命感のため。利他が極まりすぎて一周回って超利己的になってて、最高ですね。
ではそんなワガママなあなたにしっかりとお答えいたします。胃を鍛えるというのは、「劇場に芸人をたくさん出演させること」にひとしいです。
???
どういうことでしょうか??
大丈夫、順を追ってご説明しましょう。
まず、胃というのは、食物を胃酸で消毒しながら、適度に撹拌(かくはん)し、おおまかに砕き、その先にある「消化酵素が雨あられと降りそそぐトンネル(=小腸)」に食べ物を送り出す働きを担っております。
胃からはアルコール以外のものはほとんど吸収されません。体の中に栄養を取り込むのは、胃の先にある小腸の役割です。ちなみに水分の吸収は大腸で行われます。
ここで、食べ物を「舞台で活躍する芸人」に例えますと……。
胃は待機室であり、「楽屋」です。消化吸収のメインステージではありません。
胃には、食べ物が1時間半から2時間くらい留まります。食べ物たちは、「楽屋」でそれくらいの時間待機して、十分に緊張がほぐれてから、小腸という舞台に出て行くわけです。
では、俗に言う「胃の強い人」というのは、どういう状態なのでしょうか?
ひとつには、胃袋の中にたくさんの食べ物を抱えて混ぜることができる人。
もうひとつは、胃袋の中からさっさと食べ物を小腸に送り込んでしまえる人。
さっきの芸人さんの話でいうと、「楽屋のキャパがでかい」とか、「楽屋での待機時間が短い」ことを、俗に「胃が強い」と呼ぶわけです。
ここでひとつ考えてほしいのですが。
芸人さんを、楽屋にたくさん収納し、短時間にいっぱいさばくことが、お笑いのクオリティと関係しますか?
私は……関係しないと思います。
それは芸人さんたちの緊張を高め、本来の能力を発揮できなくする、愚行です。
劇場は儲かるかもしれませんけれど……。いや、お客さんからすると、たくさんの芸人が次々舞台上で入れ替わっていけばいいというものでもないと思うんで、結局は売り上げも落ちると思います。
胃での食物の処理をオザナリにすると、小腸や大腸で食べ物がうまく吸収できなくなります。ゴツゴツしてろくに砕かれてもいない食べ物は、消化酵素の効きも悪くなりますし、内臓の中をうねうね先に進ませるにも苦労するので腸が必要以上にウニョンウニョン、ウニョンウニョン動くことになって、お腹がグルグルしたり、ときにお腹の真ん中がズーンと痛くなったりします。
そういえば、YouTubeなどでご活躍のフードファイターの方々が、総じてあまりお太りになられていないことを、不思議に思ったことはありませんか?
あんなに食べてるのにどうして太らないんだろう。うらやましい! と感じた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここはむしろ、ぞっとすべきポイントです。
あれだけ食べてるのに太らないって、それ、消化や吸収があんまり効率良くないってことなんじゃないのかな、と考えた方がよいです。
一般的に「胃の強い人」と考えられている方々は、みなさん、とんでもないクオリティのウンコをします。詳しく書くとこの原稿の意味合いが変わってきますのであまり書きませんが、「これは……栄養はほぼスルーしてるね……」ということになっております。
というわけで、あなたの健康を第一に考え、食べ物にとっても幸福な結末を第二に考えたとき、「胃が強くていっぱい食べられる」ことには、大きなメリットがありません。それは芸人を潰すシステムです。劇場の価値も下げることになります。
よろしいですか! すこやかな暮らし! うつくしい人生! 食べ物を愛で、食べ物に愛でられるようなフードライフをおくるために! 早食いも! 大食いも! 百害あって一利なし! やめましょう!!!!!
……と私が申し上げたところで。
うるせえ! こちとら推しのためなら自害も厭わんのじゃ! という、たくあんさんからのお悩みに答えたことにはならないと思います。
コラボカフェの全メニューを制覇することが第一義であって、そこで多少自分の健康が害されようがかまわないという気持ちに、「胃をだいじにしてください~食べ物をリスペクトしましょう~」と正論をぶちかましたところで、それはあなたの心には入っていかないでしょう。
今日のここまでの原稿は無駄です。原稿料はいただきます(以前にここで原稿料はいりませんと書いたら本当に原稿料ナシになりました)。
そこでここからは、推しコラボメニュー全制覇のために、人体の構造をハックした私が考え得る最善手を記します。
(1) 満腹中枢をだませ!
食べ始めて20~30分くらいで満腹中枢が動き始めます。したがって、注文したメニューが手元に届き、一口でも口にしたら、食行動以外の作業は一切せずに食べ物を口の中に運ぶことだけを考えてください。それが量を食うコツです。途中でよい画角の写真を撮るとか、SNSにあげて同担を喜ばせるとか、反応のリプに2秒でいいねを付けるといった活動に1分以上使わないでください。あなたのその1分で、食べられた2口があるはずです。あなたの承認欲求と、コラボ商品への課金の総量、どちらを大事にされますか? これはもう価値観の問題ですが正義の在処は明白です。
(2) 水分の取り方に注意しろ!
胃ではアルコール以外のものは吸収されません。「水分をとって食べ物を押し流せばいっぱい胃に入るやろ」と考えている人がいますが、幽門(胃にとっての肛門みてぇな場所)はそれほど甘くはありません。水分ごと、胃の中できっちり撹拌されます。飲んでも食えません。推しコラボメニューにドリンク系が混じっているときは、早々と楽屋のキャパを圧迫することを覚悟してください。推しの色にあわせた二種類のドリンクを購入して写真を撮ったあと、飲み下したそれらは胃で1時間半混ぜられます。むしろ他のものを投入して混ぜないほうが関係性は強固になるのではないですか? なぜ、複数のドリンクといっしょにシロノワールのパチモンみたいなデザートを追加で頼んでしまうのですか? それは本当にあなたの大事な推しを愛でることになるのですか? 箱推し? うるせえ黙って読め
(3) 直参回数で勝負しろ!
楽屋のキャパは鍛えられません。となれば、コラボ期間中にお店を訪れる回数を増やして対応するしかないです。朝昼晩、すべて通いましょう。栄養の偏り? 今さらあなたがそれを気にされるのですか? や、もちろん、私は気にしますよ。医者としての責任で、「パンケーキで君の筋肉を置換するつもりかい?」と申し上げますよ。しかしあなたにとってそんなことはもう関係ないはずです。プリンとアイスで3食×7日=21回転くらいなら人体は適応してくれます。長い目で見ればそういう生活をすればするほどたぶん早く死にますが、それでいいんでしょう? 人生なんて壮大なひまつぶし、と言った人がいますが、私が考えますに、人生というのは推しによって生の苦痛を緩和する壮大な緩和ケアです。
今回の原稿、「とんでもない医者だ!」と炎上するかもしれませんが、その場合怒られるべきはこんな質問を選んで私の記事が無料公開されるタイミングで送り付けてきたどうで荘スタッフですので、ご了承ください。推し活に、医学的に打つ手はないです。
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☆今回のお悩み☆
シャープさん、ヤンデル先生、こんにちは お二人に聞いて欲しい悩みが一つあるのですが、それがうつ手がない悩みなのか?この悩みを相談していいのか?と言う事にも悩んでしまって。悩みってなんでしょうね笑。
世の中は、コロナがなんとなく明けたような空気があり、飲み会が解禁みたいな雰囲気を醸し出し、飲み会の活気が戻りつつあるこの頃。 先日、半年程前に赤ちゃんの生まれた友人に会ってきました。
赤ちゃんの機嫌も良く、沢山笑ってくれて、可愛かったです。 その友人はチャゲアス好きで知り合った古い友人なのですが、その他の古い友人も集めて、久しぶりにお披露目会を企画しました。
そのチャゲアス好きの古い友人の中に、一年半前に、奥さんを亡くした友人がいます。企画をしたときに、すぐ反応してくれたのは彼でした。
彼 「ありがとう。その日は奥さんの誕生日なので、申し訳ないけど欠席します🙇🙇」
自分 「了解です。一杯楽しかった事を、思い出して下さい。今度、個人的に飲みましょう。」
自分の返信もこれで良かったのかと思いましたが、その後、違う日に個人的に飲もうと誘ったら、心良く承諾してくれ、後日二人で飲むことになりました。
二人で会った際、彼に何を言ってあげればいいのか、それとも何も言わない方が良いのか。なるようにしかならないとも思いますが、それでも経験豊富なお二人に、ご意見、アドバイスなどを頂きたいと思い、質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。PN:M.H
こんにちは。お手紙ありがとうございます。こちら、もしかしたら「期限切れのお悩み」ではないかと懸念しています。
たぶんその飲み会、もう終わってますよね……? お手紙をいただいてからどうで荘のホームページに掲載されるまでおそらく、1か月以上の時間が空いているはずですので。
となると私から申し上げるべきことは、「あなたのとったそのやり方ですべてOKです」以外にないです。全肯定です。病理医風に申し上げると、全アグリー(同意)です。
ただ……「申し上げるべきこと」なんて、このコーナーでは求められていないかもしれません。
「“やるべきこと”ではない! 『成し遂げること』を目指してはいけない! やりたいことを、やりたいようにやるのだ!!」
(大童澄瞳『映像研には手を出すな!』)
『映像研には手を出すな!』の浅草みどり氏の言葉です。本当にこれだと思います。
以降、「私が言うべきこと」ではなく、「私が言いたいこと」を書きます。
人間が二人います。連れ添って同じ場に赴き、同じテーブルに付きます。相手の顔がよく見える位置に座ります。
ただし両者とも、相手の顔を正面からガン見するわけではありません。それだとなんか、はしたないというか恥ずかしいという気持ちがあります。
そこで、互いに「目線のやり場」が必要となります。
具体的には、食べ物なり飲み物なりを、テーブルの上、すなわち二人の「間」にあるスペースに置きます。
すると、途端に楽になります。
相手を深々とのぞきこむ必要がなくなって、「間」にあるものをお互い見ればよいからです。そして、ときどき、ちらっと相手のお顔を見たらいい。ほどほどに。
飲みの席とはつまりそういう場なのだと思います。
ちなみに「間」に置くのは料理や目線だけではありません。「話題」もです。
相手と自分がいて対話をするとき、語る題材が「相手の心の芯にあるもの」もしくは「自分の心の芯にあるもの」だと、けっこうしんどいです。
お互いによく見えて、お互いの手が届くような、ほどほどの距離にある「間」のところに話題を設定します。
お互いが別角度から眺めて、何かを付け足したり、手を伸ばして少し変形させたり、口に運んで味わってみたりする。同じ料理を食べるように、話題もシェアするのです。
すると、二人の間に、何か新しいものが生まれてきます。
すべての料理が終わって下げられて、さあ帰ろうかとなる直前の一瞬、テーブルを見ると、そこに余韻と共に、「その日新しく立ち上がった何か」が見えてくる気がします。
これが、他者と「間」を共有するということです。
自分の中から湧き上がってくるものを自分で眺めて自分で結論を用意するのとは、全く違いますよね。
今のM.Hさんは、その彼との会食を終えられているのではないかと思うのですが、もし今、その日のことを振り返って、
「何かを言ってあげるべきだったのか、それとも何も言わないべきだったのか」
お悩みなのでしたら、そんな「べき」なんぞはどうでもいいことですのであまり気にしないでください。
やりたいことをやりたいようにできていれば何よりです。できなかったかもしれませんが次またやってみてください。
でも、もし、当日のことを振り返って分析して次に活かしたいと思われているのでしたら、ひとつ視点を足してみることをおすすめします。
「間」はどうでしたか? という視点です。
私たちはつい、「彼にとってどうだったろうか」とか、「自分にとってどうだったろうか」ということを考えがちです。しかし、とにかく飲み会というものは、もしくは対話というものは、基本的に、相手そのものとか自分そのものに直接触れて変化を起こすためのものではないです。
何かが起こるのは、いつだって二人の「間」の部分です。
「何かを言ってあげたことで、彼と私の間にはどういうモノが立ち上がってきたのか」
「何かを言わなかったことで、彼と私の間で何がどう変化したのか」
彼とご自身との間で生成されたもの、変化したものを見て、判断されたらよいのではないかと思いました。
もちろん、すべては終わったことですので本日のお悩みについては打つ手はないです。でも、たまたま、まだ飲み会が行われていなかったとしたら……? いや、それでも、これはあくまであなたと彼の間に立ち上がってくるものの話あり、私とあなたの間に立ち上がってくるものの話ではないので、私としてはやっぱりまあその打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、最近だれかと飲酒しましたか。私も時々、だれかと飲酒しています。結局どこからいつなにが解禁になったのか、明確な線引きもわからないままにぬるっと変化した毎日ですが、少なくともだれかと外で飲むという選択に、ほとんど逡巡がいらなくなったことは、ありがたいことだと思っています。言いたいことがあろうがなかろうが、のべつまくなしにしゃべろうがぽつぽつ口を開こうが、声の届く範囲でだれかと飲むのが、私はやっぱり好きです。
では今月のお悩みです。重いです。さっきこの原稿の下書きファイル名を見たら、打つ手がない相談室もどうやら今回で17回目のようです。解決をあらかじめ放棄した相談室とはいえ、毎月の連載を続けていると、回答するのに気が重い回と、そうでもない回があります。その気の軽重はひとえに相談内容によるのですが、どこに重さを感じるかは、つまり「死」です。どうで荘管理人から月末に送られてくる相談内容に、死の文字があったり、死の気配を感じたとたん、私は自分の喉がキュッと閉まる感覚を覚えます。生老病死とはよく言うけれど、「おもんぱかれなさ」でいえば、死ほどわからないものもないと思います。
ですから今回は重いです。激重です。まだ最近といっていい過去に奥様を亡くされた友人とひさしぶりに飲む時の態度を、相談者さんはお悩みです。相談文には、再会のきっかけが共通の友人に赤ちゃんが生まれたことであるとも記されていました。その生と死のコントラストに、相談者さんも気後れする気配が感じられ、私も胸が詰まります。
それにしても敬服するのは、相談者さんがその友人を、ちゃんと誘うところだと思うのです。私を含めたほとんどの人は、悲しみに暮れているであろう人のことを「そっとしておく」というかたちで思いやろうとします。私たちは、悲しいことがあった人を前にして、その悲しみの種類には想像がついても、それが本人にとってどれほどの悲しさなのか、ほんとうのところはわかりません。そして私たちは、わからないならば立ち入らず、そっとしておくべきだと判断してしまう。その判断には、なにもできない自分を正当化するような、自身への言い訳が含まれているのですが、ともかく私たちは、思いやりを「時間が解決してくれる」という可能性に丸投げしがちです。
そこを相談者さんは、そっと、でもちゃんと誘う。よかったら来ないか、あるいは飲みに行かないかと、そっとしておきません。おそらくご友人も、相談者さんの毅然とした「ほっとかない」気遣いを感じ取り、だからこそ飲みに行く約束に応えようとされたのだと思います。
だから相談者さんの思いやりは、この時点ですでに達成されているのではないでしょうか。ご友人はもう、あなたの思いやりを受信している。そしてすでにいくらか慰められているのだと思います。相談者さんは約束の日当日の態度を決めかねていますが、飲んでいるあいだは、友人の悲しいできごとについて言っても言わなくても、きっとだいじょうぶなんだと、私は思います。
飲んでる間も、別に陽気にふるまう必要もないと思います。煽るように酒を飲む必要もないと思います。たぶんご友人の悲しみは、にぎやかな一晩を過ごしたり、前後不覚に酔っ払って解消するような種類のものではありません。ただふつうに、目の前の料理を食ってうまいねと言えばいいし、次なに飲む?と相談しながら、あなたの近況を、あるいはチャゲアスの近況を話せばいいだけだと思います。その上でもし、ご友人が自分の抱える悲しみについて話されるなら、その時は友人のグラスの空き具合を気にしながら、じっと聞いてあげてください。そうやってふたりとも、ふわふわと酔っぱらうことができれば、それでもうじゅうぶんではないですか。
ただし一点だけ。飲み会はできれば少し早めに切り上げてください。いくらふたりの話が盛り上がろうとも、ふたりの酔いが心地よく進もうとも、できれば終電ギリギリではなく、小一時間ほど早めに切り上げ、もう一軒ひとりで飲み直せるような時間を作ってあげてください。もちろんあなたの誘いも、気遣いも、なにげない話も、確実に友人を慰めます。しかしやっぱり、彼の悲しみをなかったことにはできません。
われわれには、自分で慰撫するしかない感情というものがあります。孤独とか喪失に関わる悲しさは、それに類するものだと思います。ご友人があなたに悲しいできごとを話すのか話さないのか、私にはわかりません。しかし少なくとも、あなたと会うことで、あらためて悲しさが輪郭を持った夜の最後は、友人がひとりでその悲しさをそっと撫でる時間で終わるべきだと思うのです。
しかし、ご友人がひとりで飲み直す時間は、一概に悲しい時間とは呼べないはずです。ひとりで反省したり反芻したりする時間は、今日までのあなたの気遣いも、あなたとの今日の思い出も含まれているはずです。だから心配することはありません。ただ、友人の悲しみを癒すのは友人にしかできないのです。そしてそのためには、われわれがおもんぱかれない「長くて静かな時間」が必要なのだと思います。ただまあ、打つ手はありません。
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小さな医療機関で働いてます。 口コミのスルーの仕方で悩んでます。 先生の心が少し折れて復活しましたが、モチベーションをかなり折られた姿が気の毒でこちらに参りました。
簡単に申しますと腰痛をヘルニアと診断できなかったので、能力なしの医者(+酷い捨て台詞)です、とのことです。
ざっくり反論するとしたら、腰痛とは原因がヘルニアであれ狭窄であれまずは痛みをとるためにお薬やリハビリ安静で改善することも多く、収まれば病名はつきません。それでも改善しなければ、手術も視野に入れてMRI検査に紹介して精査となります。(小さい医療機関はココまで)ヘルニアはMRIで確定診断できますが、動ける程度の腰痛に対し、既往でもない限り初診からMRIは健康保険制度が許してくれませんので、MRIを持ってるような大きな医療機関は小さい医療機関からの精査依頼や明らかに重症で運び込まれた場合などに初診から検査をしてくれるのです。
つまり、この方はつぎの予約に来て数回経過観察していれば翌月にはウチからの紹介でMRIにたどり着けたかもしれないのに、ドクターショッピングをしたのか半年もかけてやっとMRIにたどり着き、なかなか口汚い口コミを書き込んでおられるのです。
