シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第12回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
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☆今回のお悩み☆
シャープさんヤンデル先生、こんにちは。
最近、何かを質問するとAIが即座に答えてくれる機能やサービスがよく話題になっていますね。
私はこの連載を読んでいて、お二人のお悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが、AIにお悩み相談ってできると思いますか?
お二人のお考えを聞いてみたいです。
(PN:さるぼぼ)
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いま見たらこの原稿のファイル名に12がナンバリングされていました。月イチのお悩み相談ですから、今月でヤンデル先生と私、われわれの回答が一年を巡ることになります。そもそも解決を放棄するという、ふざけた回答にもかかわらず、どうで荘にご入居のみなさんの一年にわたるおつきあい、ありがとうございます。
さて、一周年にふさわしいかどうかは知りませんが、ここでわれわれが行ってきたお悩み相談の回答を、いま流行りのAIが行うことは可能か、という問題が提起されました。仮に可能であれば、それはすなわち連載の危機とも言えるでしょう。私もヤンデル先生も、なにがしかの文章を書き、読んだ方から反応をいただく貴重な機会をひとつ失うわけです。今回のご相談は「AIは私やあなたの仕事を奪うのか」という、昨今ちまたで喧々諤々されている議論と本質的には同じなのかもしれません。
それにしても世間話でもニュース記事でも、私は「AIは人間の仕事を奪うのか」なるテーマを見聞きするたびに、「AIはいつから警鐘を鳴らす存在になったのか」と、いくぶん不思議な気持ちになります。たしか私の記憶では、AIは人間の労働をそうとう肩代わりしてくれるから、その浮いた分の時間も経済的対価も私たちは享受し、ついには労働から解放された人類は新たな進化を迎えるだろう、といった楽観ムードだったはずです。AIこそが救世主だ、と。
それがいつのまにか反転してしまったように見えます。AIはあなたや私を失業させるかもしれない。AIはあなたや私を貧乏にするかもしれない。AIは救世主から悪魔になったとは言い過ぎだとしても、とにかくAIは恐ろしいものという空気をひしひしと感じます。
そもそもAIが私たちを路頭に迷わすのなら、そんな存在はお引き取り願いたいし、AIが私たちを働かずして生きていけるようにしてくれるなら、一刻もはやくしてほしい。私はそう思う怠惰な人間です。できることなら私はさっさと労働から解放され、人々のお悩み相談なんかを日がな一日じっくり考え、その回答をのんびり書くなどして暮らしていきたい。だからAI様におかれましては、お悩み相談の代筆なんてちんけなことを言わず、もっと大きな、人類の苦しみを肩代わりしてほしいと願うのです。
そういう私は、AIがお悩み相談の回答を担うなど、実はわけないのではないかと思っています。聞くところによると、質問すると即座にテキストで答えてくれる系のAIは、ひたすら次の言葉にくる確からしい言葉を出力するそうです。人類がインターネット上に蓄積してきた膨大で膨大な言葉を取り込んだ結果、AIはこの言葉・この文脈から、次に続く確率が最も高い言葉を選べるようになった。そしてその高い確率で続く言葉をひたすらつなげていくと、どうやらわれわれが聞きたかった文章が生成される。いささか乱暴ですが、私はそういう風にいまのAIを把握しています(違っていたら教えてほしい)
と、いうことはですよ。私となんら変わらないじゃないか、と思うわけです。ここでいま書いている文章も、ふだんの私のツイートも、それから私が日常で交わすあらゆるテキストも、かつて私がどこかで見聞きした言葉によって成立しています。そこに私が生み出した言葉などひとつもありません。いくら私がうまいこと言えたぞとほくそ笑むツイートも、これは世紀の名回答だと自己満足する文章を書けたとしても、そこに私のオリジナルはありません。私のテキストはすべて、過去から現在に生きる、どこかのだれかの言葉で出来ている。私はそう考えています。
一方、文章を生成させる方法においても、私とAIの間にさほどの違いはありません。AIがただひたすら「次に続く確率が最も高い言葉のみ」を探すように、私はただひたすら「次に続く言葉のうち自分が最もしっくりくる言葉のみ」を選び、言葉に言葉を接いでいく方法をとります。なぜならそれが、自分が言いたかったことに自分が事後的に気づけるための近道だからです。私は言いたいことを言うために文章を書きますが、書く前から言いたいことを把握できているわけではありません。言いたいことは書き終えてはじめて、そうか私はこういうことが言いたかったのか、というかたちでしか知ることができないのです。
言葉は他者の言葉からしか獲得できないし、言いたいことは書いたあと遡るようにわかる。うまく言えませんが、たぶん言語とはそういうものなのだと思います。そう考えるとAIが代筆どころか、これまでのお悩みはすべてAIが回答していたとも考えられるわけです。私たちはAIのようにして言語を使えるようになる。つまりはあなたも私も、すでにAIなのです。ただまあ、打つ手はありません。
こんにちは。私たちもAIがどの程度お悩み相談に役立つことができるのかについて、興味深い話題だと思います。
AIは、多数のデータを分析し、関連性の高い情報を瞬時に取得することができるため、ある程度の情報や知識を持っている場合には、特定の問題に対する答えを提供することができます。しかし、AIは感情や人間の経験に基づく洞察力に欠けているため、一部の問題には適切な答えを提供することができません。
また、お悩み相談には、相談者とのコミュニケーションや共感、人間らしさが必要不可欠な要素です。AIが完全に人間の代わりをすることはできません。
つまり、AIがお悩み相談に対して役立つ可能性はある一方で、人間同士のコミュニケーションや相互作用を完全に代替することはできないということです。
したがって、私たちは人間同士のコミュニケーションや相互作用が欠かせないお悩み相談に対して、AIが完全に代替することはできないと考えます。ただし、AIがある程度の情報を提供し、人間同士のコミュニケーションをサポートすることは可能だと思います。
ですってよ。ChatGPTがこのように言ってます。さるぼぼさんからいただいたお悩みを、そのまま言語生成AIであるChatGPTにぶちこんで、回答をコピペしたものが上記(太字部分)です。これで原稿料もらうわけにはいかないので、今回の原稿料は辞退します。あなたはこれが「AI作」だと気づきましたか? わりとわかりやすかったかな?