なんでも一発で診断できるという期待に応えられてないといえばそれまでですが、不満をココにぶちまけてスッキリされている以外、本人も半年も痛い思いをし、医師をけなし、それを見てる人を不安、不快にさせて、全員損をしてます。このプラットフォームで言うのもなんですが、口汚い部分だけでも削除してもらいたいとグーグルにコンタクトを取ると、ビジネスオーナー登録をしろといわれ、登録をしたらページをより快適に運営するために広告料を払いませんかとお誘いが来ただけで、口コミの翌日には「マイナスの口コミ削除依頼受付けます」という謎の営業のfaxがガンガン入るし、クチコミ→削除申請→広告商法に狙われているのかなと別の危機を感じたり、勝手に土俵に上げといてみんな丸損させるプラットフォームもどうなんだろうと、もはや何に対して何をなやんだら良いかも分からなくなって、なんだかもんもんとしています。
シャープさんからこちらのコーナーをしり、いつも大事な勉強をさせていただいています。けなすことなくうまく言葉にまとめて右から左に流す心の持ちように導いて下さい。
PN: ぐーるぐる
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どうで荘にご入居のみなさま、ジメジメの候、いかがお過ごしですか。私は腰が痛いです。梅雨は関係なく、腰が痛いです。病院に行くべきか、やり過ごすか。ここ数日の私を悩ませる、いちばんのイシューです。
さて今月のお悩みです。腰痛を診る医療機関にお勤めの方から、ネガティブ以上の、誹謗な口コミを書き込まれた時の対処について、そこのお医者さまとともに悩まれています。口コミを書き込んだであろう人の診断の経緯や、そもそも腰痛の診断がどういう段階を踏んでなされるかを詳細に書いてくださっています。「なるほどな」と思うことが書かれていて、悩み相談であることを忘れてしまうほどに真摯でわかりやすい。しかしそれだけ、診療する側の科学や正当を長々と主張せねばならない、口コミの仕組みの理不尽さが際だってきて、そもそも匿名レビュー問題の根深さを感じさせられます。
かつてネット上の口コミは画期的な技術として誕生しました。それまで自分の声が届く範囲でしか伝えられなかった口コミが、不特定多数に、あるいは同じ対象に興味がある人に対して、広く、的確に届くようになったわけです。インターネットあるいはSNSによってもたらされた「口コミの可視化」というものですね。私も、口コミの力や価値は素晴らしいものだと思います。いままで買わされる一方だった消費者が、口コミの可視化によって「言うこと聞くよなヤツらじゃないぞ」から「言うこと聞かせる番だオレたちが」と大逆転したのです。
しかし一方で、口コミの可視化はスケスケで、見えすぎの域にまで進化しすぎではないか、と危惧する時があります。先ほども私は痛くて重い腰を上げ、では医者にでも行くかとざっとスマホで検索したところ、知らない誰かの怒りのレビューがドバドバと流入してきました。いいか悪いかを知りたいわけではない段階で、大量のネガティブを目にすると、そこから先へ進む気力を削がれることがあります。それが小さな買い物ならまだしも、医療や旅行など、行動することでしかはじまらない行為の未来を閉じるのははたして消費者の益なのか、私にははなはだ疑問です。
恋愛の失敗談や苦労話を見聞きするあまり、恋愛に億劫となる人は多いでしょう。しかし一方で、失敗を恐れすぎて恋愛に踏み出さない人に、われわれは滑稽さと哀れみを感じます。恋愛に踏み出さない人に滑稽さを感じるのは、われわれが恋愛の素晴らしさを知っているからです。しかし恋愛をしないという判断は、失敗しないとか損をしないという観点において、非常に合理的です。口コミが見えすぎる今を生きる私たちは、それとどこか似た状況に置かれているように見えます。
私たちは、他人の失敗談が人間の合理的判断に貢献すると考えがちです。なぜなら他人の失敗を知ることで、私たちは「自分の失敗を未然に防ぐことができた」と解釈してしまうからです。ほんとうはなにも得していないのに、損をする可能性をゼロにした時点で、われわれはうっすら得した気になってしまう。私たちは未来で失敗する自分に溜飲を下げる安堵を優先するあまり、他人の失敗談の真偽や根拠を疑った上で合理的に判断する合理性を忘れてしまうのです。合理的に生きることを求められる時代に生きる私たちは、合理性を追求するあまり、しょうもない合理性に満足してしまう危うさを知っておくべきです。
つまり現代人はネガティブなレビューを、読む前から欲望しているとも言えます。ネガティブな(しかも根拠が薄かったり間違ったりした)意見を書き込まれた相談者さんは、まずその欲望と構造を認めた方がいいでしょう。いやむしろ、諦めると言った方が近いかもしれません。どうやらネガティブな口コミは、そもそも見る側の私たちが欲望している。そしてネガティブな口コミを書く人も怒りとは別のところで、世間からの欲望を動力にしているように思えるのです。この構造は、書かれる側にとって、書く側と見る側と対峙せねばならない、絶望的に不利な建付けだと思います。
もはやネット上は、個別の声に対処する段階ではありません。個別に対処したところで、人間が合理的に生きようとする限り、ネガティブは前景化しつづけます。ネガティブが過ぎる口コミは、それを見たい欲望によって生まれ続けるのです。相談者さんは、見て見ぬふりを、どうか強い意志でもって貫いてください。人間が作り出すツールや構造に人間の欲望が反映される以上、「そういうもんだ」と前提しておくのが肝心です。ネガティブな口コミを書かれたり見たりする仕事柄の私は、ネガティブに引き込まれない諦念が大事だと、つくづくそう思います。
それにしても人間は、おどろくほど「やらない理由」を探す生き物です。行動する理由よりも、行動しない理由を探すのはかんたんです。行かない理由を探すために、行かないという合理的な判断をくだすために、ネガティブな口コミに人が集まるなら、その人たちはどっちにしろ「行かない人」なのです。もともと「行かない人」が行かない理由を探しているだけなら、これほど閉じた円環もないでしょう。それはもう、あなたとほぼ無関係な因果です。
行かない理由を探す人間はここにもいます。腰痛を抱えた私です。行くことにあらゆる難癖をつけながら、行く判断を先延ばしにし続けています。繰り返しますが、私たちには「行動することでしかはじまらない未来」というものがあります。だから人間は、行かない理由よりも行く理由を探せるようになってはじめて、自分は合理的だと言えるのです。そう自分に言い聞かせていますが、あいかわらず私の腰は重いのです。そういう非合理なわれわれに対して、合理的な判断と合理的な対処を行う医療者のみなさんは、安易な合理性に脇目も振らない姿勢を示してくだされば、それがいちばんの合理的態度かと思っております。ただまあ打つ手はありません。
こんにちは、誠にお疲れ様です。ご相談をまとめますと、「グーグルのサービスでひどい目に遭ってグルグル悩んでしまったぐーるぐるさん」、ということだと思いますので、さらにまとめますと、「グーグルぐーるぐる」となりますが、こういうのはまとめないほうがいいですね。まとめると細かな現場のニュアンスがふっ飛びますからね。ニュっ飛びますからね。まとめないほうがいいですね。
で、えー、まとめないほうがいいと思いつつ、お悩みの根っこにある構造を探りますと、ここには医療現場で高頻度に観察される、
という摩擦が存在しているのでございます。
えっそうなの? 問題はグーグルの口コミシステムのほうなんじゃないの? と思われるかもしれませんが……。
今回のケースでは、たとえグーグルが対処したところで、根本的な解決にはならない気がします。なぜならグーグルのコメントが削除されたとしても、その人はおそらく別の病院口コミサイトへの投稿をするでしょうし、Twitterに書き込んだり新聞に投書したりするでしょうし、最終的にはそれこそFAXを使ってでも嫌がらせしてくるのではないかと思われるからです。
感情発露の場を抑え込んだところで、実際に不満を育ててしまった人の感情まで抑え込むことはできません。
グーグルの口コミ、ヤフーのコメント、アマゾンのレビューあたりに対しては、ぶっちゃけ私も忸怩たる思いを抱えており、実際に泣かされた人も多数存じ上げてますので、もうちょっとなんとかならんのかと思うところではありますが、だからといってグーグルに突撃して口コミを個別に削除したところで、いたちごっこと申しますか、問題の根本がちっとも解決されないと言いますか。
なぜこの手の問題が解決できないかというと、これはもう、相当悲しい理由なのですけれども、現代の人の少なくとも一部は、「理不尽な悩み」を自分で抱えて終わりにせずに、他人に投げつけることで多少なりともストレスを発散させようとする方向へと「進化」してしまっているからです。ここでいう進化というのは、良くなったという意味ではなく、「選択圧によってある種の傾向が強まった」くらいの意味で使っておりまして、つまりはひでぇ話です。
もちろん、グーグルのようなプラットフォーム側がこのような状況を漫然と眺めていてよい、とは思いません。少なくともぐーるぐるさんの遭遇されたようなケースはマジでしょっちゅう見かけますし、あちこちで問題視されてもいますので、そのうち何らかの形で改善がもたらされるんじゃないかなあとも思っております。その意味では、まだ、打つ手はあります。でもその手を打つのは我々ではない(グーグルがやることです)ので、これについては今回の私のお返事では保留とさせてください。
我々が個別に打てる手としましては、ぐーるぐるさんも書かれてましたが、スルースキルを鍛えてやり過ごす……くらいですよね。きっと。
あなたのペンネームがグーグルでぐーるぐる、から、スルースキルですーるする、へと変わることを心から願っております。
さて、ここからが本論です。えっ、今ので回答は終わったんじゃないの? と思われたかもしれませんが、私はどちらかというとスルースキル云々よりも、現代の社会が抱えている、「最適解は素人にとっては到達し難い」という構造的問題に興味があります。さっき、簡単な図でご説明したアレを、あらためて再掲しましょう。
これをもう少し詳しく説明します。
まず、元・患者さんは、腰痛でけっこうな期間苦しんでしまったわけですが、医療機関からすると、「クリニックの診療にすぐにケチを付けず、ドクターショッピングしないでもう少し通い続けていればよかった」という、初見ではまず気づきようがない最適解があって、それに導かれなかったという悲しみが存在するわけです。
この患者さんが短気さえ起こしていなければ(たぶんそういうことですよね)、次、もしくはその次の外来で、しかるべき高次医療機関へ紹介できて、無事診断にたどり着けた可能性は高いと思います。
でも、医療の素人である患者さんには、そんなのわかりようがないと思うんですよね。
この「最適解」は、「たくさんの患者を見るほうの立場」でないと普通は思い浮かばないと思うんですよ。
そういう、「素人にはわかんねぇよ」っていう状況自体が、元・患者さんにとって災難の基となっていたと思うのです。
ところが元・患者さんはその後、嫌な目に遭ったからということで貴クリニックに八つ当たりしているわけです。陰湿ですし大人げないと思います。普通に悪人です。弁護の余地はないです。
でも、なぜそのような悪に身を委ねたのかと考えると、大本を辿れば、「専門家じゃないとわからないような最適解、ベストルート、ライフハックを知らなかったから」なんですよ。
ね。
「最適解は素人には到達し難い」問題。
根深いと思いませんか。
これは別に医療業界に限った話じゃないと思います。以下、想像の範囲で書いてみます。
(1)
客「このキャンプ場は虫が多すぎるのでみんな行かない方がいい。夜中に蚊が煩くて眠れなかったので中央ロッジで蚊取り線香を買おうと思ったが夜9時を過ぎたら閉まっていた。キャンプ場なのだから売店は夜通し開いておかないと意味がない。もう行きません このキャンプ場はクソ」
キャンプ場スタッフのひとりごと: 事前に連絡してくれればキャンプスペースに設置できる蚊取り線香セットを無償でレンタルできたのに……。日中に中央ロッジに来てくれればそういったサービスの概要はポスターで掲示してあったし、なんなら、サイト受付時にカウンターでも説明を受けているはずなのに……。このお客さんは、それを聞き逃していたんだよなー。
(2)
客「このレストランはフロアスタッフが口うるさいのでみんな行かないほうがいい。彼女の誕生日を祝うために歌を歌ったらほかのお客さまのご迷惑になりますと言われたが、歌ってはだめとはどこにも書いていなかったし公衆の面前で他の客に聞こえるようにそれを言われて恥をかかされた。マナー違反だろう。もう行きません このレストランはクソ」
ソムリエのひとりごと: もし、事前にお店に相談してくれていれば、他のお客さんにもあらかじめそっと周知して、途中で歌を歌うくらいの調整ならできたのに……。誕生日特製コースだって事前予約可能だったのに……。オンライン予約にはそういうときのために「備考欄」があるのに、このお客さん、気づかなかったのかなー。
(3)
客「このレコードショップは現代に即していないのでみんな行かないほうがいい。試聴機がないのに曲なんて選べない。そもそもサブスク時代にハードコピーそれぞれに金を取るなんて時代錯誤。はやく潰れろ」
元バンドマン・今レコード店員のひとりごと: 今の時代、レコードの価値って、曲という知財・データだけじゃなくて、ジャケットとかライナーノーツとかの「物」に宿ってる部分も多いと思うんだけど、そういうことをぜんぜん考えてないのかなあ……。それに、せっかく店に来たのなら、店主に好きな音楽の傾向を伝えてくれれば、似たジャンルのおすすめも紹介できたのに……。「試聴」みたいなオンライン向きのサービスで実店舗の良さを語られてもなあー。
まあざっと書いたのでちょっと雑ではありますが、こういったトラブルやクレームの類いは、どこの世界にもありそうですし、貴クリニックの状況と多少似ているのではないかと思います。
店員側は「もっとうまく使ってくれればいいのに」と感じていますし、コアユーザーではない客は単純に損をしているんです。
ぐーるぐるさんのおっしゃるように、
「不満をぶちまけてスッキリする以外、本人もいやな思いをし、店/医者をけなし、それを見てる人を不安、不快にさせて、全員損をする」。
悲しい連鎖ですよね。なんとかなりませんかね。
うーん、そうですねえ。
なんか、厳しい気がするなあ。これぞというドンピシャの解決策はないのかも。
でも今、ふと思ったんですけど、少なくとも今回のぐーるぐるさんの投稿をご覧になった方は、「なるほど腰痛ってそんなに一発で診断できるものではないんだな。」と理解していただけるかもしれませんね。
たとえば、これを読んでいる人の中にも、将来、けっこう激しい腰痛に苦しむ人がいるかもしれません。
その人が、お近くのクリニックに行って、「まずは症状をとる治療」からはじめて、でもなかなか腰痛が良くならなかったとして、そこでブチ切れて、「なんだこのヤブ医者! もういい! ほかの病院で見てもらう」とドクターショッピングを開始して、半年くらいさまよって……とならずに、「そういえばどうで荘で読んだけど、このクリニックときちんと相談すれば次の一手を打ってくれるかもしれないんだな。」とかなったら、それはなんか、情報を共有できてよかったな、ってことになりますね。
さらには、この記事が掲載されたあとに、世の中で多少なりとも、「理不尽なクレームってあるよねー」みたいな話題が盛り上がったり、「病院に対する口コミってたまに偏ってるけどどうすればいいのかな」みたいな対話がなされたりしたら、それはそれで、なんというか、良かったなあとも思います。
ぐーるぐるさんはお悩みの最後のところに、「もはや何に対して何をなやんだら良いかも分からなくなって、なんだかもんもんとしています」と書いてくださいました。
そして、もんもんついでに、解決しないことに定評のある当コーナーに投書してくださったわけです。
答えのなさそうなどうしようもない悩みを投げ捨てる場として、どうで荘は立派に機能していますね。
フフッちょっとうけますね。
うけてはだめですね。
我々はここで、投げやりにお悩みを左から右へただ放流して、最後を「打つ手はないです」で締めるというしょーもない文章を書き続けているわけですが、そのような、「お悩みを一発で回答しない」というスタンス、ある問題についてダラダラ時間をかけてみんなで様子を見ていくというやり方が、「瞬間的に診断・治療!」には絶対に結びつかないのですけれども、何らかの解決……というか妥協……というか軟着陸……につながる可能性は、ゼロではない気がしますね。
今すぐに「最適解はこれだ!」と申し上げることまではできないんですけれどもね。
ぐーるぐるさんが今のお悩みをこうして不特定多数の方の目に触れさせたことで、なんか、どこかの誰かにとって悪くはない変化は起こるかもしれませんね。
すみませんね、こんなことしか言えないですね。
でもなんというか、ぐーるぐるさんのこの投稿によるお悩みの吐露と世間へのわずかな問いかけが、なんだかんだで一番効果があったね、将来の悲しいすれ違いをひとつ減らしたね、って感じの夢を見ても、我々、バチは当たらないんじゃないかって思うわけですね。
というわけで、まとめますと、「お悩みを送ってくださってありがとう」となるわけですが、まとめるとここまでのニュアンスがフッ飛んでしまうのでまとめないほうがいいですね。というわけで今回もやっぱりまあその打つ手はないです。
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☆現在、皆様からのお悩みを大募集中!
【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(45)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第15回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
お悩みはこちらからお寄せください
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☆今回のお悩み☆
足の爪を切ることを日々の糧にしています。しかしながらあまり訴えてくれる患者さんがいなくて、自分の職業に必要性があるのか、存続の危機を迎えそうです。どうか足の悩みを気軽に打ち明けていただくにはどのようなアプローチがありますでしょうか?お教えいただければ幸いです。
PN: 碁盤街のマリー
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碁盤街のマリーさん、こんにちは。いいペンネームですね。
私が毎週楽しく聴いている深夜ラジオ、「東京ポッド許可局」のプチ鹿島さんであれば、このペンネームを聞いた次の瞬間、「いいですよ~」とおっしゃってくださることでしょう。「関わる人をちょっとクスッとさせる」というのは、本当にすばらしいことだと思います。その感性、大事になさってください。
もっとも、このペンネーム、ラジオで読まれて音だけで聞くと、普通に「五番街」と思われてしまって面白さが半減するというリスクをはらんでいますが……ここはインターネット、文字の世界ですからなんら問題はございません。いいペンネームですね。
さて、お手紙を拝読しました。ちょっと奥を読む必要がありますが、あなたはつまり「フットケア」のスペシャリスト、なのでしょう。そうですよね?