こうして「AIに回答させました」と答えをばらしてしまうと、皆さんも「あー、なるほどね」となってしまいがちです。「あーヤンデルもとうとうそういうことするんだ」みたいなね。でも、ちょっと待って、あらためて今の回答を読んでみましょう。わりといい感じでお悩み相談できてるように見えますが、いや、待て待て。
これって本当に、お悩み相談になってるでしょうか――
――なーんて。ありがちな展開に持っていきたくなりましたけど。
うん。「お悩み相談の体裁」はきちんと保てていると思いますよ、私は。
まあ完璧とは言いません。言いませんさ、それはね。
たぶんここを見ている方のうち、半分くらいの方は、上記の文章を読んで途中で「目が滑った」んじゃないかと思います。私の尊敬する芸人のサンキュータツオさんとこないだお話ししたのですが、彼は言語生成AIの作る文章について、「平板で盛り上がりがない」とおっしゃっていました。たしかにそういう印象がありますよね。
けど、相談に対する回答、応答としては、よくできているんじゃないかなとも思いました。世の中の1億人くらいに、「AIにお悩み相談させたらどうなると思う?」と尋ねたときに返ってくるお答えの平均をとったかのような……もしくは、最大公約数的なお答えと言ってもいいかと思いますが、とにかく及第点の回答を非常に短い時間で作ることができている。すばらしいことです。ネットで検索しまくって間をとる、みたいなことを、秒でできるんですから。
一方で、このお悩み相談に気になる点がひとつあります。さるぼぼさんが書かれた、「お悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが」の部分がぜんぜん反映されてない。
あたたかみやユーモアのある回答が好きだ、と言われたら、普通の人間であれば無意識に、「そうか、だったらあたたかさのある、ユーモアもまじえた回答をしてみたいものだな」と思って、回答を微調整すると思うんです。でも、AIはそこの部分は一切無視してますね。
とはいえ、AIに「お前は人間と比べてだめだなあ」というのは大人げない(人間げない?)行為だと思います。
なにより、私の質問の仕方も悪かったかもしれない。さるぼぼさんは、シャープや私に向けてお悩みを書いてくださったわけですが、この文章にはシャープや私が受け取ることを前提としたニュアンスの調整が加わっています(さるぼぼさんを含め、多くの人はそのような高度な「さじ加減」を無意識のうちに会話や文章に加えていると思います)。それを本来「かやの外」であったはずのChatGPTにあれこれ答えさせるというのは、そもそもChatGPTに不利な座組みかもしれません。
よし、仕切り直しだ。いったんChatGPTの画面を閉じて、あらためて質問をやり直します。今回の質問者はさるぼぼさんではなく「私」にします。ChatGPTには、あくまで私というクライアントに向かって答えて欲しいと思います。さるぼぼさんの文章を活かしつつ、以下のように前後に説明を付け加えました。
[病理医ヤンデル]
私は「ヤンデル先生」と呼ばれるものです。インターネット経由で、以下のような質問を受け取りました。 シャープさんヤンデル先生、こんにちは。最近、何かを質問するとAIが即座に答えてくれる機能やサービスがよく話題になっていますね。私はこの連載を読んでいて、お二人のお悩みに対するあたたかみやユーモアのある回答がとても好きなのですが、AIにお悩み相談ってできると思いますか?お二人のお考えを聞いてみたいです。 これに、あたたかみやユーモアのある回答を返したいのですが、文案を考えていただけますか?
するとChatGPTはこのように返事してくれました。
[ChatGPT]
もちろん、喜んで回答いたします!
AIがあらゆる情報を瞬時に処理できることは確かですが、それでも人間特有の感性や経験、人間関係の複雑さには対応できないことがあります。お悩み相談についても、AIが完全に代替できるとは言い切れません。
しかし、技術の進歩により、AIがより人間に近い回答を提供できるようになってきています。例えば、AIによる感情解析技術を活用することで、お悩み相談においてもある程度の共感や理解を示すことができるようになってきています。
ただし、私たち人間の存在感や人間同士のコミュニケーションの大切さを忘れずに、AIを活用することでより良い解決策を見つけ出すことができると思います。
というわけで、AIを活用したお悩み相談には、人間とAIの力を合わせてより良い結果を生み出すことができるかもしれませんね。
なあんだ、挨拶が増えて、口調がちょっと変わっただけやんけ、と思いますが、あたたかみは増えたかもしれません。こういうところ、言語生成AIってすごいですね。空気を読んで文体を変えている。ただし、ユーモアについてはこれでも少々足りないようです。
さて、ChatGPTには会話を続ける機能があります。一度出た答えの気にくわなかったところを修正してもらうことができますので、今のチャットを閉じずに、続けてこのように入力してみます。
[病理医ヤンデル]
すばらしい回答です! とても参考になります。さすがAIですね! ところで……あたたかみについては完璧ですが、ユーモアが少し足りないような気もします。ユーモアをもう少し効かせた回答バージョンも考えていただけませんか?
するとすかさずChatGPTはこのように答えてくれました。ここで私は「ほう……」と感心してしまいました。
[ChatGPT]
ありがとうございます!ユーモアをもう少し加えたバージョンを考えてみました。
AIによるお悩み相談が一般的になると、人間同士の会話もこんな感じになってしまうかもしれません。「おお、君、その悩み、人工知能に聞いてみたらどうだい?」とか、「俺はもうAIに相談するしかないんだ。ヒトにはもう頼めない」とか。
でも冗談はさておき、確かにAIが進化すればするほど、人間とAIの役割分担が進んでいくことでしょう。AIが得意な分野ではAIに頼り、人間が得意な分野では人間が頑張る、そんな未来がやってくるのかもしれませんね。
とはいえ、AIもいつかはユーモアや感性を持った存在になるかもしれません。もしかしたら、あなたがAIに相談したお悩みが、AIの学習によってユーモアを理解するきっかけになるかもしれません。誰かが作ったプログラムに、新しい発見や価値を与えることができるのは、人間だけではないかもしれませんね。
どうですか? 最初の回答と見比べてみてください。あたたかみ、やさしさ、茶目っ気、ユーモア、まるで別人のようです。「でも冗談はさておき、」みたいな話題の転換もスムースですし、そもそも日本語の違和感がないってのもすばらしいです。
実験はここまでにしましょう。
以上の結果を踏まえ、「AIにお悩み相談ってできると思いますか?」というさるぼぼさんのご質問に、私は以下のようにお答えします。
「AIを人だと思って誠実に質問することが大事。AIが何か勘違いしてるなと思ったらそれとなく指摘し、もうちょっとくだけてしゃべってほしいとかわかりやすくしゃべってほしいと思ったらそれも素直に教える。一度、二度のずれくらいで人間と比べて「お前はだめだなあ」とか言わない。AIと一緒に会話を組み立てていくんです。そうすれば、十分にお悩み相談の『型』を再現することができます。ちなみに、AIが言うには、お悩みを投げかけることで私たちの役に立つだけでなく、AIも成長するかもしれないんですって! なんか、夢がありますよねえ」。
はい、大団円。
……でも、この回答、じつは、私が考える100点満点でいうところの、75点くらいです。
私の勝手な想像ですが、さるぼぼさんは、「Aにできると思いますか?」に、YesかNoかで答えてほしいわけではないんですよ。
私の独断的な妄想ですけれど、さるぼぼさんは、お悩みを読んだ私やシャープが「AIにできるかなあ? できないかなあ? うーんどうだろう、私が考えるに……いや待てよ……そういえば昔あんなことがあったっけ……最近こんなことも言われてるけどなあ……」などと、悶絶したり苦悶したり、試行錯誤したり紆余曲折するところを見たいんですよ。我々が難問に、理不尽に、些細なずれに、モヤりに、愚痴ったり悪態をついたり、でもどこかちょっと笑ったりため息をついたり、ジタバタしながらお遍路巡りを……じゃなかった毎月回答にお答えしているところを見て、アルカイックに微笑みたいんじゃないかなって思うんですよ。
「お悩み相談」に対する回答って正しさとか無難さが第一義ではないんですよ。適切さがないと困りますけど、そこだけではないんですよ。