一般にはあまり知名度がないですけれども、介護の現場では見逃せない職務です。水曜どうでしょうで例えるならば、BgBee(ビジービー)の松村画伯がお描きになる「いぶし銀レスラー」みたいな存在です。シブくて確かな実力。
高齢者はもちろんのこと、私のような中年にとっても、ときにはお若い方でも起こりうるのですが、「足トラブル」は手強いですね。爪の水虫などが原因で、歩けなくなったり、重い病気にかかってしまったり、ほかの病気が治るのをさまたげられたりといったことがたくさん起こります。これはもう、世間で知られている以上にはるかに高頻度で起こりますね。
そういったトラブルを一気に予防する方法が、「足の爪切り」をはじめとするフットケアなわけです。
えっ、それだけ? と思われる方もいらっしゃるでしょうが、じつは高等スキルです。
そもそも我々にとって、自分の足の指の爪を切るのは、手に比べるとどことなく適当になりがちです。足の親指の爪は硬くて切りにくいし、薬指あたりは普段あんまり意識してないから左手を添えるとなんかフゴッって変な感触がするし(?)、コンビニで売ってるような普通の爪切りを使っても上手に切れないことが多いですよね。
自分の足ですらそうなのに、まして、他人の足の爪なんてホント、切るのはとっても大変なわけです。
ですから患者さんの足の爪を上手に切るにあたっては、専用のニッパーを選んだり、訓練を積んだりする必要があるわけです。マリーさんはそれをなさっている、ということですね。
違ったらごめんなさいね。でもまあ、違ってもいいです。7割くらい合ってたらそれでオッケーってことにしてください。
さて、フットケアの重要性と、スキルの専門性についておさらいをしたところで……マリーさんはこう書かれました。
「足の悩みを気軽に打ち明けていただくにはどのようなアプローチがありますでしょうか」
なるほどー、フットケアって、まずそこが難しいんだなあと、純粋に私は興味を持ちました。いわゆる、「本人にまず悩みとして認識してもらわないと成り立ちづらいケア」なのですね。
私はこれまで、介護の場面では、
(1) 本人が「こうしたいが、できない」と思っていることをサポートする仕事
例: 寝起きが大変だから手伝ってほしい、食事がうまくできなくて困っている、お風呂に入りたいが一人では難しい、など
(2) 本人は別にそうしたいとは言っていないけれど、やっておくと本人のためになる仕事
例: 歯磨きをちゃんとして口の中をきれいにする、寝ている方の姿勢をときどき変えて床ずれを防止する、など
の二つがあるんじゃないかなと、なんとなく思っていました。でも、マリーさんの「フットケア」のことを思うと、
(2.5) 本人がそのケアの価値に気づけば絶対やってほしがるはずなんだけど、そんなケアがあるなんて思いもよらないからやってほしいって言われない仕事
があるんだなってはっきり実感できたわけです。いやーなるほどね。
マリーさんの言う通りですよ。
「患者に悩みを気軽に打ち明けてもらいたい」。
そこが達成できれば絶対に人の役に立つ仕事ですからねえ。
患者自身がそこに悩みの原因(もしくはコア)があると気づいてはじめて、ケアの意味が発揮される、みたいなことがあるんだな。
となると、ああそうか、突然ひらめいたんですが、マリーさんのお悩みってのはつまり、「広報の問題」なんですね。
昔、糸井重里さんが西武の広告に「ほしいものが、ほしいわ。」という秀逸なキャッチコピーを出したそうです。すごいですよね、これ。店側がこれを提示することのニュアンスの、濃さと深さ。
そして、医療に関わる人びとだったらなんとなくわかっていただけると思うんですが、患者さんもときおり、我々医療従事者に、「(具体的にはよくわからないけれど)私がしてほしいことを、先読みしつつ、してほしいわ。」くらいの態度で接してこられます。
となると我々は、「きっとあなたはこれをすると気持ちいいと思いますよ」という広報的ムーブ込みでケアをしていく必要がある。
ああ、だったらこれ、シャープが得意ですよね。みなさんシャープの回答を読みましょう。読みましたか? 今月は無料公開がシャープの順番なはずだからもうみんな読みましたね。
まあ、広報の問題じゃなくても彼のお答えはいつもすごく優しくて思いやりがあってハッとさせられてホホウてなってナルホドってなるけど……今回は特にシャープ案件だと思いました。だから私からは特に打つ手はないです。ヤッター終わり~~~~
……というわけにもいかないので、えー、私からも、ひとつ駄文を追加します。
マリーさんの場合、患者さんの方を向いて「どうしたら悩みを打ち明けてもらえるかなあ」と考えるのはとっても、とっっっても大事なことですけれど、それをわかった上であえて申し上げます。
たぶん一人で患者の方を向いて考えてもいいアイディアは出ないです。
なので、医療者の側を向きましょう。
たとえば。
「患者の足の爪をきれいにしたらこんなに患者から喜ばれますよ!」みたいな体験を、ほかの医療従事者と共有しましょう。
あるいは。
「患者の足の爪をきれいに保てば、長い目で見るとこれだけのメリットがある!」ということを、ほかの医療従事者がいつでも調べられるように(ググったときにたどり着けるように)、資料を作りましょう。
その過程の中で、患者さんから気軽に足の悩みを打ち明けてもらうにはどうしたらいいか、そのコツみたいなものも、一緒に学ぶことができると思います。
あー……マリーさんはそういうの、いわゆるコミュニケーションとか勉強は、得意ですか? 自分の経験をまとめて資料を作り、ほかの医療者とやりとりをすること。
もしこれが、しんどいとしたら……。
なあに、心配しなくて大丈夫です。自分で場を設けたり資料を作ったりするのがしんどいときは、「先輩」を頼りましょう。
「フットケアの体験を共有したい!」と思っている先輩医療者を探して、話を聞きましょう。「フットケアの資料を作ったから見て!」と言っている先輩医療者を探して、資料を読んで、リアクションを返してあげましょう。
先輩といっても、もちろん年下でもかまいません。先にやってる人、くらいのニュアンスです。
「フットケアの大切さをみんなにわかってほしい」と思って資料を作ったり発表したりしている医療従事者は、必ずいます。
どこにいるかって? ネット? まあそれも悪くないですが。
本当にしっかりやっている人たちというのは、「学会」にいます。たとえば、日本プライマリ・ケア連合学会ってのをこないだ見ましたけど、ああいうところで現場の経験が共有されています。「フットケアの重要性について」みたいなセッションが必ずあるんですよ。看護系とか介護系の学術集会を探してみてください。
専門家同士が集まってあーでもないこーでもないと議論する場所では、必ず「フットケアがこんなに役に立つんだから、患者にもっと気楽に頼ってもらいたい」みたいな、マリーさんと同じような問題意識を持った人がいます。
それを利用しない手はない! と思います。
これが商売だったら、「企業秘密」みたいな概念がジャマになるのかもしれませんが、医療の場合は、多くの人が「より多くの患者をたすけるために」という気持ちで、情報をきちんとシェアしてくれます。出し惜しみなんてないんですよ。
だからみんなで手を組みましょう。
患者さんと一人で向き合うのではなく、医療従事者みんなで肩を組み、チームで患者さんのほうを向くのです。
ずいぶんとまじめな回答で、かつ、なんかめんどくさいことを言い始めたぞ、と思われるかもしれないのですが。
「患者さんに悩みをどうやったら気軽に打ち明けてもらえるか」みたいなお悩みはですね……。私はその……本当に……この連載企画だから言っているんじゃなくて、心の底から……「わかりやすく打つ手はない」と思っています。
いや、実際のところ、看護や介護の現場にいる人たちは、誰もがめちゃくちゃがんばっており、実際にさまざまな手を打っています。
でも、患者全員にあてはまるケアってのはないんです。人と人との相性が絡む案件に、単一のお答えでなんとかするのは難しい。
看護の神様みたいなベテランナースでも、普通に患者からスマホ投げつけられたりします。
サボってばっかりいるダメ介護士が、ある老人とだけは意気投合してすごくいい介護をしたりします。
したがって、「患者に気軽に悩みを打ち明けられる人間になりたい」みたいなお悩みからは、これ、マジな話で、「いやーそれはほんと人それぞれだからなんともはや……」みたいな、「打つ手がないムード」をビンビンに感じます。
「悩みとしては万人に共通しているんだけど、ベストな回答はひとりひとり違う」。
むっずかしいです。
特効薬みたいなお答えはないんです。
ですから、私から申し上げられることが「即効性はないんだけどとりあえず同じ悩みを持つもの同士で対話をして、この話について考え続けよう」になるわけです。いいですか? みんなでやりな、ということです。
そんな発想で日々暮らしている私の話はいいとして、今回のシャープの回答をもう一度読んでみてください(たぶん先に読んだでしょ?)。私はこの原稿を書いている時点でまだ読んでいないんですけれども、彼の距離感で書かれた回答を読むと、おそらくだけど、読んだ人びとのうち何人か……何百人かは、何かができるようになる気がする。
今までの回答も全部そうだったけど、今回のは特に、彼が本気で日頃からフワフワ考えていることに近いお悩みじゃないのかなあ。たぶんだけど。
くり返しになりますが、今回のお悩みの根幹にあるのは、医療における「広報」の話かなーと思っておりまして、えー、言い忘れましたけれど私はこう見えて、12年くらい医療の広報のことを考えている人間でですねえ、これがマーその、難しい話で、それこそ医者がさじを投げるってこういうことなんだろうなというか、部屋中にスプーン散らばってるというか、とにかく我々医療者がかなり苦手としているジャンルのお話しなんですよ。「どうやって患者さんに、もっと気軽に医療にアプローチしてもらうか問題」。
我々医療者は、ひとたび覚悟を決めて病院に来てくださった人や、「こういうことをしてほしい」と願って医療者に話しかけてくる患者さんに対しては、いろんなプロの技術を用いてお応えすることができるんですけれど、「まだ病院に来ていない人」とか、「何をしてほしいかわからないけれどただ幸せになりたい人」に、こちらを向いていただくための手法をあんまり持っていなくて、端的に言うと広報力がゴミなんですよね。
一方、シャープの……山本さんの回答は、そこを何か太い心持ちで(ところてんではないです)、貫いてくれるような予感があります。だから何度か読んでみてください。原稿見てないけどこれはもう確信に近いね。いいですか? 一度読んでほうほうって終わりにするんじゃなくて、何度も読んで噛みしめる。言葉の奥にあるものを、「なぜ彼がそう書くに至ったのか」という感情の部分を探ってみてください。
ああ、そうそう。
あなたのその「碁盤街のマリー」っていうお名前が表している、あなたの根本におそらくあるであろう「ホスピタリティのカタマリ」みたいなもの、たぶん患者さんをほぐす効果を持っていると思います。いいですよ。ご健闘ください。
以上、「ペンネームをほめる」「シャープをほめる」が本日の私の打った手でした。ほかはまあその打つ手はないです。
どうで荘のみなさま、こんにちは。ご入居の方々におかれましては、それぞれの持ち場で日々あくせく働かれているでしょうから、とにもかくにもご健勝のこととお慶び申し上げます。私もそれなりにあくせく働いております。昔から私は、それが儲かるか儲からないかとは別のところで、他人の生業の話を聞くのが好きでした。知らない職業の話はいつも興味深いし、いつかみなさんの生業もお聞きしてみたいものです。
さて、今月のご相談です。私は一読してなんのことかわからず、相談文を繰り返し読んでようやく理解しました。これは「生業」のお悩みですね。相談者さんは生業が振るわず、シンプルに言うと、来客が振るわず、お悩みでいらっしゃる。つまるところ、相談者さんの生業をだれかに知ってもらうには、そして足の爪を他人に切ってもらうことを自分ゴトと認識してもらうにはどうすればよいか、という課題かと思われます。これはもう、広告とかPRと呼ばれる仕事の出番でしょう。ふだん私がネットを舞台に生業としていることにもつながります。
いきなりですが、相談者さんはこの課題について、すでに自力で解決策を編み出されています。それは「接触した人の興味をひく」ということです。その第一関門を相談文の冒頭でクリアされています。なぜなら私がいま、相談者さんの生業に少なからぬ興味を惹かれているからです。私は「足の爪を切ることを日々の糧にしています」という一文に、ガツンとやられてしまったのでしょう。
少なくとも私は、足の爪を切る「生業」を知りませんでした。思わず「爪 切る 職業」と検索したくらいです。そして私は、世の中に「フットケア」というサービスがあることを知りました。びっくりして、ますます興味がわきました。私と同じような人はたくさんいると思います。あなたの職業をまだ知らぬ人が、おそらく膨大にいる。そして知ると、新鮮に驚く。ここにまず、相談者さんと相談者さんの生業には広大な可能性があると思います。
知った時に驚きを感じてもらうには、まず「知らなかった事実」を強烈に印象付ける必要があります。言い換えれば、知ってもらうための端緒に立つには、出会い頭のインパクトが動力として必要です。ここでは「足の爪を切ることを日々の糧にしています」という自己紹介こそがそれでしょう。名刺でもチラシでもサイトでも、その自己紹介をキャッチコピーにすれば、相手の脳内には「なにそれ?」と知らなかった事実が立ち上がり、相談者さんの生業への認知は増えていくにちがいありません。
もちろん、課題はそこでクリアとはいきません。関門はさらに続きます。知って驚き興味を持ったとしても、行動を起こすまでには深い深い谷があります。爪や足のケアを行うサービスの存在を知り、相談者さんの生業に深い興味を持ったとしても、お店へ足を運ぶにはまだまだハードルは高いでしょう。たとえ近隣に住む人であっても、ちょっと行ってみようと行動を促すのは容易ではありません。
次に鍵となるのが、私は「名前をつけること」だと思います。足の爪を切ってもらう行為、足の悩みをプロに相談する行為へ、名前をつけるのです。われわれは「そうすること」に名前がつくことで、行動のハードルはぐっと下がります。そして名前が普及するにつれ、名前の行為と社会との間にコンセンサスや信頼が育まれていく。そこでようやく、行動する人は加速度的に増えるのです。
町中華や街コン、あるいは婚活や推し活という名前と現象を例に思い浮かべれば、よくわかると思います。未知は名前がついてはじめて、その存在が前景化し、やっと人間は行動に移すのでしょう。ですから相談者さんは、あなたの生業に名前をつけなければいけません。あなたは自分のお店の名前をアピールする前に、あなたに足の悩みを相談し、あなたに足の爪を切ってもらう行為に名前をつけ、名前の普及にコツコツと勤しむ必要があると、私は考えます。
それは商売としてどこか遠回りに感じられるかもしれません。しかし、知られていない行為を生業として持続させるには、案外と大切な活動だと思います。おそらく冷凍庫や洗濯機だって、それが普及する前の黎明期には、食材を冷凍保存する行為や衣類を機械で洗う行為に、「名前をつけて」「名前を普及させる」ことを必死に行ってきたはずですから。
たとえば、あなたに足の悩みを相談し、あなたに足の爪を切ってもらう行為を、歌に乗せるのもいいかもしれません。相談者さんのお名前を見るうちに、フットケアの歌が聞こえてきました。それでは聞いてください。
『碁盤街のマリーへ』
碁盤街へ行ったならば マリーの家へ行き
どんな足をしているのか 見て来てほしい
碁盤街は古い町で 昔から足や爪で
きっと悩んでいると思う たずねてほしい
マリーという娘と 遠い足を思い
つらい悩みの足音を聞いた それだけが 気がかり
ただし、いくら多くの人がメロディを口ずさめるといって、こんな都合のいい宣伝が大衆の唇に乗るとは思えません。だれかに知ってもらって、自分ゴトとして認識してもらうのは、かように難しいものだと思います。私の生業もままならぬものです。ただまあ打つ手はありません。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
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第14回
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☆今回のお悩み☆
結婚して10数年、お金のトラブルが絶えない旦那に嫌気がさしています。結婚資金あるある詐欺(実際は貯金ゼロで結局ローン組んだ)から始まり、数えればキリがありません。離婚を考えたいですが子供がいるため我慢しています。早めに見切りをつけるべきか、子供が成人になるまで耐えるか、悩んでます。
(PN: ミスター小泉)
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どうで荘にご入居のみなさん、機嫌よく暮らしてますか。私はそこそこ心配事を抱えながらも、そこそこ機嫌よくやってます。心配事を抱えると、それが生活の通奏低音となって、絶え間なく存在感を発揮してきます。小さく低い音でブーンと箱鳴りする部屋に暮らすようで、生活は落ち着かぬものになりがちです。聴こえるか聴こえないかの小さな音なんて気にしなければいいとアドバイスするのは簡単ですが、一定の周波数でずっと環境が振動しているわけですから、その体感を無視するのは容易ではありません。心配事とはそれだけやっかいなものだし、心配事を抱えながら機嫌よくいるというのは、なかなかの意思とコツが必要だと思います。
さて今月のお悩みです。家族の金銭感覚に関するお悩み。これぞまさに、ザ・人生相談といった趣です。私のような得体の知れぬ人間がたたずむ相談所に、とうとうかくも典型的なお悩みが寄せられるようになったかと、妙な感慨さえ湧いてきます。
だいたい人生の心配事ツートップといえば、お金か人間関係でしょう。解決を放棄することをあらかじめ保証された私ですら、お金の心配はできることなら生涯にわたって解放されたいと願っています。結婚して十数年、お子さんがいらっしゃる相談者さんも、これまで「なんとかなってきた」とはいえ、旦那さんが次々もたらすお金の心配事を抱え続けてきたわけですから、その暮らしはよほど落ち着かないものだっただろうと思います。
相談文では詳細が語られないので推測するしかありませんが、お金のトラブルが絶えないとあることから、もし離婚しても次の人生設計に夫からの養育費は計上できないと感じておられるのかもしれません。人生経験が豊富とは決して言えない私ですが、お金へのだらしなさは、治るチャンスを逃してしまうと、歳を取るごとに硬化していくことをなんとなく知っています。打つ手なしの気配がひしひし感じられます。
それにしてもお金とは不思議なものです。貨幣はただの紙切れであり、世界の人々が「これは実質は紙だけど実際はお金だ」と互いに信じている限りで、紙切れはお金であるという、現実と幻想の間にギリギリ存在する仕方が、そもそも不思議です。お金はそれをお金だとみんなが信じている間、お金であり続けるわけです。それに加えて、私がいつも不思議に思うのが、お金には「恥ずかしさ」がつきまとう、ということです。
私たちはなぜか、自分のお金の話をすることに抵抗を感じます。仕事では「これだけ売り上げた」とか「ここまでコストダウンした」といった、自分が成し遂げた会社の金の話は堂々とアピールするのに、友だちの間ですらお互いの年収や貯金の額を聞くことははばかられます。少なくとも私たちが暮らす国の文化圏では、自分のお金について開示するのも、他人にお金の開示を求めるのも、恥ずかしさやためらいがつきまとう。私も会社で扱う金の話はなんの抵抗もなく口にできます(もちろん社外秘は口をつぐむけど)が、自分の給料やボーナスを口外するのはやっぱり恥ずかしいものです。ギャラの開示や交渉を忌避しがちな、われわれの商習慣も、どこかこの恥ずかしさに通じるように思います。
ではその恥ずかしさは、自分が稼いだり持っていたりする金の少なさに起因するのでしょうか。貧乏を恥じる気持ちは、もちろんだれにもあります。仮に私も自分の給料をここに書き、少ねえなとか甲斐性なしと思われることに恐怖を感じます。しかし一方で、テレビのバラエティ番組なんかで、売れっ子芸人の収入を暴露といいながら、暴露する側もされる側もしきりにタブーとしてはしゃぐ様子を見るにつけ、多けりゃ多いで金の話をするのは恥ずかしいのだな、と思わされます。とにかくわれわれは、保有する金額でもって自らの人となりを判断されることを恐れるあまり、金の話をすることに恥ずかしさを感じるのかもしれません。
そう考えると私は、相談者さんの旦那さんの気持ちがうっすらわかる、ような気がします。もちろん気がするだけで、限りなく万が一の可能性ではありますが、旦那さんは自分の収入なり貯蓄なりを家族に知られることを極度に恥ずかしがる、という節はないでしょうか。もっとも親しい間柄である家族に、お金を介して自分を見透かされることをおそれるあまり、ない貯金をあると言ったり、浪費や借金を隠したりと、その場を取り繕い続けた結果が今、ということは考えられないでしょうか。
極度の羞恥心は、本人にとって切実ゆえに浅はかなふるまいをとる時があると思います。だから引き続きこれは万が一の可能性ですが、旦那さんが抱き続ける「恥ずかしさ」をどうにか取り除くことができれば、少なくともトラブルには至らぬようになるかもしれません。それはつまり、最近よく語られる、心理的安全性というやつなのかも。
もちろん金銭感覚やお金へのだらしなさは、その人の性としか呼べない、根深いものです。改善の余地など、本当はないのだと思います。中には、性としか呼べないその根深さが「貨幣はただの紙切れだ」という境地に通じる人だっているかもしれません。もし相談者さんの旦那さんが、お金をお金だと信じられない人だったなら、取りつく島もないか、そもそも仙人か超人の類かもしれません。
人間同士の幻想を共有することで成り立つお金は、その誕生時点から危うさや難しさを持っていたのです。だからこそ人間はお金に悩むし、正直にお金の話をすることをためらうのでしょう。ただまあ打つ手はありません。
ミスター小泉さんこんにちは。いきなりですが先ほど、もう一通の「お悩み」が届きました。これがですね、偶然なんですけれど、どことなくあなたのお悩みとも通じるところがありそうで、まあその、本質的には違うお悩みではあるんですけれども、今回はその……「両方」を読ませていただいて考えるのがよいのかな、と思いました。
こんなお悩みです。よろしければこちらを先にお読みください。
ーーー
春に社会人となったのですが、これまでを振り返って少し思うところがあったので、お手紙をお送りします。
私は、お金のトラブルが絶えない家庭に育ちました。母は父のことを陰で「詐欺」だなんだとののしっており、「そもそも結婚資金の段階からおかしいと思っていた、貯金がまったくなかったからローンを組むはめになった」という話も何度か耳にしました。家庭内はときに冷たく、ときにギスギスとしていて、子ども心に、うちの親が結婚できたことは不思議だなあと感じましたし、学校の帰り道や、ふとんの中などで、もしかすると親が離婚してしまうのではないかと、一人こっそりと心配していたこともありました。
その後、結局両親は離婚しませんでした。どことなく不安定な家庭のまま月日は流れ、紆余曲折を経て、先日、私の就職が決まりました。そして、機嫌の良かった母がふと漏らしました。
「やー、あんたが育つ前に離婚してなくてよかったわ~」
じつは、私が母の口から直接「離婚」という言葉を聞いたのはこのときがはじめてでした。それまで、いかに雰囲気が悪くなろうとも、私の前ではさすがに具体的なことは口に出さなかったのだと思います。しかし、私の就職を祝うムードの中、つい口が滑ったのであろう母は、そのまま続けてこう言いました。
「あんたは知らなかったでしょうけれど、ほんとはだいぶ悩んだこともあったのよ。でも、お金にしても仕事にしてもね、片親だといろいろ大変だし、あなたも受験勉強やらなんやらに身が入らなくなっても困るでしょう。だからね、我慢してよかった~。あんたが一人でがんばれるまでは支えようと思ってたからね、ほんとによかったわ」
私はこれを聞いたとき、その……一緒に「よかったよかった」と喜べればよかったのかもしれないのですけれども、あの……なんというか、もやもやとした感情におそわれたのです。母は、私という子どもがいたからずっと離婚を我慢していたのだと、あらためてはっきり言葉にされたのだと感じました。そこで思わず母に向かって、
「雰囲気のよくない家庭でずっと我慢して育った私もよくがんばった~」
と、皮肉を言いそうになったのですが、すんでのところでこらえました。
もちろん、ここまで育ててもらった親には感謝しています。
しかし、「子どもを理由に離婚しない」というのは、その……子どものためを思ったことになるのだろうか、と感じました。本当に子どものことを思うならば、性格やお金の問題で家庭内で揉め続けることをまずは避け、子どもが安心できる雰囲気のよい家庭にするべきだったのではないでしょうか?