今日の回答にしても、私が、ChatGPTにこなれた質問文を投げかけることで、こちらが納得し感心するような文章にたどり着くまでのプロセスを作っていく過程がちょっとおもしろいかなと思うわけで、最後のところを表面的に見ると、「おっ、AI、思ったよりできるな」っていう結論だけがポンと置いてあるようにも見えます。でも、じつをいうと、さるぼぼさんは、そういう結論を読みたくてお手紙を送ってくださったわけではたぶんなくて、さらに言えばプロセスさえもさるぼぼさんの本来望んでいたものに全て答えたわけではないかもしれなくて……。もっと、私の心の奥底にある獣の部分というか幼若な部分というか、原始的でドロドロとした情動や情緒の部分が、「とある叫び」を発しないだろうか? 直接叫ばないにしても文面からにじみ出てこないか? と、期待していたんじゃないかと思うんですよ。
その「とある叫び」というのは、つまり、こういうことですよ。
「世の中のどいつもこいつも、AI AIってうるせぇーッ! 南の島のサルか! なんだバカ野郎!俺の方がすげぇーッ!! 未来永劫、人間の勝ちだァーッ!! ウウッ……クソッ……」
おわかりでしょう。打つ手はないです。

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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第11回
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☆今回のお悩み☆シャープさん ヤンデル先生 はじめましてよろしくお願いいたします。
たいしたことのないことなのですが、レジの仕事をしている時に、(ものすごくレジが混んでいる)列に並ばずに横からアレコレ聞いてきたり、「〜してくれ」とか言ってくるお客様へは、なんと言えば、きちんと並んでらっしゃるお客様たちを、ほっこりさせることができるでしょうか?良いセリフがないかといつも考えております。
(PN. ここっけこさん)
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はいこんにちは、病理医ヤンデルです。
コンビニで、レジに向かって横からいきなり割り込んできて、「これは宅配便で、買い物とは別だから早くしてくれ」みたいな謎理論で周囲をあぜんとさせる人、まれにいますよね。その方になんと言えばよいか。
これは簡単です。
_人人 人人_
> バカ野郎 <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄
と一喝すればいいです。
このとき、シチュエーションにもよりますが、音響の工藤さんが、セリフの直前に絶妙のタイミングで「カチッ」という音を付けてくださることがありますので、あとでよくお礼を言っておいてください。「バカ野郎」単独よりも、「カチッ→バカ野郎」のリズムが、並んでいるお客さんの腹筋を効果的に刺激します。ありがたいですね。
狼藉者の雰囲気・たたずまいによっては、「バカ野郎」ではなく「ゲンゴロウ」を用いるのもよいと思います。高等テクニックであり、使い所は難しいですが、イラストとの相乗効果も期待できますので覚えておいて損はありません。このときたとえば「なんだこのゲンゴロウ」を投げつける寸前に、大泉……あなたがリンリンうるさくて脳みそが足りないニュアンスを醸し出しておくと、藤……狼藉者が「うるせえすずむし」と展開してくださいます。すると視聴者の笑いのツボがガバガバに広くなり、何をぶちこんでも爆笑となるフィーバータイムに突入しますので、「訴訟」「相手取る」「最高裁まで争う」「君んちに行くからな」「家族には手を出すな」などのキーワードをヒノカミ神楽のように連続でぶち込みましょう。そこまでやれれば、吉野石膏タイガーボードや北日本自動車共販のCMを挟んでエンディングに入ってもまだ笑いが止まらないくらいにお客さんたちを笑い続けさせることができるでしょう。
ただし。
先ほど私は思わず指を滑らせて「簡単ですよ」などと書いてしまいましたが、この一連のくだりを成功させるには、かなりの量の下準備が必要です。
そもそも、大泉洋という人が、四六時中D陣の言うことにバカ野郎クソ野郎と反発するタイプの人だと、ありがたみが薄れるというか、単に言葉使いが汚い人に見られるというか、とにかく、「バカ野郎」が笑いの効力を持ちません。
「バカ野郎」ひとつで笑いが取れるわけじゃないんです。
そこに至るまでの過程が大事です。いわゆる前フリ、もしくは背景条件と呼んでもよい。
彼は、カメラが回っているときにはそもそも「短絡的にD陣を罵るタイプじゃない」んです。あー、いや、ボヤキはしますよ。不満も表明します。しかし藤村Dやミスターに対してしょっちゅうコノ野郎ゲンゴ郎とケンカをふっかけてるわけじゃない。
だからこそ「際立つ」んです、ここぞと言うタイミングの「バカ野郎」が。
さらに、D陣がかつて指摘していたことの受け売りですが、大泉洋という方の凄さは、D陣が何かを言ったり、あるいは何かハプニングが起きたりしたときに、まずぐっと我慢して、飲み込んで、初手の段階では受け入れることを厭わない点にあります。
何かおかしなことが起こり始めたぞ、と察知してから、刹那と呼ぶにはやや長い、数秒ないし十数秒、「なりゆきを見守る」ムーブをするんですね。彼のクセなのか、あるいは笑いに対するセンスそのものか。
一般的なお笑い芸人の反射速度×手数のツッコミを、やればできるにも関わらず、やらずに保留して、「いったん待つ」。
鼻の穴と口の穴を縦に広げながら「ほん。ほおん。ほおおん(笑)」。藤村Dのむちゃくちゃなディレクションの行く末を、途中で遮らずに全部聞く。
「……そうかそうか……ンフッ……そうかそうか……」。
とにかく藤村Dがネタを全部出し切らせるまでじっと待つ。待ちながら構える。Dの手足が最もだらしなく伸びきったタイミングで一気に、斬る。
「よし、訴えるぞ」が宝刀としての輝きを発揮する瞬間です。たまりませんよね。
さらに言えば、私たち自身、もうすっかり毒されてしまって普段は気にも留めていないことなんですけれども、客……というか視聴者が、大泉・藤村(あるいは大泉・鈴井)の関係に慣れ親しんでいること。すなわち「視聴者の練度が高いこと」も、水曜どうでしょうの特徴である「一撃のインパクトが重く、フォロースルーも長い笑い」において、かなり重要な位置を占めているのではないかと考えます。
「あの大泉」が「あの藤村」に向かって。
「あの大泉」が「あの鈴井」に向かって。
知らない人から見れば単なる中年同士のいさかいです。しかしこれが、関係を知っている人にとってはたまらなくおもしろい。
幾年にも亘ってやりとりを観てきた「一流の客」だけがたどり着ける滋味。
もちろん、「水曜どうでしょう」には、一見さんを意図も簡単に惹き付けるような王道の笑いがたくさんちりばめられています。しかし、そのような「わかりやすい笑い」と矛盾しないまま、長年厳しい年貢を納めてきた藩士だけが口にできる笑いの甘露が込められている。これが強い。
たとえばですね。
レジ店員が大泉さんで、割り込む客が藤村Dで、並ぶお客さんが水曜どうでしょうフォロワーたる歴戦の藩士である状況において、
割り込む藤村D「おおい店員くんちょっといいかあ」
大泉「あ?」
藤村D「これ先にやってくれよ」
大泉「ああ? 並べよ」
客「クスクス……」
藤村D「先にやれっつってんだ」
大泉「な ら べっつってんだ」
藤村D「ああ? 見りゃわかんだろ てめぇ 別にこれ買い物じゃねぇから先にできるだろこのすずむし」
(カチッ)
大泉「ゲンゴロウは這いつくばって視線が床しか見えてねぇから見えねぇかもしれねぇがそこに並んでる客の後ろにつけっつってんだ」
客「(笑)」
という流れは完璧に成り立ちますしお客さんもほっこりすると思います。想像つくでしょう。
極論すれば、この際、セリフなんかどうでもいいんです。関係性があれば無限にやれる。100%ほっこりさせられる。
逆に、あなたがレジに入っていて、知らない人が割り込んできて、並んでいる客も全員知らない人の場合はどうでしょうか? お客さんはあなたと狼藉者の関係が読めないし、元よりほっこりするつもりでそこに並んでいるわけでもない。背景や前提を共有していない状況でセリフだけで「ほっこり」を求めるというのは非常に難しいです。ていうか、そもそも、今日の私の回答を、水曜どうでしょうを全く知らない人が読んだら何一つわからないと思いますよね、同じことです。関係性のない場所で、下準備もなしにセリフだけで、一見の客にほっこりしてもらうようなセリフなんてものは(ツイッターエピソードとしてはたまに見ますけど)基本全部幻想です。従いまして、まあその、打つ手はないです。
どうで荘にお住まいのみなさん、いかがお過ごしですか。私は切羽詰まってます。なぜならこのお悩み相談の締め切りが、とうにお過ごしなさっているからです。お恥ずかしいことに日々の大事小事にまみれて、すっかり原稿を書かねばならぬことを失念しておりました。なので私は、なにをもってしても、これを最優先で書かねばならぬ。まさに今、相談者さんのお悩みのごとく、ずらずらと列をなす私の用事をすっ飛ばし、原稿が「書いてくれ」と横入りしてきた状態です。並んでいた他の用事からすれば、舌打ちのひとつでもしたくなる状況でしょう。
ただし私の場合は、居並ぶ用事の優先順位を私が決定することができます。あくまで列の主導権は私にある。それに比べて相談者さんは、レジに並ぶお客さんの優先順位を決めるなど、とうていできません。お客さんは、前から何番目という順番以外はまったく公平。シンプルかつ偶然性を徹底したルールだからこそ、われわれも黙って従うわけです。
そのルールが無秩序な他人の出現によって邪魔されれば、並ぶ人が殺気立つのも無理はありません。とはいえ相談者さんにはお客さんの順番を前後させる、列の主導権はないのです。しかも「お客様は神様です」が必要以上に拡大解釈されがちな私たちの社会。列の殺気がレジの人へ向けられるのは、よく考えればそうとう過酷なことだと思います。