「子どもがいたから我慢して離婚を思いとどまった」って、結局それって子どものためではなくて自分のためだと思うんですけれども、それを子どものせい、私のせいにされたことに、なんというか、引っかかってしまったのです。
こんなことをつい考えてしまった私は親不孝なのでしょうか。
母にも父にも感謝こそすれ、モヤモヤするなんてよくないことなのでしょうか。
誰にも言えない悩みだったので、ついここにお送りしてしまいました。長くなってすみません。手を打つ段階はとっくに過ぎ去っているんだろうな、ということもわかっております。でも、よろしくお願いします。
P.N. うれしいヒゲ
ーーー
いやー困りましたね。どうしましょうこれ。
まあその、打つ手がないです。
今さらねえ。どうしろってんですか。
うん、このコーナーではいつものことですけれどね。
それにしても手遅れ……というか、あまりに過ぎ去ったことがらばかりで、今から何か言葉をかけて、この人が少し楽になるようなシチュエーションが、想像できないです。
ごめんなさい。
うーむ。
「ミスター小泉さん」のお悩みにお答えする前に、ちょっと先に「うれしいヒゲさん」の話をもうちょっとだけ考えてもいいですか?
この方にまとわりついている、「問題」の芯はどこにあると思いますか?
私が考えるに、「うれしいヒゲ」さんは、優しい方です。それがたぶん問題なんです。
この人はずーっと、父と母がうまくいっていないことを目の当たりにして、傷つけられてきたのだと思います。家庭の中で「安全」とか「安心」とか「安楽」を感じられていなかったのではないかと思います。でも、両親を憎んではいないですよね、この文章を読む限り。なんというか、本人は親不孝だなんだと書かれていますけれども、それは逆で、むしろ愛情に満ちているように思います。文章の端々からそれが伝わると思うのです。
でも、その優しさにこそ問題がある。
母親から言われた「私はあんたのために我慢してたんだ」というセリフに、瞬間的にイラッとした自分が許せなかった、なんて……どうかしてますよ。優しすぎます。
本来ならば、
「はぁ? 子どものため? 親の都合だろうが!」
くらいの啖呵を切って、家を飛び出したってよかったんです。誰も責めないと思います。
でも、やさしいヒゲさんは優しいからそれができなくて、それでこんなに悩んじゃってるんだろうなって思うんですよ。
この方は就職を気に、もう少し落ち着いた家庭で暮らせたらいいなって思います。これからの人生で思う存分、ゆったりとしてほしいなと思います。でも、就職すればすぐに自分中心の生活がはじまるかっていうと、そんなことないですよね。たとえば就職を機に親との関係をばっさりリセットしていちから幸せな暮らしをはじめるなんて、この優しい方の性格を想像すると、なかなか難しいんじゃないでしょうか。
だからまあ、なんていうかその、ここまで来てしまうとちょっと……。
せめてこの親が、「あんたがいるから我慢してた」などと、子どもにデリカシーのないことを言う前に、「やさしいヒゲ」さんに声をかけておきたかったなあ、なんて、今さら言ってもしょうがないことを、考えています。
離婚を考えることは夫婦の権利であり、自由です。かつ、離婚という行動の責任は、夫婦が自分たちで背負えばいいです。それは当たり前のことだと思います。夫婦のありように対して、夫婦がそれぞれ立ち向かえばよし、あるいはぶっちゃけ逃げたっていいんじゃないかな。結局それって自分たちのことなんですからね。
私たちはみんな聖人君子じゃないんで、失敗もするし、微妙な選択もするし、後悔もする。でもその結果と自分たちで付き合えていればいいんじゃないでしょうか。失敗が悪だとは全く思いません。後悔だってどんどんすればいいです。
もっと言えば、責任から逃れようが、なあなあにしようが、思い込みで見当違いの理由を探してウソに逃げようが、それで夫婦が互いを傷つけようが、あらゆる結果が夫婦自身に跳ね返ってくる分には、別に……べっっっつに……いいんでない? と思います。
きれい事ばかり言ってられないです。
夫婦がどんな道を選んだとしても、自由ですよ。結果に関して夫婦自身が向き合ったり逃げたりしている分には万事OKじゃないですか。もちろん、「他人」に迷惑をかけなければ。
でも、夫婦の選択やら行動やらを、「子どものせい」にするというのは……ないですね。
いや、まあ、内心つい「子どもがいるからなあ」なんて感じてしまう弱い心は、どんな親にもあると思います。そこはめちゃくちゃ理解できます。でも、ついうっかり、気が緩んで、子どもの前でそれを言っちゃうってほんと、ぜんぜんだめです。あり得ないと思います。うれしいヒゲさんの親はそれをやってしまったので最悪だと思いました。夫婦の責任を子どもに押しつけるって、それを子どもに言うって、ちょっと、本当にやっちゃだめだと思うんですよ。うっかりやっちゃう可能性はあるんですけど(人間は弱いですから)、そのうっかりを、なるべく減らしたい。
子どもには子どもの人生があり、子どもだっていずれは自分の行動の責任を自分で取っていくようになります。ただ、人生の序盤、子ども時代に、「自由と責任」とはなんなんだろうなという難しいモンダイを、子どもがひとりで考えるのは大変で、だからこそ、先に生きている大人がある程度導いていかないとかわいそうだなと思います。
「自由にしてよいが責任は自分で取れ」という感覚は、学校だけでも社会だけでも家庭だけでも教えることができない、難しいものだと思いますから、別にその理念を子どもに教える際に、親だけががんばるべきだなんて微塵も思いません。そこは、子ども自身がゆっくりと時間をかけて、世界中から学び取ってもらうしかないと思います。だから親だけが子どもの成長の責任を負う必要はない。けれども……せめて……親とはつまり子どもの一番近くにいる大人なのですから……「自由に伴う責任」を背負おうとする姿くらいはときどき見せてあげたらいいんじゃないかと思います。
そして、夫婦の行動の理由を子どものせいにするというのは、それと真逆のことなんですよね。
すみません話がそれました。
うれしいヒゲさんの相談には答えようがないです。すでに終わってしまったことです。かわいそうに。親の責任を背負って苦しくなってしまっている。うれしいヒゲさんのせいじゃないのに。これからはぜひ、違う人生を生きて欲しい。過去の傷はもう治りませんけれど、きっとこの先、傷つきづらい人生が待っていると信じたい。この方はやさしいですから。
で、えーと、ミスター小泉さん。
ごめんなさいねすっかり後回しにして。
あなたの相談にはたぶん、打つ手があります。
どんな道を選んでもあなたはこの先、結局、なんとかなります。離婚してもしなくてもどうでもいいと思います。そこはたぶん本質ではないです。どっちを選んでも大変ですけれど、人生ってたいてい、大変なんで、ま、なんか、そういうもんです。
ただ、ひとつ、「子どもがいるため悩んでいます」という思考の部分は、なんとかしておいたほうがいいんじゃないかと思いました。それだけです。あなたは大丈夫。まだ大丈夫です。これからがある。
で、うーん、どうしてもこっちが気になってしまうな。
うれしいヒゲさんには打つ手がないです。ねえ。はあ。まあその……打つ手がないです。
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第13回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
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☆今回のお悩み☆
10代のころから自己肯定感が低く、ずっとこんな奴は神様が長生きさせないだろうと思ってました。
が、なんとかかんとか45歳の今まで生きて、会社員、妻、小学生の母親、どれも中途半端にやり過ごしております。
先日ショックを受けたのは、弱者として振る舞うのはそれ自体が他者へのマウントと言っていたか、もっと別の言葉だったか、40過ぎて記憶もすぐに曖昧になるのですが、要は高齢の方の病気自慢のようなことはそれはそれで人のことを下に見ているというようなツイートを見てしまい、
ああそうか、自分なんてダメなんです、って言うのは、重責から逃げてるというだけじゃなくて、威張り散らしてる人と変わらない行為なのかと、そのことにハッと気づかされたことでした。
でもそこそこ身体は丈夫、ごく中流な私のような人間が、子供から見て元気で明るいお母さんでいたい、自己肯定感を上げたい、ただ長年のクセのようなものでなかなか自分が好きになれず、それゆえ必要以上に腰が低くなったり、逆にどうしてよいかわからず不遜になったり、はたまたそういったことを悔んだりすることをやめるにはどうしたらよいのでしょうか?
私の自信がないことで得する人なんて誰もいないのは分かっていて、母として、仕事のリーダーとしてハツラツとしたい。
けど鏡を見て「あなたのことが大好きですよ」などという自己暗示をかけても大して変わらない。
自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまう。
そのことをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりするのは、人を下に見るいけないことなのでしょうか?
打つ手はなくても.何かよい視点を教えていただけたら幸いです。(PN:なみ)
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回答:
なみさん、こんにちは。最初に申し上げておきますと、べつにそれ(必要以上に腰が低くなったり、逆にどうしてよいかわからず不遜になったり、はたまたそういったことを悔んだりすること)をその都度やめなくていいと思います。あるいはそれ(自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまい、それをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりする、すなわち人を下に見るといういけないこと)もその都度やめなくていいと思います。
ただ、「やめなくていいです」と私が言ったところで、あなたがすぐに納得してくださって、「ああ! やめなくていいのか! よかった~解決~」となるだろうとは、あんまり……というか全く思っていません。
というわけで、後ほど念押しすることにもなるでしょうが、オチを最初に書いておきますと打つ手は特にないですし、何かの手を打つ意味もないと思いました。もっとも、意味がないことを延々とし続けることが人生で、私の人生も間違いなく意味がないことのくり返しですので、打つ手がないからといって本当に何も手を打たないかは別ですけれども、それはそれ、ここであなたに対して申し上げることではなく、自分でわかっていればいいことです。
なのでここからは、なみさんに対してではなく、世に満ちあふれる「自己肯定感を上げるためにはどうしたらよいか」みたいなことを無芸に書き散らしたツイート、書籍、セミナー、つまりは害虫、もしくは病原体、というか犯罪シンジケートのたぐいを本気で蔑んで呪って祓う文章をダラダラ書こうと思います。つまりここからの文章は、なみさんに対してのお悩み相談にはなっていません、すみません、そちらはやはりまあその打つ手がないです。私が本日こう……ビシッと申し上げておきたいのは、なみさんを含めた多くの人びとを悩ませ続けている、「自己肯定感という言葉で商売をしているバカ者ども」全員に対する処刑宣言のようなものです。
や、じつはずっとどこかで書く機会をうかがっていたんですよ。こうしてチャンスを与えて頂いてありがとうございます。5000字くらいですみます。たぶん。
というわけで、なみさんのメールをそっちのけで大変恐縮ですが、まずは、「自己肯定感という言葉を便利使いして人びとの心を惑わせている一群のバカども」を先に片付けることにします。余裕と残り時間があったら、その節はなみさんに対しても多少なにがしかのことを申し上げる可能性がありますけれどもそこは期待しないでください。
えー、大前提と致しまして、自己肯定感という言葉を用いて人の背中を押そうとしている人たちは全員ほんとうに性格が悪いですね。特にヤバいのは「自己肯定感が高い自分を模倣しなさい」というやり方で書いている人たちです。自分を見て真似しろ! とか商売の文章で書いちゃう人って普通にキモくないですか? しかもそのキモさがぱっと見はわからないように、こまっしゃくれた技術も用いており、なかなかそうとは見抜けないので巨悪の雰囲気すら漂います。多少テクニックを持っているクソライターやクソセミナー講師、クソインフルエンサーの場合、「私もかつては自己肯定感が低くて……でも、こういうやり方をしてみたら、今のように、自己肯定感がちょっと高い自分でいられるようになったんです」みたいな書き方をします。これだと一見して、自分を真似しろとは書いていないように見えませんか? あくまで、自分も乗り越えたのだからあなたもどう? ということで、自分語りじゃないような雰囲気を出していますけれども結局は「私の真似をしろ」ってことで、ウワーッそういうやつらの鼻の穴の中でバルサンを焚いて耳から湯気を出させても除去できないような根源的なキモ!
で、そんな恥ずかしいことを平気で書き散らかしているヤカラは「自己肯定感の高いライターなんだろうなあ……自分を真似しろって平気で書けるんだもの……」なんて、二重の意味で説得力が生まれてしまい(立てこもり犯に感情移入するみたいな悲しい話ですね)、読むほうも納得して、確かにこの厚顔無恥な人の真似をすれば自分も自己肯定感が高い状態でいられるかも、や、うーん、そこまでは無理かな、この居直り強盗の言う「常時自己肯定感爆上がりパーソン」にはなれないだろうな、でもときどき……たまに……自己肯定感がポンと上昇するくらいの人生は掴めるかも……? なんて、アメリカンコーヒーを白湯で割ったようなうっすーい期待を持たされて、だいたい半年くらいでうっすらとカフェインが切れるようにまた次の自己肯定感激高パーソンを探してしまうわけです。誰かもう取り締まれよこれ。厳罰だよ。
フー。
自己肯定感ってそもそも、「常時ステータス」じゃないんですよ。
そこを勘違いしている人が多い気がする。
というか、前述の国際指名手配ライターどもによって、そういうものだと勘違いさせられている人がめちゃくちゃ多いというのが私の実感です。
あのね、どんな人であっても、「24時間365日自己肯定感が安定高値」なんてことはないです。
ここで、「足の長さ」とか「鼻の高さ」みたいに、ある程度年齢を重ねるとそこそこ固定する数字のことを、「常時固定ステータス」と呼びましょう。
でも、自己肯定感はそういうものではないです。
自己肯定感は、「体のセンサーによって測られる、いつも変動するステータス」です。身長とか顔貌とは違い、「満腹感」に近い。
食えばいっぱいに感じ、しばらくするとまた腹が減る。
自分が何かを達成した瞬間だけ少し高まって、時間が経つと目減りしていく。
ね、どう考えてもいっしょですよね。
ということはですよ。「自己肯定感を高めよう」っていうのは、「常にお腹いっぱいでいよう」というのと同じ類いのアドバイスってことになるじゃないですか。
(※自作)
バカじゃないの?