にもかかわらず、です。相談者さんは、並んでいるお客さんを「ほっこりさせたい」とおっしゃっている。立った殺気を鎮めるどころか、ほっと一息ついてもらいたいと望まれているところに、私はお客さんと直に対峙するプロフェッショナルを感じ、ほとほと頭が下がる思いがしました。そしてスマホ越しとはいえ、直にお客さんと対峙する私は、さらに一抹の共感を覚えるのです。
自慢ではないですけど、私も世間の殺気を一身に浴びるという経験をしてきました。現在も若干そうです。そしてその殺気は私の所属する会社がよろしくない状況をもたらしたことに起因するので、そもそも自慢にもならないのですが、とにかく殺気やイライラといった感情は宛先を求め、宛先が見つかったとたん、いっせいにそこへ集中する性質があることを、私は身をもって知っています。つまり世間の殺気やイライラは、組織や団体に満遍なく押し寄せるのではなく、誰かあるいはどこかを標的に向けられるということです。
だからといって、そういう場合にどうふるまえば適切なのか、私もよくわかりません。ただ私が行ったのは、殺気に宛先があるのなら、せめて受信したことは表明すべきだろう、ということでした。なので私はツイッター越しに、迫り来る殺気をすべて読んでいることを明言し、そして私がどう思ったかを可能な限り開示しました。解決なんてとうてい私ができることではありません。しかし「あなたのイライラは着実に届きましたよ」というメッセージは、少なくともイライラを増幅させないことにつながるのではと、いまの私は考えています。
最近はずいぶん少なくなりましたが、電車で電話する人に私たちはなぜイライラするかというと、電話の向こうの人がなにを言っているか聞こえないストレスが大きいという説を読んだことがあります。たとえ他人の会話や感情であっても、打ち返しが見えないと、われわれはイライラするのかもしれません。
ですから相談者さんには、これが「ほっこりさせたい」という解決に直結するかはわかりませんが、横入りされたお客さんの対処が済んだ後、それがどういう内容でどう思ったかを、口にしてみてはいかがでしょうか。列を停滞させた謝罪ではなく、「割り箸を6膳くれと言われて面食らってしまいました」とか、「シーチキンがどこに置いてあるかなんてとっさに思い出せないんですよね」とか、その瞬間に相談者さんが心の中で呟いてきた気持ちをそのまま吐露すると、列に並ぶ人は自分のイライラが受信されたと感じ、少しばかりでも殺気が緩むのではないかと思うのです。
とはいえスーパーのレジには、まだまだ殺気のきっかけが潜んでいることは、みなさんもご存知でしょう。私たちは列に並ぶ時、どの列がいちばん速そうか、さまざまな観測と予測を経て、並ぶ列を決めます。そしてその決断が正しかったか、レジにたどり着くまでずっと答え合わせをしながら並びます。つまり列の停滞は、停滞そのもののイライラに加えて、隣の列の方が速かったという損の殺気を引き起こすわけです。
そんな損得の殺気なんて、もはや列を一箇所にするフォーク並びしかないのでは、と私なんかは思うのですが、店舗の動線やスペースの制約上、なかなか難しいのでしょう。そんな想像をするにつけ、結局のところ私は相談者さんに「ご苦労さまです」と声をかけるしかできないのかもしれません。
なるべく寛容でいたいものです。私もあなたも。ただまぁ、打つ手はありません。
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☆現在、入居者の皆様からのお悩みを大募集中!
【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第10回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
仕事と子育てどう両立すればいいと思いますか?奥さんは子育てで大変そうだけど仕事をして稼がないと子育てが色々しんどくなるジレンマです。
(PN. たいさん)
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どうで荘にご入居のみなさま、新年おめでとうございます。どうかみなさまの一年が、楽しくて実りの多い年でありますように。とはいえ今年はどうでしょうの新作が控えていますから、藩士のご多幸は保証されているのかもしれません。とにかく「滑り台とはなにか」を見届けることが、卯年の使命になりそうです。
さて新しい年のお悩みです。なんとも今っぽいテーマが寄せられました。子育てと仕事の両立。人類は太古の昔から連綿と子育てと仕事を行なってきたはずなのに、いまだ頻繁に問いかけられる悩みです。こんなの、人類の叡智でとっくに解決していそうなものですが、どうやらそうではないらしい。たいして歴史を学んでこなかった私ですが、子育てと仕事の両立について語られた古典や神話、あるいは子育てと仕事を命題にした哲学書など、ついぞ見かけたことがありません。