自分のことを常時スキで居続けろと? なんでそんな不可能なこと言うの? うまくいってる最中の自分がちょっと好きだし、失敗した自分はちょっと嫌い、そのくり返しこそが普通でしょ、うまくいってない自分も含めてずっと好きでいようなんて「武士は食わねど高楊枝」とひとっつも変わらない精神論で、まあ精神論ってけっこう使うタイミングによっては役に立つからときどきそういう気持ちでいるのも悪くはないけれど、有料noteの会員にだけ読ませるテクニックとして売りさばいてるやつ本当に神経を疑う極悪人じゃん。あっ……今日のこの回答……もしかして有料範囲内ですか? 私はなんというダメ人間なんだ。カネを払った人にしか読ませない場所で自己肯定感についての話を書くなんて……吐き気がするほどの邪悪と、やってることがいっしょ! ううっツラい! もう自分が自分で許せない! 今日のこの瞬間の自分は大嫌いです!(でもふだんの自分までまるごと全部嫌いになるわけではない)。
失礼、念入りな自己卑下はいったんおいておきましょう。あなたも私の卑屈を読みたくてここを開いているわけではないはずです。話を戻します。
あらゆる人間は、「常時どうありたいか」と「随時どうありたいか」を本当は分けられます。「おいしいものを食べたい」という感情を、「24時間口の中に美味なものを入れていたい」と解釈する人はいません。逆に、「背が高くなりたい」については、「背が高い自分」という常時ステータスの話をしているわけで、人と会うときとかスポーツをするときに限って上げ底の靴を履けば解決、といった類いの話ではありません。そこはなんか、思考の根っこが別なんです。わかりますよね?
そして本日の話題の「自己肯定感」というのは、本当は、満腹感とか、バッティングセンターの打撃の快感とか、脳トレしたときのAHA体験とか(AHA体験って言葉で商売をしている科学者にも激烈なキモさを感じますがその話をするとあと5000字要るのでやめますが)、あと下世話な話で恐縮ですが、射精の快感なんかといっしょです。随時、もしくは瞬時に味わう感情なんです。自己肯定感がいつも高い状態でいたいというのは、四六時中エクスタシーを感じていたいと言うのと本質的に同じことだと思います。
にもかかわらず、「常に自己肯定感の高い自分であろう」というメッセージを、noteの有料マガジンとかインスタのタイムリールに書いちゃう人のキモさ……悪辣さ……非道さ……処刑されてもしかたなさ……が、だんだん見えてきませんか。
このような悪の枢軸の言いなりになって、「常時自分のことを好きでいられないなら人生なんてつまらない」と思ってしまう人が、それこそ何百万人もいることに絶望します。
私がなぜ今日こんなに激烈に怒っているのかそろそろおわかりかもしれませんが、私はその、自己肯定感という満腹感とか残尿感くらいの随時性しか持たない感情を、「大丈夫だよ、自己肯定感の高い自分になろう!」みたいな誤った使い方で意図的に商売のタネにして、あまつさえ、みずからの真似をしたらいいよというメッセージまで込めてパッケージしてリボンまで付けて売って副収入にしている人間たちのことが、本当にこの世の中で数番目に大嫌いで、もうこの10年くらいずっと大嫌い。マジで眉毛ぜんぶ天然パーマになれ。あと陰毛ぜんぶストレートパーマになれ。そういう人はそもそも永久脱毛してる? じゃあ指紋がたまたま国際政治犯の模様と偶然いっしょになれ。
今日の話題、このペースでまだまだぜんぜん書けるんですけど、あとはもう私の怨嗟が発酵して熟成肉になったものに念入りに火を通したような文章になっていくので、気を取り直して、気持ちを落ち着かせて、あなたの書いてくださった大事なメールの文章に話を戻しましょう。
フー。
冷静に冷静に……。いや、ま、いいか。冷静に右往左往するのは今月はもうシャープがやってくれてるはずだ。私はもういいです。あきれてください。
もう始末がつかないので、ここは原点に戻りましょう。なみさんから頂いたメールに。
⑴弱者として振る舞うのはそれ自体が他者へのマウント
→マウント? いいじゃんたまにマウントくらいとったって。たまにだろ、常時じゃなきゃいいんだよ
⑵高齢の方の病気自慢のようなことはそれはそれで人のことを下に見ている
→別に高齢の方という他人が、さらにべつの他人を下に見ようが上に見ようが、はあそうですか、そういうもんでしょうね、おつかれさまです、たまにはそういう目線から自由になれたらいいですね
⑶そこそこ身体は丈夫、ごく中流な私
→常時ステータスの話ですね
⑷子供から見て元気で明るいお母さん
→一方これは常時ステータスじゃなくて随時のほうですね。ここをごっちゃにしないほうがいいですね。「誰かから見た誰か」を常時ステータスで語るというのは、「俳優さんの見た目がかっこいい」みたいな言い方といっしょなんですけど、本来、家族とか大事な人たちとの間柄というのは、その都度(随時)、いっしょに過ごしている時間や体験について語り、物語を更新し続けることです。「いつも元気で明るいお母さん」なんて、それは、「いつも元気で明るく振る舞うように命令されたペッパー君」と同じことで、あり得ません。「元気になる理由があるときは元気なお母さん」「楽しいことがあれば明るいお母さん」がその都度見えていればいいですし、それ以上のことは必要ないですし、人間はそこまでしかたどり着けないはずです
⑸必要以上に腰が低くなったり
→これは随時の話ですね、常時腰が低いというのはシチュエーションとしてあり得ません。たまの場面で「必要以上に腰が低いなー」というのは、そのタイミングにおけるあなたの行動の見え方を左右しますが、常日頃のあなたを否定することにはなりません
⑹逆にどうしてよいかわからず不遜になったり
→これは随時の話ですね、常時不遜であるというのは人としてあり得ません。たまの場面で「不遜な態度だなー」というのはそのタイミングにおけるあなたの行動の見え方を左右しますが、常日頃のあなたを否定することにはなりません
⑺はたまたそういったことを悔やんだりする
→これは随時の話ですね、常時悔やみ続けるというのは人としてあり得ません。ただし、前述のクソライターやゲボコラムニスト、害虫インフルエンサーたちが、「いつも悔やみ続けているあなた、もっと前を向いて!」みたいなレトリック的表現を世に蔓延させ、あたかも人間は常時一定の感情で過ごしているかのような勘違いを広めたために、「自分はいつも後悔ばかりしている」みたいな微妙に正確性を欠いた悩みを抱えてしまった人が山ほどいます。心底許せませんので、私はそのうちnoteの株式を大量に取得し、強い権利を振りかざしてそういうライターやウェブ講師たちを全滅させると思います
⑻鏡を見て「あなたのことが大好きですよ」などという自己暗示をかけても
→常時自分のことが好きな人ってちょっと私は無理なのですが、たまにかかる分にはまあいいんじゃないですかね
⑼自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまう
→えっそういうものです(後述)
⑽そのことをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりするのは、人を下に見るいけないことなのでしょうか
→
ほらほら
自分でも書いてるじゃないですか
「たまに」って
たまになら別にいいんじゃないですか
自己肯定感なんて常時ステータスじゃないし、自己卑下だってたまにはある、そりゃ人間なんですから、それくらい揺れ動いてください。揺れ動きましょうよ。人として。常時自分アゲの人ってマジでちょっと、大嘘つきすぎて付き合えない……。
なお私自身は、ツイッターで自分ダメ感情をつぶやく人を目にすると、ぶっちゃけ、「そのツイートはちょっと……めんどくさいな……」って思うんですけれど、それはそのツイートに対してであって、べつにその人が常時めんどくさいかどうかなんていちいち考えてません。他人なので。ああ、今日はめんどくさいツイートをしたい日なんだな~って感じで終わりです。それが普通の人間のやりとりだと思うんですが。
最後になりますけど、「視点を変えれば人生が変わる」っていうの、自己啓発本の定型句でして、ただしこれは本当に真実だなーって思いますが、視点を変えたら人生が変わって見えるのは確かにそうで、ただし、さまざまな視点に立って見え方の違いを実感したあとは、その都度自分の内側に戻ってくるという往復運動をやっているんですよ(さっき「後述」って書いた9番目がここにつながります)。この往還にこそ人間の本質があると思っています。だから、違う視点を仕入れても最終的にはまたいつもの自分の内側に戻ってきて、外を眺めて、「今はここにいても違う見え方をしているなあ」みたいなことをブツブツつぶやいて、瞬間的に自己肯定感を高めていくんです……ああもうこの「自己肯定感」という言葉自体に飽きました。なんでみんな残尿感とか賢者タイムくらいの意味しかない自己肯定感って言葉をそんなに便利に使うの?
おわかりでしょうか。私がいかに「自己肯定感の高い自分でいよう」とのたまう人間たちが大嫌いで、もっと言えば「自己肯定感」という言葉までついでに嫌いになっているということを。それに関してはいよいよ打つ手はないです。そしてなみさん、あなたのお寄せ頂いたお悩みについても、冒頭に予言したとおり打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさん、こんにちは。すっかり春ですね。春は見知った人と別れたり、知らない人と出会ったりと、人間関係がめまぐるしい季節です。人見知りの民や自意識こじらせ族にとっては、なかなかどうして緊張を強いられる季節でもあり、春めく日々をのうのうと過ごすわけにもいきません。私もそういう傾向にある人間ですから、つまり春はあけぼのです。まだみんなが寝静まっていて、私がだれにも会うことがない、日の出前の時間。あのあけぼのが静かで安心で、私はいちばん好きです。
さて今月のご相談。自己肯定感の低い自分をどうにかしたい。私も身につまされるお悩みです。しかも相談者さんは「自己卑下は相手との関係性の上下を強いるという意味で、他者にも圧をかけている」という視点を知り、さらに卑下を重ねようとされています。らせんが根深くて、なかなか難しい問題だと思います。
私を含めて見回すと、なにかとオドオドしがちな人はたくさんいます。一方、なにかと他人に抑圧的な態度をとる人もまた、うんざりするほどたくさんいます。他人に抑圧的な態度をとる人に対して、時に「私なんてダメなんです」は盾となり、余計な衝突を避けられる場合もあるでしょう。幸か不幸かオドオドは戦略的に採用され、多用するうちにオドオドが固定化してしまった人は、実はけっこういると思います。
卑屈は自分の足元の地面を掘り、怖い人の前から姿を消すような、下方向のマウンティングとして作用する時があります。つまり人間関係がややこしい世間で、卑屈や卑下こそが処世のコツという側面は確かにある。でもやっぱり、相談者さんがお悩みのように、あらゆる方面に卑屈であることは健全な精神のあり方ではないと、私も思います。私たちが関わる他者は、抑圧的な態度をとる人ばかりではありません。ほとんどは対等で、あるいは無関心で、そしてときどき親密に、人はあなたに関わるのですから。
それにしてもいったいいつから「自己肯定感」なる言葉が当たり前に使われるようになったのでしょうか。自己なんて、肯定しようが否定しようが、おかまいなしに自分の中にデンと居座る存在です。そもそも物心がつく頃から、その物心こそが自己なわけで、自己とは肯定否定よりも奥にある、それゆえ触れることが難しい芯のようなものだと思います。
結局、自己肯定感が高かろうが低かろうが、いつだって自分が自分を追いかけてくるし、自分が自分を邪魔することもある。どうやったって自分は自分を追い払うことができないのなら、私は私という自分を、ちょっと距離を保って、見つめるようになりました。そうやって見つめていると「そうか私はこういう風に思うのか」と気付かされ、なかなかどうして自己は示唆に富み、興味深い対象となって、肯定したり否定するヒマがありません。
話は変わりますが、私は即興とかインプロビゼーションと呼ばれるジャンルの音楽を長らく続けています。ひとりで、あるいは数人で、決めることといったらだいたいの演奏時間だけで、あとはなにもルールを設けず、いっせいに各自の楽器を演奏します。ルールがないので、ただひたすら私は、私と私以外のミュージシャンが出す音を現在進行形で聴きながら、次に自分は何の音を出すか、どれくらいの音量にするかなど、発音に関するすべての行為を瞬時に判断して演奏をするわけです。
こう書くとあたかも私は、制約のない自由な地平に立ってのびのびと演奏をしているように思えますが、実際はちがいます。結局のところ、私は私ができる/知っている方法しか、演奏ができないのです。いくら自由といっても、私は私が思いつく中からしか次のアクションを選べないし、私は私ができることの中からしか、次の音を思いつけません。つまりそこにあるのは、私の持つ可能の順列組み合わせでしかないわけです。
ただの順列組み合わせに不満を感じた私は、いかに自分が自分を裏切る演奏ができるかを模索しました。利き手と反対の手を使うとか、自分で制御できない機械を介すとか、目を瞑るとか、知らない楽器を使うとか、いろいろ試したのですが、最終的に私が行き着いたのは「酔っ払う」でした。
なんてことのないアイデアでしたが、効果はてきめんです。飲みながら前後不覚になりつつ演奏する方法は、自分の中の順列組み合わせを狂わせるどころか、人見知りが人前で演奏するジレンマまで、みごとに解消してくれました。ひたすら酔っ払う。自分の音楽スタイルが確立された瞬間です。
しかしそのスタイルも、私はあっけなく放り出すことになります。ややこしくて、聴く人も限られるようなジャンルの音楽でも、続けていると海外に呼ばれるようになります。ある年、私にロンドンで演奏する機会をくれた現地の人が出演前にアドバイスをくれました。ロンドンではどれだけいい演奏をしようとも、その人が酔っ払っていると酒のおかげと解釈されるよ、というものです。だから飲みながらやらない方がいい、と。
それを聞いた私は、なんだか心の底から納得したのでした。ドーピングしているように見えるならバカバカしいことだなと、思ったのです。それ以来、私は酒を飲みながら演奏することをやめました。いい演奏をしたくてやっているのに、あれはドーピングのおかげだと思われるなら、これほど損なこともありません。とはいえ演奏前には少し飲むけど。
「自己肯定感が低い私」も、なんだか似ているような気がするのです。オドオドは自分の中の問題のどこかをカバーしてくれるのは確かです。「私なんて」は自分を守る盾になりえる。でもオドオドしている状態を「オドオドを選択している人」という目で見たとたん、その人は自分を卑下させるダウナーなドーピングをしているように思えてきませんか。もしそうなら、それはしんどいながらも自己と向き合おうとする人にとって、どうにもバカバカしい印象だと、私は考えます。
もちろん根本的な解決は別です。私が酒を飲みながらの演奏をやめたからといって、私がものすごく評価されたわけではありません。それはいまの私を見れば明らかでしょう。あいかわらず私は、演奏前にオドオドします。そういう意味で、ただまあ打つ手はありません。
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第12回
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☆今回のお悩み☆
シャープさんヤンデル先生、こんにちは。
最近、何かを質問するとAIが即座に答えてくれる機能やサービスがよく話題になっていますね。
私はこの連載を読んでいて、お二人のお悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが、AIにお悩み相談ってできると思いますか?
お二人のお考えを聞いてみたいです。
(PN:さるぼぼ)
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いま見たらこの原稿のファイル名に12がナンバリングされていました。月イチのお悩み相談ですから、今月でヤンデル先生と私、われわれの回答が一年を巡ることになります。そもそも解決を放棄するという、ふざけた回答にもかかわらず、どうで荘にご入居のみなさんの一年にわたるおつきあい、ありがとうございます。
さて、一周年にふさわしいかどうかは知りませんが、ここでわれわれが行ってきたお悩み相談の回答を、いま流行りのAIが行うことは可能か、という問題が提起されました。仮に可能であれば、それはすなわち連載の危機とも言えるでしょう。私もヤンデル先生も、なにがしかの文章を書き、読んだ方から反応をいただく貴重な機会をひとつ失うわけです。今回のご相談は「AIは私やあなたの仕事を奪うのか」という、昨今ちまたで喧々諤々されている議論と本質的には同じなのかもしれません。
それにしても世間話でもニュース記事でも、私は「AIは人間の仕事を奪うのか」なるテーマを見聞きするたびに、「AIはいつから警鐘を鳴らす存在になったのか」と、いくぶん不思議な気持ちになります。たしか私の記憶では、AIは人間の労働をそうとう肩代わりしてくれるから、その浮いた分の時間も経済的対価も私たちは享受し、ついには労働から解放された人類は新たな進化を迎えるだろう、といった楽観ムードだったはずです。AIこそが救世主だ、と。
それがいつのまにか反転してしまったように見えます。AIはあなたや私を失業させるかもしれない。AIはあなたや私を貧乏にするかもしれない。AIは救世主から悪魔になったとは言い過ぎだとしても、とにかくAIは恐ろしいものという空気をひしひしと感じます。
そもそもAIが私たちを路頭に迷わすのなら、そんな存在はお引き取り願いたいし、AIが私たちを働かずして生きていけるようにしてくれるなら、一刻もはやくしてほしい。私はそう思う怠惰な人間です。できることなら私はさっさと労働から解放され、人々のお悩み相談なんかを日がな一日じっくり考え、その回答をのんびり書くなどして暮らしていきたい。だからAI様におかれましては、お悩み相談の代筆なんてちんけなことを言わず、もっと大きな、人類の苦しみを肩代わりしてほしいと願うのです。
そういう私は、AIがお悩み相談の回答を担うなど、実はわけないのではないかと思っています。聞くところによると、質問すると即座にテキストで答えてくれる系のAIは、ひたすら次の言葉にくる確からしい言葉を出力するそうです。人類がインターネット上に蓄積してきた膨大で膨大な言葉を取り込んだ結果、AIはこの言葉・この文脈から、次に続く確率が最も高い言葉を選べるようになった。そしてその高い確率で続く言葉をひたすらつなげていくと、どうやらわれわれが聞きたかった文章が生成される。いささか乱暴ですが、私はそういう風にいまのAIを把握しています(違っていたら教えてほしい)
と、いうことはですよ。私となんら変わらないじゃないか、と思うわけです。ここでいま書いている文章も、ふだんの私のツイートも、それから私が日常で交わすあらゆるテキストも、かつて私がどこかで見聞きした言葉によって成立しています。そこに私が生み出した言葉などひとつもありません。いくら私がうまいこと言えたぞとほくそ笑むツイートも、これは世紀の名回答だと自己満足する文章を書けたとしても、そこに私のオリジナルはありません。私のテキストはすべて、過去から現在に生きる、どこかのだれかの言葉で出来ている。私はそう考えています。
一方、文章を生成させる方法においても、私とAIの間にさほどの違いはありません。AIがただひたすら「次に続く確率が最も高い言葉のみ」を探すように、私はただひたすら「次に続く言葉のうち自分が最もしっくりくる言葉のみ」を選び、言葉に言葉を接いでいく方法をとります。なぜならそれが、自分が言いたかったことに自分が事後的に気づけるための近道だからです。私は言いたいことを言うために文章を書きますが、書く前から言いたいことを把握できているわけではありません。言いたいことは書き終えてはじめて、そうか私はこういうことが言いたかったのか、というかたちでしか知ることができないのです。
言葉は他者の言葉からしか獲得できないし、言いたいことは書いたあと遡るようにわかる。うまく言えませんが、たぶん言語とはそういうものなのだと思います。そう考えるとAIが代筆どころか、これまでのお悩みはすべてAIが回答していたとも考えられるわけです。私たちはAIのようにして言語を使えるようになる。つまりはあなたも私も、すでにAIなのです。ただまあ、打つ手はありません。
こんにちは。私たちもAIがどの程度お悩み相談に役立つことができるのかについて、興味深い話題だと思います。
AIは、多数のデータを分析し、関連性の高い情報を瞬時に取得することができるため、ある程度の情報や知識を持っている場合には、特定の問題に対する答えを提供することができます。しかし、AIは感情や人間の経験に基づく洞察力に欠けているため、一部の問題には適切な答えを提供することができません。
また、お悩み相談には、相談者とのコミュニケーションや共感、人間らしさが必要不可欠な要素です。AIが完全に人間の代わりをすることはできません。
つまり、AIがお悩み相談に対して役立つ可能性はある一方で、人間同士のコミュニケーションや相互作用を完全に代替することはできないということです。
したがって、私たちは人間同士のコミュニケーションや相互作用が欠かせないお悩み相談に対して、AIが完全に代替することはできないと考えます。ただし、AIがある程度の情報を提供し、人間同士のコミュニケーションをサポートすることは可能だと思います。
ですってよ。ChatGPTがこのように言ってます。さるぼぼさんからいただいたお悩みを、そのまま言語生成AIであるChatGPTにぶちこんで、回答をコピペしたものが上記(太字部分)です。これで原稿料もらうわけにはいかないので、今回の原稿料は辞退します。あなたはこれが「AI作」だと気づきましたか? わりとわかりやすかったかな?