率直に申し上げて私は、毎日のようにSNSやメディアで目にする「子育てと仕事の両立」に、やや食傷気味です。なぜなら議論されるそれらはことごとく、子育てvs仕事の二項対立として語られるからです。子育てと仕事の両立といいつつ、議論はいつも「どちらかを選べ」あるいは「どちらかを諦めろ」と、当事者たちに迫ります。どちらの言い分にも、背景に「私たちもそうしてきたのだから」という無言の説得が感じられ、私はだんだん怖くなってくるのです。
メディアでもSNSでも、時に家電や時短を話題の入り口にしつつ、子育ての敵は仕事、仕事の敵は子育てと、それぞれがそれぞれの敵を語ります。もちろん私たちの時間は有限ですから、何事も優先順位をつけ、取捨選択せざるをえない、のはよくわかります。ですが問題を考える前に、お互いを敵と睨みあう、二項対立の構図そのものが、悩める人へ否応なくしんどさをふりまいているようで、私はそこに食傷しているのです。
どうして二項対立にうんざりするか。だって子育てと仕事はそもそも、まったく違うものじゃないかと思うのです。子育てと仕事は、相手が子どもと大人。対峙する他者がちがうから、そこに適用される常識もちがうはずです。使う言語もちがうし、研ぎ澄ます五感もちがうから、おそらく働く脳の部位も異なるのではと思います。疲労の質もぜんぜんちがうでしょう。
つまり子育てと仕事は、すき焼きとしゃぶしゃぶの違いよりもっとちがう。風呂と電卓ほどちがう。子育てと仕事は、テニスとサッカーの違いよりずっとちがう。自転車と囲碁ほどちがうのです。なにもかもがちがう。なのに子育てと仕事はなぜか、みんなちがってみんないい、とはなりません。
どちらも満足に経験したわけでもない私が言うのも僭越ですが、そもそも子育てと仕事は比較が成立しないほどに、ぜんぜん違う人間の営みです。だから二項対立する子育てか仕事か論争を見ていると、だんだん私は、解剖台のミシンと傘が描かれた、シュルレアリスムの絵を眺めるような気持ちになってきます。ただしシュルレアリスムはまったくちがうモノが偶然出会う時の美しさを問う表現ですが、この場合はまったくちがうモノを対立させているわけです。対立が両立を阻むのは明らかでしょう。
そういえば昔の人類は「子育てと仕事なんてまったく別もん」として扱ってきたのかもしれません。だから子育てと仕事の両立をテーマにした古い書物も見当たらないのではないか。そんなことまで思えてきました。
だからといって「昔に戻れ」なんて、さすがの私も思いません。私たちは昔の人類ではないし、われわれはいつも圧倒的に時間が足らない。下手したら、生きるための金まで足らない社会に置かれそうになります。そこで「どうしてこうなった」を考えだすと、入り組んだ社会や政治の問題に立ちくらみしそうになりますが、ともかく幼子を抱えた大人はなんとかふんばり、やりくりしなければいけません。なかなかしんどい時代です。
ならばいっそ。ならばいっそですよ。心の上では「ぜんぶを仕事にしてしまう」のはどうでしょう、とも思うのです。子育てを仕事として同列に組み込む。つまりは相談者さんも奥さまも、どっちも仕事人です。あらゆる「やるべきこと」はシームレスに並べられ、ただただ効率とコストパフォーマンスを指標に、ふたりに(場合によっては夫婦以外のメンバーに)割り振られるのです。そしてとうぜん、ぜんぶが仕事なのですから、その対価も成果もチームで享受します。
わかっています。私だってわかっています。「子育ても仕事に」なんて、そういうドライさに徹することができれば、どんなに楽か。ここまで書いてきて私も、それができれば苦労はしないと、しみじみそう思います。打つ手はないのになんとかしなければならぬ。まさに子育てと仕事の両立は、その際たるものなのでしょう。結局私には、相談者さんと奥さまに「ごくろうさま」と声をかけるしかできないようです。
ただし、かろうじて光明があるとすれば、私たちの周囲にはたいていいつも「なんとかなった」人たちがいることかもしれません。子育てと仕事の両立は、打つ手がない問題です。ですが、打つ手はないけどなんとかなったと述懐できる問題でもあります。しんどい時でも、「私たちもそうしてきたのだから」と無言の圧をかけてくる顔も知らない先達のアドバイスをうまく避け、「なんとかなった」と朗らかな顔をしている身近な先輩を見ることはできます。
とはいえ、そういう人は具体的にどうしたか聞いても、「忙しすぎて覚えてない」と笑うんですけど。ただまぁ、打つ手はありません。
こんにちは、病理医ヤンデルです。いよぉーし、本日も粛々と悩みましょう。ええ、悩みます。きれいな回答は無理だなこりゃ。思いついたことからダーッと書きます。
最初に……あなたが一行目に用いていらっしゃる言葉、世の中でもかなり便利に使われている「両立」という言葉、これがよくないなーと思いますねえ。あーいやいや、文句言ってるわけじゃないです。なんでそんな言葉を使うんだ、っていう意味ではなくて、「言葉に呪われてるんじゃないかなあ、大変そうだなあ」って言いたい。