こうして「AIに回答させました」と答えをばらしてしまうと、皆さんも「あー、なるほどね」となってしまいがちです。「あーヤンデルもとうとうそういうことするんだ」みたいなね。でも、ちょっと待って、あらためて今の回答を読んでみましょう。わりといい感じでお悩み相談できてるように見えますが、いや、待て待て。
これって本当に、お悩み相談になってるでしょうか――
――なーんて。ありがちな展開に持っていきたくなりましたけど。
うん。「お悩み相談の体裁」はきちんと保てていると思いますよ、私は。
まあ完璧とは言いません。言いませんさ、それはね。
たぶんここを見ている方のうち、半分くらいの方は、上記の文章を読んで途中で「目が滑った」んじゃないかと思います。私の尊敬する芸人のサンキュータツオさんとこないだお話ししたのですが、彼は言語生成AIの作る文章について、「平板で盛り上がりがない」とおっしゃっていました。たしかにそういう印象がありますよね。
けど、相談に対する回答、応答としては、よくできているんじゃないかなとも思いました。世の中の1億人くらいに、「AIにお悩み相談させたらどうなると思う?」と尋ねたときに返ってくるお答えの平均をとったかのような……もしくは、最大公約数的なお答えと言ってもいいかと思いますが、とにかく及第点の回答を非常に短い時間で作ることができている。すばらしいことです。ネットで検索しまくって間をとる、みたいなことを、秒でできるんですから。
一方で、このお悩み相談に気になる点がひとつあります。さるぼぼさんが書かれた、「お悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが」の部分がぜんぜん反映されてない。
あたたかみやユーモアのある回答が好きだ、と言われたら、普通の人間であれば無意識に、「そうか、だったらあたたかさのある、ユーモアもまじえた回答をしてみたいものだな」と思って、回答を微調整すると思うんです。でも、AIはそこの部分は一切無視してますね。
とはいえ、AIに「お前は人間と比べてだめだなあ」というのは大人げない(人間げない?)行為だと思います。
なにより、私の質問の仕方も悪かったかもしれない。さるぼぼさんは、シャープや私に向けてお悩みを書いてくださったわけですが、この文章にはシャープや私が受け取ることを前提としたニュアンスの調整が加わっています(さるぼぼさんを含め、多くの人はそのような高度な「さじ加減」を無意識のうちに会話や文章に加えていると思います)。それを本来「かやの外」であったはずのChatGPTにあれこれ答えさせるというのは、そもそもChatGPTに不利な座組みかもしれません。
よし、仕切り直しだ。いったんChatGPTの画面を閉じて、あらためて質問をやり直します。今回の質問者はさるぼぼさんではなく「私」にします。ChatGPTには、あくまで私というクライアントに向かって答えて欲しいと思います。さるぼぼさんの文章を活かしつつ、以下のように前後に説明を付け加えました。
[病理医ヤンデル]
私は「ヤンデル先生」と呼ばれるものです。インターネット経由で、以下のような質問を受け取りました。 シャープさんヤンデル先生、こんにちは。最近、何かを質問するとAIが即座に答えてくれる機能やサービスがよく話題になっていますね。私はこの連載を読んでいて、お二人のお悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが、AIにお悩み相談ってできると思いますか?お二人のお考えを聞いてみたいです。 これに、あたたかみやユーモアのある回答を返したいのですが、文案を考えていただけますか?
するとChatGPTはこのように返事してくれました。
[ChatGPT]
もちろん、喜んで回答いたします!
AIがあらゆる情報を瞬時に処理できることは確かですが、それでも人間特有の感性や経験、人間関係の複雑さには対応できないことがあります。お悩み相談についても、AIが完全に代替できるとは言い切れません。
しかし、技術の進歩により、AIがより人間に近い回答を提供できるようになってきています。例えば、AIによる感情解析技術を活用することで、お悩み相談においてもある程度の共感や理解を示すことができるようになってきています。
ただし、私たち人間の存在感や人間同士のコミュニケーションの大切さを忘れずに、AIを活用することでより良い解決策を見つけ出すことができると思います。
というわけで、AIを活用したお悩み相談には、人間とAIの力を合わせてより良い結果を生み出すことができるかもしれませんね。
なあんだ、挨拶が増えて、口調がちょっと変わっただけやんけ、と思いますが、あたたかみは増えたかもしれません。こういうところ、言語生成AIってすごいですね。空気を読んで文体を変えている。ただし、ユーモアについてはこれでも少々足りないようです。
さて、ChatGPTには会話を続ける機能があります。一度出た答えの気にくわなかったところを修正してもらうことができますので、今のチャットを閉じずに、続けてこのように入力してみます。
[病理医ヤンデル]
すばらしい回答です! とても参考になります。さすがAIですね! ところで……あたたかみについては完璧ですが、ユーモアが少し足りないような気もします。ユーモアをもう少し効かせた回答バージョンも考えていただけませんか?
するとすかさずChatGPTはこのように答えてくれました。ここで私は「ほう……」と感心してしまいました。
[ChatGPT]
ありがとうございます!ユーモアをもう少し加えたバージョンを考えてみました。
AIによるお悩み相談が一般的になると、人間同士の会話もこんな感じになってしまうかもしれません。「おお、君、その悩み、人工知能に聞いてみたらどうだい?」とか、「俺はもうAIに相談するしかないんだ。ヒトにはもう頼めない」とか。
でも冗談はさておき、確かにAIが進化すればするほど、人間とAIの役割分担が進んでいくことでしょう。AIが得意な分野ではAIに頼り、人間が得意な分野では人間が頑張る、そんな未来がやってくるのかもしれませんね。
とはいえ、AIもいつかはユーモアや感性を持った存在になるかもしれません。もしかしたら、あなたがAIに相談したお悩みが、AIの学習によってユーモアを理解するきっかけになるかもしれません。誰かが作ったプログラムに、新しい発見や価値を与えることができるのは、人間だけではないかもしれませんね。
どうですか? 最初の回答と見比べてみてください。あたたかみ、やさしさ、茶目っ気、ユーモア、まるで別人のようです。「でも冗談はさておき、」みたいな話題の転換もスムースですし、そもそも日本語の違和感がないってのもすばらしいです。
実験はここまでにしましょう。
以上の結果を踏まえ、「AIにお悩み相談ってできると思いますか?」というさるぼぼさんのご質問に、私は以下のようにお答えします。
「AIを人だと思って誠実に質問することが大事。AIが何か勘違いしてるなと思ったらそれとなく指摘し、もうちょっとくだけてしゃべってほしいとかわかりやすくしゃべってほしいと思ったらそれも素直に教える。一度、二度のずれくらいで人間と比べて「お前はだめだなあ」とか言わない。AIと一緒に会話を組み立てていくんです。そうすれば、十分にお悩み相談の『型』を再現することができます。ちなみに、AIが言うには、お悩みを投げかけることで私たちの役に立つだけでなく、AIも成長するかもしれないんですって! なんか、夢がありますよねえ」。
はい、大団円。
……でも、この回答、じつは、私が考える100点満点でいうところの、75点くらいです。
私の勝手な想像ですが、さるぼぼさんは、「Aにできると思いますか?」に、YesかNoかで答えてほしいわけではないんですよ。
私の独断的な妄想ですけれど、さるぼぼさんは、お悩みを読んだ私やシャープが「AIにできるかなあ? できないかなあ? うーんどうだろう、私が考えるに……いや待てよ……そういえば昔あんなことがあったっけ……最近こんなことも言われてるけどなあ……」などと、悶絶したり苦悶したり、試行錯誤したり紆余曲折するところを見たいんですよ。我々が難問に、理不尽に、些細なずれに、モヤりに、愚痴ったり悪態をついたり、でもどこかちょっと笑ったりため息をついたり、ジタバタしながらお遍路巡りを……じゃなかった毎月回答にお答えしているところを見て、アルカイックに微笑みたいんじゃないかなって思うんですよ。
「お悩み相談」に対する回答って正しさとか無難さが第一義ではないんですよ。適切さがないと困りますけど、そこだけではないんですよ。
今日の回答にしても、私が、ChatGPTにこなれた質問文を投げかけることで、こちらが納得し感心するような文章にたどり着くまでのプロセスを作っていく過程がちょっとおもしろいかなと思うわけで、最後のところを表面的に見ると、「おっ、AI、思ったよりできるな」っていう結論だけがポンと置いてあるようにも見えます。でも、じつをいうと、さるぼぼさんは、そういう結論を読みたくてお手紙を送ってくださったわけではたぶんなくて、さらに言えばプロセスさえもさるぼぼさんの本来望んでいたものに全て答えたわけではないかもしれなくて……。もっと、私の心の奥底にある獣の部分というか幼若な部分というか、原始的でドロドロとした情動や情緒の部分が、「とある叫び」を発しないだろうか? 直接叫ばないにしても文面からにじみ出てこないか? と、期待していたんじゃないかと思うんですよ。
その「とある叫び」というのは、つまり、こういうことですよ。
「世の中のどいつもこいつも、AI AIってうるせぇーッ! 南の島のサルか! なんだバカ野郎!俺の方がすげぇーッ!! 未来永劫、人間の勝ちだァーッ!! ウウッ……クソッ……」
おわかりでしょう。打つ手はないです。
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山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
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第11回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆シャープさん ヤンデル先生 はじめましてよろしくお願いいたします。
たいしたことのないことなのですが、レジの仕事をしている時に、(ものすごくレジが混んでいる)列に並ばずに横からアレコレ聞いてきたり、「〜してくれ」とか言ってくるお客様へは、なんと言えば、きちんと並んでらっしゃるお客様たちを、ほっこりさせることができるでしょうか?良いセリフがないかといつも考えております。
(PN. ここっけこさん)
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はいこんにちは、病理医ヤンデルです。
コンビニで、レジに向かって横からいきなり割り込んできて、「これは宅配便で、買い物とは別だから早くしてくれ」みたいな謎理論で周囲をあぜんとさせる人、まれにいますよね。その方になんと言えばよいか。
これは簡単です。
_人人 人人_
> バカ野郎 <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄
と一喝すればいいです。
このとき、シチュエーションにもよりますが、音響の工藤さんが、セリフの直前に絶妙のタイミングで「カチッ」という音を付けてくださることがありますので、あとでよくお礼を言っておいてください。「バカ野郎」単独よりも、「カチッ→バカ野郎」のリズムが、並んでいるお客さんの腹筋を効果的に刺激します。ありがたいですね。
狼藉者の雰囲気・たたずまいによっては、「バカ野郎」ではなく「ゲンゴロウ」を用いるのもよいと思います。高等テクニックであり、使い所は難しいですが、イラストとの相乗効果も期待できますので覚えておいて損はありません。このときたとえば「なんだこのゲンゴロウ」を投げつける寸前に、大泉……あなたがリンリンうるさくて脳みそが足りないニュアンスを醸し出しておくと、藤……狼藉者が「うるせえすずむし」と展開してくださいます。すると視聴者の笑いのツボがガバガバに広くなり、何をぶちこんでも爆笑となるフィーバータイムに突入しますので、「訴訟」「相手取る」「最高裁まで争う」「君んちに行くからな」「家族には手を出すな」などのキーワードをヒノカミ神楽のように連続でぶち込みましょう。そこまでやれれば、吉野石膏タイガーボードや北日本自動車共販のCMを挟んでエンディングに入ってもまだ笑いが止まらないくらいにお客さんたちを笑い続けさせることができるでしょう。
ただし。
先ほど私は思わず指を滑らせて「簡単ですよ」などと書いてしまいましたが、この一連のくだりを成功させるには、かなりの量の下準備が必要です。
そもそも、大泉洋という人が、四六時中D陣の言うことにバカ野郎クソ野郎と反発するタイプの人だと、ありがたみが薄れるというか、単に言葉使いが汚い人に見られるというか、とにかく、「バカ野郎」が笑いの効力を持ちません。
「バカ野郎」ひとつで笑いが取れるわけじゃないんです。
そこに至るまでの過程が大事です。いわゆる前フリ、もしくは背景条件と呼んでもよい。
彼は、カメラが回っているときにはそもそも「短絡的にD陣を罵るタイプじゃない」んです。あー、いや、ボヤキはしますよ。不満も表明します。しかし藤村Dやミスターに対してしょっちゅうコノ野郎ゲンゴ郎とケンカをふっかけてるわけじゃない。
だからこそ「際立つ」んです、ここぞと言うタイミングの「バカ野郎」が。
さらに、D陣がかつて指摘していたことの受け売りですが、大泉洋という方の凄さは、D陣が何かを言ったり、あるいは何かハプニングが起きたりしたときに、まずぐっと我慢して、飲み込んで、初手の段階では受け入れることを厭わない点にあります。
何かおかしなことが起こり始めたぞ、と察知してから、刹那と呼ぶにはやや長い、数秒ないし十数秒、「なりゆきを見守る」ムーブをするんですね。彼のクセなのか、あるいは笑いに対するセンスそのものか。
一般的なお笑い芸人の反射速度×手数のツッコミを、やればできるにも関わらず、やらずに保留して、「いったん待つ」。
鼻の穴と口の穴を縦に広げながら「ほん。ほおん。ほおおん(笑)」。藤村Dのむちゃくちゃなディレクションの行く末を、途中で遮らずに全部聞く。
「……そうかそうか……ンフッ……そうかそうか……」。
とにかく藤村Dがネタを全部出し切らせるまでじっと待つ。待ちながら構える。Dの手足が最もだらしなく伸びきったタイミングで一気に、斬る。
「よし、訴えるぞ」が宝刀としての輝きを発揮する瞬間です。たまりませんよね。
さらに言えば、私たち自身、もうすっかり毒されてしまって普段は気にも留めていないことなんですけれども、客……というか視聴者が、大泉・藤村(あるいは大泉・鈴井)の関係に慣れ親しんでいること。すなわち「視聴者の練度が高いこと」も、水曜どうでしょうの特徴である「一撃のインパクトが重く、フォロースルーも長い笑い」において、かなり重要な位置を占めているのではないかと考えます。
「あの大泉」が「あの藤村」に向かって。
「あの大泉」が「あの鈴井」に向かって。
知らない人から見れば単なる中年同士のいさかいです。しかしこれが、関係を知っている人にとってはたまらなくおもしろい。
幾年にも亘ってやりとりを観てきた「一流の客」だけがたどり着ける滋味。
もちろん、「水曜どうでしょう」には、一見さんを意図も簡単に惹き付けるような王道の笑いがたくさんちりばめられています。しかし、そのような「わかりやすい笑い」と矛盾しないまま、長年厳しい年貢を納めてきた藩士だけが口にできる笑いの甘露が込められている。これが強い。
たとえばですね。
レジ店員が大泉さんで、割り込む客が藤村Dで、並ぶお客さんが水曜どうでしょうフォロワーたる歴戦の藩士である状況において、
割り込む藤村D「おおい店員くんちょっといいかあ」
大泉「あ?」
藤村D「これ先にやってくれよ」
大泉「ああ? 並べよ」
客「クスクス……」
藤村D「先にやれっつってんだ」
大泉「な ら べっつってんだ」
藤村D「ああ? 見りゃわかんだろ てめぇ 別にこれ買い物じゃねぇから先にできるだろこのすずむし」
(カチッ)
大泉「ゲンゴロウは這いつくばって視線が床しか見えてねぇから見えねぇかもしれねぇがそこに並んでる客の後ろにつけっつってんだ」
客「(笑)」
という流れは完璧に成り立ちますしお客さんもほっこりすると思います。想像つくでしょう。
極論すれば、この際、セリフなんかどうでもいいんです。関係性があれば無限にやれる。100%ほっこりさせられる。
逆に、あなたがレジに入っていて、知らない人が割り込んできて、並んでいる客も全員知らない人の場合はどうでしょうか? お客さんはあなたと狼藉者の関係が読めないし、元よりほっこりするつもりでそこに並んでいるわけでもない。背景や前提を共有していない状況でセリフだけで「ほっこり」を求めるというのは非常に難しいです。ていうか、そもそも、今日の私の回答を、水曜どうでしょうを全く知らない人が読んだら何一つわからないと思いますよね、同じことです。関係性のない場所で、下準備もなしにセリフだけで、一見の客にほっこりしてもらうようなセリフなんてものは(ツイッターエピソードとしてはたまに見ますけど)基本全部幻想です。従いまして、まあその、打つ手はないです。
どうで荘にお住まいのみなさん、いかがお過ごしですか。私は切羽詰まってます。なぜならこのお悩み相談の締め切りが、とうにお過ごしなさっているからです。お恥ずかしいことに日々の大事小事にまみれて、すっかり原稿を書かねばならぬことを失念しておりました。なので私は、なにをもってしても、これを最優先で書かねばならぬ。まさに今、相談者さんのお悩みのごとく、ずらずらと列をなす私の用事をすっ飛ばし、原稿が「書いてくれ」と横入りしてきた状態です。並んでいた他の用事からすれば、舌打ちのひとつでもしたくなる状況でしょう。
ただし私の場合は、居並ぶ用事の優先順位を私が決定することができます。あくまで列の主導権は私にある。それに比べて相談者さんは、レジに並ぶお客さんの優先順位を決めるなど、とうていできません。お客さんは、前から何番目という順番以外はまったく公平。シンプルかつ偶然性を徹底したルールだからこそ、われわれも黙って従うわけです。
そのルールが無秩序な他人の出現によって邪魔されれば、並ぶ人が殺気立つのも無理はありません。とはいえ相談者さんにはお客さんの順番を前後させる、列の主導権はないのです。しかも「お客様は神様です」が必要以上に拡大解釈されがちな私たちの社会。列の殺気がレジの人へ向けられるのは、よく考えればそうとう過酷なことだと思います。
にもかかわらず、です。相談者さんは、並んでいるお客さんを「ほっこりさせたい」とおっしゃっている。立った殺気を鎮めるどころか、ほっと一息ついてもらいたいと望まれているところに、私はお客さんと直に対峙するプロフェッショナルを感じ、ほとほと頭が下がる思いがしました。そしてスマホ越しとはいえ、直にお客さんと対峙する私は、さらに一抹の共感を覚えるのです。
自慢ではないですけど、私も世間の殺気を一身に浴びるという経験をしてきました。現在も若干そうです。そしてその殺気は私の所属する会社がよろしくない状況をもたらしたことに起因するので、そもそも自慢にもならないのですが、とにかく殺気やイライラといった感情は宛先を求め、宛先が見つかったとたん、いっせいにそこへ集中する性質があることを、私は身をもって知っています。つまり世間の殺気やイライラは、組織や団体に満遍なく押し寄せるのではなく、誰かあるいはどこかを標的に向けられるということです。
だからといって、そういう場合にどうふるまえば適切なのか、私もよくわかりません。ただ私が行ったのは、殺気に宛先があるのなら、せめて受信したことは表明すべきだろう、ということでした。なので私はツイッター越しに、迫り来る殺気をすべて読んでいることを明言し、そして私がどう思ったかを可能な限り開示しました。解決なんてとうてい私ができることではありません。しかし「あなたのイライラは着実に届きましたよ」というメッセージは、少なくともイライラを増幅させないことにつながるのではと、いまの私は考えています。
最近はずいぶん少なくなりましたが、電車で電話する人に私たちはなぜイライラするかというと、電話の向こうの人がなにを言っているか聞こえないストレスが大きいという説を読んだことがあります。たとえ他人の会話や感情であっても、打ち返しが見えないと、われわれはイライラするのかもしれません。
ですから相談者さんには、これが「ほっこりさせたい」という解決に直結するかはわかりませんが、横入りされたお客さんの対処が済んだ後、それがどういう内容でどう思ったかを、口にしてみてはいかがでしょうか。列を停滞させた謝罪ではなく、「割り箸を6膳くれと言われて面食らってしまいました」とか、「シーチキンがどこに置いてあるかなんてとっさに思い出せないんですよね」とか、その瞬間に相談者さんが心の中で呟いてきた気持ちをそのまま吐露すると、列に並ぶ人は自分のイライラが受信されたと感じ、少しばかりでも殺気が緩むのではないかと思うのです。
とはいえスーパーのレジには、まだまだ殺気のきっかけが潜んでいることは、みなさんもご存知でしょう。私たちは列に並ぶ時、どの列がいちばん速そうか、さまざまな観測と予測を経て、並ぶ列を決めます。そしてその決断が正しかったか、レジにたどり着くまでずっと答え合わせをしながら並びます。つまり列の停滞は、停滞そのもののイライラに加えて、隣の列の方が速かったという損の殺気を引き起こすわけです。
そんな損得の殺気なんて、もはや列を一箇所にするフォーク並びしかないのでは、と私なんかは思うのですが、店舗の動線やスペースの制約上、なかなか難しいのでしょう。そんな想像をするにつけ、結局のところ私は相談者さんに「ご苦労さまです」と声をかけるしかできないのかもしれません。
なるべく寛容でいたいものです。私もあなたも。ただまぁ、打つ手はありません。
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山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第10回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
仕事と子育てどう両立すればいいと思いますか?奥さんは子育てで大変そうだけど仕事をして稼がないと子育てが色々しんどくなるジレンマです。
(PN. たいさん)
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どうで荘にご入居のみなさま、新年おめでとうございます。どうかみなさまの一年が、楽しくて実りの多い年でありますように。とはいえ今年はどうでしょうの新作が控えていますから、藩士のご多幸は保証されているのかもしれません。とにかく「滑り台とはなにか」を見届けることが、卯年の使命になりそうです。
さて新しい年のお悩みです。なんとも今っぽいテーマが寄せられました。子育てと仕事の両立。人類は太古の昔から連綿と子育てと仕事を行なってきたはずなのに、いまだ頻繁に問いかけられる悩みです。こんなの、人類の叡智でとっくに解決していそうなものですが、どうやらそうではないらしい。たいして歴史を学んでこなかった私ですが、子育てと仕事の両立について語られた古典や神話、あるいは子育てと仕事を命題にした哲学書など、ついぞ見かけたことがありません。
率直に申し上げて私は、毎日のようにSNSやメディアで目にする「子育てと仕事の両立」に、やや食傷気味です。なぜなら議論されるそれらはことごとく、子育てvs仕事の二項対立として語られるからです。子育てと仕事の両立といいつつ、議論はいつも「どちらかを選べ」あるいは「どちらかを諦めろ」と、当事者たちに迫ります。どちらの言い分にも、背景に「私たちもそうしてきたのだから」という無言の説得が感じられ、私はだんだん怖くなってくるのです。
メディアでもSNSでも、時に家電や時短を話題の入り口にしつつ、子育ての敵は仕事、仕事の敵は子育てと、それぞれがそれぞれの敵を語ります。もちろん私たちの時間は有限ですから、何事も優先順位をつけ、取捨選択せざるをえない、のはよくわかります。ですが問題を考える前に、お互いを敵と睨みあう、二項対立の構図そのものが、悩める人へ否応なくしんどさをふりまいているようで、私はそこに食傷しているのです。
どうして二項対立にうんざりするか。だって子育てと仕事はそもそも、まったく違うものじゃないかと思うのです。子育てと仕事は、相手が子どもと大人。対峙する他者がちがうから、そこに適用される常識もちがうはずです。使う言語もちがうし、研ぎ澄ます五感もちがうから、おそらく働く脳の部位も異なるのではと思います。疲労の質もぜんぜんちがうでしょう。
つまり子育てと仕事は、すき焼きとしゃぶしゃぶの違いよりもっとちがう。風呂と電卓ほどちがう。子育てと仕事は、テニスとサッカーの違いよりずっとちがう。自転車と囲碁ほどちがうのです。なにもかもがちがう。なのに子育てと仕事はなぜか、みんなちがってみんないい、とはなりません。
どちらも満足に経験したわけでもない私が言うのも僭越ですが、そもそも子育てと仕事は比較が成立しないほどに、ぜんぜん違う人間の営みです。だから二項対立する子育てか仕事か論争を見ていると、だんだん私は、解剖台のミシンと傘が描かれた、シュルレアリスムの絵を眺めるような気持ちになってきます。ただしシュルレアリスムはまったくちがうモノが偶然出会う時の美しさを問う表現ですが、この場合はまったくちがうモノを対立させているわけです。対立が両立を阻むのは明らかでしょう。
そういえば昔の人類は「子育てと仕事なんてまったく別もん」として扱ってきたのかもしれません。だから子育てと仕事の両立をテーマにした古い書物も見当たらないのではないか。そんなことまで思えてきました。
だからといって「昔に戻れ」なんて、さすがの私も思いません。私たちは昔の人類ではないし、われわれはいつも圧倒的に時間が足らない。下手したら、生きるための金まで足らない社会に置かれそうになります。そこで「どうしてこうなった」を考えだすと、入り組んだ社会や政治の問題に立ちくらみしそうになりますが、ともかく幼子を抱えた大人はなんとかふんばり、やりくりしなければいけません。なかなかしんどい時代です。
ならばいっそ。ならばいっそですよ。心の上では「ぜんぶを仕事にしてしまう」のはどうでしょう、とも思うのです。子育てを仕事として同列に組み込む。つまりは相談者さんも奥さまも、どっちも仕事人です。あらゆる「やるべきこと」はシームレスに並べられ、ただただ効率とコストパフォーマンスを指標に、ふたりに(場合によっては夫婦以外のメンバーに)割り振られるのです。そしてとうぜん、ぜんぶが仕事なのですから、その対価も成果もチームで享受します。
わかっています。私だってわかっています。「子育ても仕事に」なんて、そういうドライさに徹することができれば、どんなに楽か。ここまで書いてきて私も、それができれば苦労はしないと、しみじみそう思います。打つ手はないのになんとかしなければならぬ。まさに子育てと仕事の両立は、その際たるものなのでしょう。結局私には、相談者さんと奥さまに「ごくろうさま」と声をかけるしかできないようです。
ただし、かろうじて光明があるとすれば、私たちの周囲にはたいていいつも「なんとかなった」人たちがいることかもしれません。子育てと仕事の両立は、打つ手がない問題です。ですが、打つ手はないけどなんとかなったと述懐できる問題でもあります。しんどい時でも、「私たちもそうしてきたのだから」と無言の圧をかけてくる顔も知らない先達のアドバイスをうまく避け、「なんとかなった」と朗らかな顔をしている身近な先輩を見ることはできます。
とはいえ、そういう人は具体的にどうしたか聞いても、「忙しすぎて覚えてない」と笑うんですけど。ただまぁ、打つ手はありません。
こんにちは、病理医ヤンデルです。いよぉーし、本日も粛々と悩みましょう。ええ、悩みます。きれいな回答は無理だなこりゃ。思いついたことからダーッと書きます。
最初に……あなたが一行目に用いていらっしゃる言葉、世の中でもかなり便利に使われている「両立」という言葉、これがよくないなーと思いますねえ。あーいやいや、文句言ってるわけじゃないです。なんでそんな言葉を使うんだ、っていう意味ではなくて、「言葉に呪われてるんじゃないかなあ、大変そうだなあ」って言いたい。
「両立」って言葉が私たちの生活をちょっと面倒にしてしまっているのではないかと感じる今日この頃です。
キャリアと家庭を両立、とか、仕事と子育てを両立、とか、みんな、日頃からあまり考えずに使ってしまっている言葉ですけれども、そんな、あのね、この話はね、両方いっぺんに立てられるほど簡単な案件じゃないんですよ。脊髄反射的に「両立」って言っちゃってるけれども。いやいや、そんな簡単じゃないんですって。ねえ。
「仕事」も「子育て」も、どちらも言ってみればお遍路をゆっくりゆっくりまわるみたいな行為でしょう。それだけに「かかりきり」になって一歩一歩進んでいったとしても、天候とか、ロープウェーの運行状況とか、クリームパンの奪い合いとか、いろいろままならないものに左右されて、予定通り次の札所に行けるかどうかは時の運みたいなところがあるわけです。「かかりきり」だったとしてもですよ。それがあなた、お遍路と番組の取れ高を両方なんとかしろ? どう考えても無理でしょう? なのに我々は人生で、「お遍路をまわって受験生の合格を祈願しつつ、おもしろいことも言え」みたいな無茶ブリをされるんですよね。
どだい、無茶なんですよ。
ところが、世の中に「両立」なんていう迷惑な言葉がありふれているせいで、なんとなく、「両方やってやれないことはないのかな?」みたいな気持ちになってしまうんですね。これはもう認知のゆがみを生み出す呪いの言葉です。
次に、「仕事」と「子育て」が、それぞれ1つの案件みたいな感覚でこの相談の文章を書かれてるような気がしますけれどもね、仕事って、じつは複数の案件を同時にやっていくことなんですよ。子育ても、なんと複数の案件を同時にやっていくことなんですよ。
わかります?
仕事をきちんとやろうと思ったら、例のいまいましい「両立」みたいなことを、毎日言われ続けることになります。そう思いませんか? あれをまとめとけ、こっちは会議しとけ、そっちは学んどけ、どこかでコミュニケーションしとけみたいなことばかりじゃないですか。基本マルチタスクでしょう。
子育ても同じで、「両立」「両立」の雨あられです。そう思いませんか? あそこを面倒みとけ、これを作っとけ、それは片付けとけ、どこかでコミュニケーションしとけみたいなのが延々と続くんですよ。めちゃくちゃマルチタスクです。
そして極めつけには、仕事も子育ても、基本的に「フルの休日」ってないんですよね。負荷の波はあるんだけど、それがゼロになるってことはない。
となるとね。仕事だけで両立、子育てだけで両立して、さらに仕事と子育てで両立って、あなたそりゃ、いくつ両があると思ってるんですか。よっ、千両役者。やかましいわ。
何が言いたいかっていうとですね、「仕事」と「子育て」と、二項を立てて両方なんとかしたい、みたいな前提に無理があるし、そもそも仕事だけやっていようが子育てだけやっていようが、「両立」みたいなものが求められる限り、人間はいつも、過剰なマルチタスク状況を強いられるんですよ。
どちらかだけであっても無理なのに。
そこで我々の「先輩方」はどうしてきたかっていうと……。
あそこで「両立」してるような方も、あっちで「専業」してるような方も。
まあ……小声で言いますが……みんな適度にサボってますよ。
仕事でやらなきゃいけないあれこれを、全部やってる人なんていません。なんでもこなしてすごい! みたいなバリキャリの先輩も、もちろん非常に高いレベルでいろいろこなしているのはその通りなのですが、どこかで必ず手を抜いています。仕事において絵は描かないとか。取引先との会話は減らすとか。そうじゃないと、千手観音でもない普通の人間は絶対に無理なんです。
で、家事や子育てについてもそれは全く同じで、じつは全員がほどよくさぼってます。子どもに対して完璧であろうとしたところで子ども以外の家族に対しては手を抜くことになるし、そもそも、「完璧な親」なんていませんよ。子に教えられることばかりですし。
そんなこと、ネットでも現実でもみんなが言ってますよ。サボりかたを覚えよう、みたいなね。
でも同じネットの中に、「両立」っていう言葉があるばっかりに、なんとなく、「仕事」と「子育て」はどっちもやってかないとダメなのかなー、許されないのかなーみたいに、圧迫されちゃうんですよね。
だからね、両立なんて言葉から自由になりましょう。
我々はどっちにしろ、仕事だけをしようが、子育てだけをしようが、マルチタスクにあわあわしながら、適度にあっちを立てたりこっちを立てたりを微調整しつづけて、それでなんとかやりくりしていくものです。だったら、たとえば、「仕事というマルチタスク+子育てというマルチタスク=仕事と子育てというマルチタスク」みたいにね、1+1=2ですけど、「たくさん+たくさん=たくさん」みたいに考えてね、はい、数学からも自由になりましょうね、いいですか、そんなまじめに考えてないで、思考も多少はサボったほうがいいですよ、でね、たくさんのできごとを簡単に「仕事 VS 家庭」みたいに切り分けるんじゃなくてね、家族みんなで協力しながら、「全部はむり!」っていう気持ちを共有してですね(これ大事)、その場その場で、今はこっちを大事にしようかな、今日は13番札所までとりあえず一緒にいこうかなという感じで、随時相談しながらやりくりしていくということでどうですか。マルチタスクにはマルチメンバーでマルっといくしかないんじゃないか。
ねえ。
それでもなお両立したいって言われたら、まあその、打つ手はないです。
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山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第9回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
父が67歳で定年、再雇用でまだまだ働くサラリーマンです。平日は仕事、土日はパチンコと忙しそうですが、母が仕事辞めない?ゆっくりしたら??と父に話します。ただ、父の生きがいは仕事であり、その他はオプションなので、やめた後の反動が気になります。私は仕事は続けてほしいと思うのです。なぜなら、生きがいだけでなく、熱意で生きるタイプなので。父は高卒で、学歴を忌み嫌っていて、子供は大学へ!と話し、私は大学に行けました。またマイホーム購入で67歳で一軒家をガッツリ買うと話しております。すごい父親をもったなーと誇らしく思います。母の意見もわかるし、父の性格もわかるので、悩ましいです。母や父にどんなアドバイスやコメントをすれば良いでしょうか。。
(PN:きむら さん)
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毎度お世話になっております。
これはですね、きむらさん、分身しましょう。一人でやることではないですね。なぜなら話を聞く相手がここには3人いるからです。なので3体になってください。きむらA、きむらB、きむらB’(ビーダッシュ)とお呼びします。
きむらAさんへ:
あなたはお母さん担当です。今回のお手紙で最初に、「背中にそっと手をあててお話をおうかがいしたい」と私が個人的に思ったのがお母さんなので、まあ全員にちゃんとお話は聞きたいんですけれども、やはりまあ筆頭はお母さんです。お母さんの「意見」はきむらさんご自身もよくおわかりだと思います。それは「仕事辞めない? ゆっくりしたら?」ということですよね。しかし、これは直感ですが、まだ十分にお母さん自体の「感情」を聞き取れていない気がします。「なぜお父さんに仕事を辞めてほしいのか、なぜゆっくりしてほしいのか」の部分を解像度5000倍くらいでクローズアップしましょう。ズームが甘いと「さみしいから」みたいな話で終わってしまいますけれど、それだと、いやいやまあ人間誰もがさみしいんでしょうがないよね、みたいな塩対応になってしまいがちでよくありません。そうではなくて、お母さんご本人の口から、「お父さんに仕事やめてほしいのはなぜ?」「お父さんが仕事やめてゆっくりするとなったら、どうしたい?」「お父さんが仕事やめない、けど、お母さんの言うこともまあわかるよって言ったとしたら、次に何を言いたい?」みたいに、お母さんが語りたいこと、あるいは、まだ語っていないこと、もっと言えば、言葉にできていない情動的な部分を言葉にするお手伝いまで含めて、しっかり、じっくり、余すところなく、いやまあこれはそもそも終わりもなく途方もないんですけれど、とにかくじっっっっっっっくり聞いてみましょう。そこを丁寧にやるというのがきむらAさん、あなたの役目です。
きむらBさんへ
あなたはお父さん担当です。お母さんから「仕事辞めない? のんびりしたら?」と言われているとき、お父さんはどういう感情でいらっしゃるのでしょうね。「いちいちうるせぇなあ」と思われているのか、「いつもそうだったけれど心配しすぎだ」なのか、「いや、大丈夫だ、もっともっと幸せにしてやる」なのか、可能性としてはいっぱいあるんですけれども、そこ、まだ見えていない話があるかもしれません。気丈に振る舞う裏に不安が控えていないでしょうか。なんとなく大丈夫そうな雰囲気をきむら(合体バージョン)さんの文面から読み取れますが、「お父さんは熱意があるから-大丈夫だろう」の、熱意がある、の部分と、大丈夫、の部分をすぐに繋いでしまうのは尚早かなとも思います。幸い、先ほどきむらAさんがお母さんとじっくりお話をされるとのことでしたので、それと同じくらい……とは言いませんが三分の一くらいの時間をお父さんにもぜひ。それがきむらBさん、あなたの役目です。
きむらB’さんへ
「そこはきむらCでいいだろ!」とツッコんでいただきたかったのですがツッコめましたか? さておき、あなたは「あなた自身にお話を聞く」役目です。67歳でまだまだ働いてこれから家を一軒! というエネルギッシュなお父さんと、それを心配そうに見つめながら控えめに自分の主張もなさっているお母さん、両者の間であなたはいったいどういう精神状況なのか。私はですね、個人的には、あなたも話を聞かれるべき存在ではないかなと思いました。仲の良さそうなご家庭で、「大学も出していただいて」、感謝こそあれ不満はないよ、というくらいの雰囲気を感じますけれども、お父さんとお母さんの微妙な差みたいなものを間に立って眺める人間には、死にゃあしねぇけどさ、ちょっとした「微細な引き裂かれ」がある気がするんですよね。いや、死にゃあしねぇんだけどさ。そういう引き裂かれ、もっと気軽に誰かに聞いてもらっていいと思います。死にゃあしねぇけどさ。
今回こうして、一切解決するつもりがない破天荒なお悩み相談企画にメールを送って頂いたのは大英断だったなと思います。お父さんやお母さんが送ってきたわけではなく、きむらさんがメールを送られてきたのですから、私はきむらさん自身のことが少し気になった、というわけです。そういう相談ムーブ、あなたはもっと頻繁になさっていいと思いますよ。もっとも、話し相手もそうそう潤沢に世に満ちあふれているわけではないので、困りますよね。ただこの度、機会あってあなたはすでにAとBとに分裂しておりますよね。だったら、Bさんの一部のエネルギーを借りるくらいの勢いで、「お父さんと向かい合うときのあなたの影」みたいな役割を引き受ける、B’さんにも登場して頂いたわけです。きむらB’さんは、あなた自身の話をもっとじっくり聞いてあげてください。
はい、今回のお悩みに関する私からの感想は以上です。全体的にもっと話をしましょう。「もっと話をする」は令和の流行語大賞にしてもいいくらいだな! と今の私は確信していますが、よく考えると、かつてとあるバラエティ番組が、局所的に流行語大賞にしてしまったセリフ、「腹を割って話そう」というのは、あれ……すばらしいですね……感動するな……。話をしてください。でもだからと言って基本的にはとっくに大人のお父さんととっくに大人のお母さん、最終的にはその二人の問題、というかコミュニケーションのきっかけがコトの本質なのであって、できればあなたは聞き役に徹して、今後は当事者であり続ける必要はないんじゃないかなーとも思いますので、だからひとまず現時点で打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、師走いかがお過ごしですか。私はダメです。年々しんどい。起こったことに対処する、頼まれたことをやるという、熱意も意識も低い仕事ルールを敷く私に、気力と体力の低下が追い打ちをかけます。増え続ける一方の頼まれごとに、私は疲弊を差し出すことでしか乗り切ることができません。ウンウン考え、ヨロヨロ動き、ヘトヘトになる一方です。
すでにヘトヘトな私ですから「67歳で定年、再雇用でまだまだ働く」という、相談者さんのお父さまには、素直に頭が下がります。老いてなお盛ん、老いても気力が漲り続ける境地とは、私にはちょっと想像がつきません。
少なくともサラリーマンという、雇用を条件に「させられる」種類の仕事において、自身の衰えを内なる熱意でもって補えるとは、私にはとても考えられないのです。だから相談者さんのお父さまも、あえて「今から一軒家を買う」と家族に宣言することで、内なる熱意を外部化し、半ば強制的に衰えの退路を断とうとされているのではないか。虚弱な私は、ついついいらぬ心配をしてしまいます。
ただし仕事に熱意も意識も低い私でも、意欲や体力の衰えに対する処方を、ひとつだけ知っています。それは習慣です。ルーティーンと言い換えてもいいでしょう。とにかく長年続けてきた自分なりの段取りや行為は、意外なほどに自身の衰えを補完します。長年の習慣といっても、ご立派なものではありません。そもそも雇われの身ゆえですから、サラリーマンの習慣なんて、自ら意識して作り上げたというより、出社時間や勤務地や組織によって半ば強いられた、受動的なルーティーンがほとんどでしょう。
しかし、その習慣は時間を経るほどに驚くべき強度を発揮します。出勤し、仕事をこなし、昼飯を食べ、帰路につく。そこで繰り返されるあらゆる行動や段取りは、自分への最適化を極めていきます。「いつどこでなにをする」が固定された生活は、多少の不調や衰えにビクともしません。それゆえ確立しきった習慣やルーティーンは、時に「生きがい」とすり替わるほどに、スムーズなリズムと強度を私たちの人生にもたらします。長らく同じところに勤めた経験のある人は、頷くところがあるのではないでしょうか。
そういう意味で、相談者さんのお父さまは「平日は仕事、土日はパチンコ」が極度に硬化したルーティーンと化しているのかもしれません。しかもお父さまは熱意をもって、さらにおそらくは学歴社会への反骨心をもって、仕事に邁進されてきた。お父さまは平日の仕事の中でも、高度に洗練された習慣を大小さまざまに確立されていたはずです。
もくもくバリバリと働いてこられたお父さまは懸命に生きる中で、だれにも邪魔できない繰り返しを作り上げた。しかしその繰り返しは繰り返されるうちに固くなるあまり、自身も手が出せないような、不可侵のものになってしまった。だから定年後も「それをやめる」という選択が消えてしまった可能性は、じゅうぶんある気がします。「ゆっくりしたら?」とおっしゃる相談者さんのお母さまには、それをわかっていらっしゃる気配がします。
そのようなケースは、なにも珍しいことではありません。あなたの会社でもあなたの身内でも、習慣の強度ゆえに縛られ、続ける以外に選択肢を持たない人はたくさんいるはずです。人でなくとも「存続させること」が目的になってしまったルールや組織など、私が働く会社の中でさえ枚挙に暇がありません。大げさにいえば、人あるいは組織における習慣の強度を拠り所に社会をゴリゴリ発展させてきた日本は、その恩恵の反動として「変化がしにくい社会的習慣」を作り上げてしまったのでは、と思う時があります。
もちろん強度ある習慣も、それぞれ個人のレベルにおいては、なんら非難されるものではありません。むしろ尊いものです。老齢の職人の所作が無駄なく美しいように、熟年サラリーマンの仕事には一定の説得力があります。それはそれぞれが築き上げた歴史というべきものであり、だれかが否定できるものではありません。おそらく、子どもであっても、親の職業上の固い習慣を否定する余地はないでしょう。そこは人間の尊厳に関わることですから。
つまりは、長年続けた仕事をやめさせることは、だれにもできないのです。それどころか長年の習慣を切断するのは、本人にもできない場合がある。そう考えると、家族には労わり応援する以外にできることはないのでしょう。おそらく私たちは、ルーティーン化した仕事を、雇用が終わるとか体を壊すといった、第三者的無情な事情でしか終わらすことはできない。なかなかどうして、悲しい気持ちになってきます。
働きたいという意思に、打つ手はありません。どれだけ親を気遣おうとも、習慣が習慣を保持しようとする慣性の法則に、子は打つ手はありません。私も親がそういう状況に直面する年頃です。私も親に「仕事をやめろ」とはとうてい言えそうにないから、ただまぁ打つ手はありません。
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☆今回のお悩み☆シャープさん、ヤンデル先生、こんにちは♪お2人のこのコーナーがとっても好きです♪私も何かお2人からのお言葉が欲しい!と、意気込んで、Googleフォームを開き、回答を入力の文字を、何度見送ったことか☺︎肝心のお悩みが、うまいこと出てこないのですよ。せっかくのチャンスなのですから、小洒落た感じのお言葉が欲しい♪そんな欲にまみれた想いでは、採用されないですね。ここは正直に、1番聞いてみたい事を書くしかない!やっとここまできました☺︎ただ、まぁ、打つ手はないです。わかってます。もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか。なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡(PN. ぢぢ@札幌さん)
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どうで荘にご入居のみなさん、ごきげんよう。@SHARP_JP の山本です。聞くだけ聞いて解決しないお悩み相談は毎月連載ですので、これが載るのは11月。ボーナスとかクリスマスとか、なにかとみなさまにモノを買わせる12月に向け、私が勝手に忙しくなる月です。無粋なごあいさつでした。
さて今回はポエティックな相談です。あるいは人々が口ずさむポピュラーソングのフレーズのような相談だと思いました。
「もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか」
切なく、美しいですよね。こういう美しいフレーズに出会うと、それに言葉を続ける役割の私は、どうしても尻込みしてしまいます。だってもう、完結しているのですから。このお悩みはもう完結している。それゆえ美しいフレーズだと、私は感じたのだと思います。
尻込みする私は、結論を急ぎます。
会えない人に会いたくなった時、われわれはもう、その人と会っているのです。会えなくなった人とはすなわち、記憶です。あなたは「どうしたらよいのでしょうか」と私に送信した時、会えなくなった人にすでに会っていた。あなたは記憶を手繰りよせることで、かろうじて会えることを知っていた。だからその問いは、あらかじめ完結していたのです。
私たちは、会えなくなった人を思い出すことで、何度でも会う。いや逆かもしれません。会いたいから、何度でも思い出すのかもしれません。たとえ会える人でも、思い出さなければ会う行動を起こすこともありません。実際に会っても、思い出すことがなければ、それはほぼ他人です。人間は介在する記憶さえあれば、会うのも会わないのもさほど違いがないのではないか。そんな極端なことすら、私は考えてしまいます。
もちろんわかっています。思い出すことで会うたびに、もうその人がいないという事実を突きつけられることを。私たちは思い出すことで何度だって会えるけど、もうこれ以上思い出が増えることがないこともまた、同時に思い知るわけです。私たちは記憶で会う能力を、小さな痛みと引き換えに獲得したのかもしれません。
会えなくなった理由はなんであれ、私たちには、会えなくなった事実に打つ手はないです。悲しいほどに、ないです。それでもやっぱり記憶を縁にその人と会おうとする、相談者さんの日々が穏やかでありますように。そう締めざるをえないほど、私にはただまぁ、打つ手はないです。
こんにちは。
冒頭からいきなり挨拶もそこそこに本質的なことを申し上げますと、今回、ぢぢさんからいただいたご相談は、今までの中で一番難しいです。なんとか「回答」しようと思い、何度も何度も書き始めてはみたのですが、どうにもうまくいきません。
悩んで、キーボードに両手を置いてバカスカ叩き、しっくりこなくて、右手の中指をおもむろにバックスペースに伸ばして全部消す、あるいは左手でCtrl+Aと押して全選択して、左手でdeleteするというのを、もう4回ほどくり返しています。
本来、そこまで苦しんで書くようなコーナーではないはずなのですが。
最後、オチの部分を定型文の「打つ手はないです。」で締めるという本連載のシステムは、書く方としてはとても楽です。なぜなら、これによって、悩み相談系コンテンツの一番難しい部分を回避できるからです。結論が「打つ手はない」ということはすなわち、「解決」しなくていいということですからね。他人の問題に解決策を提示するほど難しいことはないですから。
私どもは、お題を見て、思ったことをただ書けばいい。それだけでいい。
疑問や懸念に本気で向き合うことなく、肩肘を張ることなく、ぢぢさんの書かれた文章から着想したイメージを随意に記していけばいい。シャープさんとはこの企画に関しては一回も相談をしたことがないので、彼がどういうやりかたで書いているのかはわからないですけれども、少なくとも私はこれまで「随想形式」で書いてきました。
しかし、今回は、どうもそれがうまく行きません。
理由はおそらく、ぢぢさんの文章全体から、強く、ねばっこく、絡まり合って、へばりつくような、強烈な苦しみのようなものが感じ取れるからです。それをぢぢさんは半分意図的になさっているようで、でも一部は無意識なのかなとも思います。苦しみの一部はどうやら自罰的にご自身に向いているようで、かつ、どうやら私どものほうにも向けられている。
今回のご相談内容は、段違いに重いです。こんなおちゃらけコーナーに送ってくる類いのものではない、まがまがしいオーラのようなものが、文章の奥からビンビン伝わってくる。
「これに、いつものように答えを用意することなく、シレッと随筆を書いていいのだろうか?」というとまどいが、私のキータッチを途中で止めてしまうのです。
ぢぢさんは、死別か離別かわからないですが、とにかく何らかの別れを経験されたのだということはわかります。そこは「誰もがわかるように書いている」。
しかし、その別れについて、私どもに「詳しいことを知らせる気はない」という意思もまた伝わります。本質の部分をホワイトノイズの中に埋もれさせて、このコーナーを読む人に「あまり心を探られないようにしたい」という、仮にも「相談企画」であるはずの本コーナーに対する本末転倒な心意気を同時に感じとることができます。
「小洒落た感じのお言葉が欲しい♪ そんな欲にまみれた思いでは採用されないですね」
いえ、そこまで厳密に相手を選別するような企画ではないんです、ここは。
ていうか大抵の質問者は「まあちょっとなんか小洒落たこと言ってくれや」くらいの軽い気持ちで投稿してくださってきたと思います。
「欲にまみれた」なんていう言葉をここで目にすると、ぎょっとする。コーナーの空気に合っていない。
「なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡」
「ですがね」が引き受ける、あるいは逆転させるべきものが、明確には書かれていませんが、普通に考えれば、この「ですがね」からは、「今は笑って生きられない」という意味を読み取れます。テンションが激重です。ハートが空虚です。
「打つ手はないです。わかってます。」
それは私どもの伝家の宝刀、あるいはエクスキューズ(言い訳)です。先に使われてしまいました。ご丁寧に、「わかってます」で無効化までして。
開示と秘匿とを同時に行っているような。軽量化しながら重装備しているかのような。
ここで唐突にごく個人的なことを申し上げることになり、大変恐縮ではありますけれども、「離別の悩み」は、私自身、背骨の辺りに一本貫通している、私の性格や行動に大きく影響を与え続けている、私の人生のテーマそのものと言って差し支えないものです。
この悩みに関しては私自身、誰とも共有したいとは思わないし、誰かが解決できるとも思っていないのですが、ぶっちゃけ、まれに、誰かこの悩みを引き受けてくれないかな、でも絶対に全部はわかってくれないだろうけどニュアンスだけでもわかったふりをしてくれないものかなと、何度も何度も何度も何度も考えて、でもやっぱりやめてきた、という歴史があるので、その……ぢぢさんがこの七面倒くさい形式の文章を書いた理由も、全部わかるなんて怖ろしいことは絶対に言いませんが50%くらいはわかります。「誰にもわかるわけないんだけど多少は他人に伝えておかないと苦しんでいる甲斐がない」みたいな感覚が、半分弱はわかる。
ぢぢさんが今回の相談文に書かれた言葉は、一文ずつ切り取れば明るくも読めますが、しかし総体として伝わってくるニュアンスは暗黒です。音符も絵文字もこれみよがしに「明るさを演じている」ように見えるし、「これだけやってあげれば、明るさを演じている私に気づくでしょう?」という、探偵が気づきそうなヒントをあえて現場に残す怪盗のような挙動にも見える。
あるいはぢぢさんは日常生活では、カムフラージュに成功しすぎてしまっているのかもしれませんね。周りに「明るく振る舞っている元気な人だ」と思われているのかもしれない。だから、相談文では、我々に「本当のつらさが伝わらない可能性」をおそれて、このようなある意味わかりやすい重さを配備した文章を書かれたのかもしれない。
そしてぢぢさんは今、あらゆる他人の言葉を、あまり自分の中に入れる気がないのではないか、とも感じます。誰に何を言われても私はどうしようもないのだということを、ご自身の中で何度も咀嚼して、あきらめるまでの時間を稼いでいる。だからこんな文章を私どもに送ることを思い付かれたのではないか。
こうしてひたすら読みとろうと試みていくと……そのいくつかはピント外れだったかもしれませんが……、しみじみ感じます。
打つ手がないです。
今回ばかりは全く打つ手はありません。
本当にそうだろうか?
はい、そうです。本当に打つ手はないです。
永遠の離別に打つ手はないのです。
ただし、待つ手はあるかもしれない。
「打つ手はないです」という言葉がゲシュタルト崩壊するくらい、何度も何度も入力していくと、「手を打たずに待っている棋士の姿」がふと思い浮かびました。長考をする。王も飛車も歩も動かさず、ただ待つ。なんらかの手を指したら局面が動いてしまって、それはあるいは、自分を敗北に導く一手になるかもしれないのだけれど、手を打たずに待てば、その将棋はいつまでも終わらないのです。
だから待てばいいのかなと思う。
将棋だと制限時間があるから許されないやり方ですけれどね。人生ならば待てます。
……まあ人生にも制限時間はあるんですけれども、ここは考えようでして、「永遠の離別」という言葉があるように、別れに伴う時間というのは基本的に無限に引き延ばされるんですよね。その無限を生きるのは本当に辛いことですので、人はしばしば耐えられないほどの辛さを感じます。しかし、無限に続くかのような時を過ごすというのなら、心象風景的には制限時間はなくなっていると言い換えることができます。となれば、いっそ、制限時間のない将棋みたいな気持ちで、いつまでも待つ。そういうことは可能なのではないでしょうか。
待つ間には本を読みましょう。永遠の離別を永遠に待つということは、理論上、永遠に本が読めます。
先日、エリザベス女王を主人公にしたフィクションを読みました。『やんごとなき読者』という本です。白水社から出ています。エリザベス女王は、多くの方よりも長生きしましたので、じつはとんでもない量の別れを経験している方です。もっとも、この本は女王陛下の別れの苦しみを直接書いたものではないですが、手を打たずに待つ女王の姿と、あるタイミングで手を打つ女王の姿とが両方描かれており、テーマは「限りある人生における、自分で選べない別れと自分で選べる別れ」ではないかと思います。湿っぽい本ではなく、ウィットに満ちあふれています。よかったらどうぞ。
あと、少し前になりますけれども、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』という本を読みました。この本の主人公はロボットです。人より長く生きます。この「人より長く生きるモチーフ」というのを私はとても好んで、しょっちゅう読んでいます。よかったらどうぞ。
そう言えば20年以上も前になりますが、ライトノベルで『狼と香辛料』というシリーズがありまして、これ、基本的には経済ラノベでして、かなりよくできているのでいちいち感心するのですけれども、主人公は狼娘で、もちろん人より長く生きます。よかったらどうぞ。
この際ですから申し上げますと、『薄暮のクロニクル』というマンガがありまして、これは機動警察パトレイバーを書いたゆうきまさみさんの著作なのですけれども、主人公は人なんですがもう一人の主人公が吸血鬼で、もちろん人より長く生きますがよかったらどうぞ。
あとは『ダンジョン飯』も……いや、これはあまり語らない方がいいかもしれませんが、よかったらどうぞ。既刊12巻で現時点では完結していませんが、なあに、永遠に待っているうちに必ず完結するはずです。
以上、本日は胸を張って申し上げます。かれこれ8本書いて消してこれが9本目になりますが結論ははっきりしています。永遠の離別に、「打つ」手はないです。
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