「両立」って言葉が私たちの生活をちょっと面倒にしてしまっているのではないかと感じる今日この頃です。
キャリアと家庭を両立、とか、仕事と子育てを両立、とか、みんな、日頃からあまり考えずに使ってしまっている言葉ですけれども、そんな、あのね、この話はね、両方いっぺんに立てられるほど簡単な案件じゃないんですよ。脊髄反射的に「両立」って言っちゃってるけれども。いやいや、そんな簡単じゃないんですって。ねえ。
「仕事」も「子育て」も、どちらも言ってみればお遍路をゆっくりゆっくりまわるみたいな行為でしょう。それだけに「かかりきり」になって一歩一歩進んでいったとしても、天候とか、ロープウェーの運行状況とか、クリームパンの奪い合いとか、いろいろままならないものに左右されて、予定通り次の札所に行けるかどうかは時の運みたいなところがあるわけです。「かかりきり」だったとしてもですよ。それがあなた、お遍路と番組の取れ高を両方なんとかしろ? どう考えても無理でしょう? なのに我々は人生で、「お遍路をまわって受験生の合格を祈願しつつ、おもしろいことも言え」みたいな無茶ブリをされるんですよね。
どだい、無茶なんですよ。
ところが、世の中に「両立」なんていう迷惑な言葉がありふれているせいで、なんとなく、「両方やってやれないことはないのかな?」みたいな気持ちになってしまうんですね。これはもう認知のゆがみを生み出す呪いの言葉です。
次に、「仕事」と「子育て」が、それぞれ1つの案件みたいな感覚でこの相談の文章を書かれてるような気がしますけれどもね、仕事って、じつは複数の案件を同時にやっていくことなんですよ。子育ても、なんと複数の案件を同時にやっていくことなんですよ。
わかります?
仕事をきちんとやろうと思ったら、例のいまいましい「両立」みたいなことを、毎日言われ続けることになります。そう思いませんか? あれをまとめとけ、こっちは会議しとけ、そっちは学んどけ、どこかでコミュニケーションしとけみたいなことばかりじゃないですか。基本マルチタスクでしょう。
子育ても同じで、「両立」「両立」の雨あられです。そう思いませんか? あそこを面倒みとけ、これを作っとけ、それは片付けとけ、どこかでコミュニケーションしとけみたいなのが延々と続くんですよ。めちゃくちゃマルチタスクです。
そして極めつけには、仕事も子育ても、基本的に「フルの休日」ってないんですよね。負荷の波はあるんだけど、それがゼロになるってことはない。
となるとね。仕事だけで両立、子育てだけで両立して、さらに仕事と子育てで両立って、あなたそりゃ、いくつ両があると思ってるんですか。よっ、千両役者。やかましいわ。
何が言いたいかっていうとですね、「仕事」と「子育て」と、二項を立てて両方なんとかしたい、みたいな前提に無理があるし、そもそも仕事だけやっていようが子育てだけやっていようが、「両立」みたいなものが求められる限り、人間はいつも、過剰なマルチタスク状況を強いられるんですよ。
どちらかだけであっても無理なのに。
そこで我々の「先輩方」はどうしてきたかっていうと……。
あそこで「両立」してるような方も、あっちで「専業」してるような方も。
まあ……小声で言いますが……みんな適度にサボってますよ。
仕事でやらなきゃいけないあれこれを、全部やってる人なんていません。なんでもこなしてすごい! みたいなバリキャリの先輩も、もちろん非常に高いレベルでいろいろこなしているのはその通りなのですが、どこかで必ず手を抜いています。仕事において絵は描かないとか。取引先との会話は減らすとか。そうじゃないと、千手観音でもない普通の人間は絶対に無理なんです。
で、家事や子育てについてもそれは全く同じで、じつは全員がほどよくさぼってます。子どもに対して完璧であろうとしたところで子ども以外の家族に対しては手を抜くことになるし、そもそも、「完璧な親」なんていませんよ。子に教えられることばかりですし。
そんなこと、ネットでも現実でもみんなが言ってますよ。サボりかたを覚えよう、みたいなね。
でも同じネットの中に、「両立」っていう言葉があるばっかりに、なんとなく、「仕事」と「子育て」はどっちもやってかないとダメなのかなー、許されないのかなーみたいに、圧迫されちゃうんですよね。
だからね、両立なんて言葉から自由になりましょう。
我々はどっちにしろ、仕事だけをしようが、子育てだけをしようが、マルチタスクにあわあわしながら、適度にあっちを立てたりこっちを立てたりを微調整しつづけて、それでなんとかやりくりしていくものです。だったら、たとえば、「仕事というマルチタスク+子育てというマルチタスク=仕事と子育てというマルチタスク」みたいにね、1+1=2ですけど、「たくさん+たくさん=たくさん」みたいに考えてね、はい、数学からも自由になりましょうね、いいですか、そんなまじめに考えてないで、思考も多少はサボったほうがいいですよ、でね、たくさんのできごとを簡単に「仕事 VS 家庭」みたいに切り分けるんじゃなくてね、家族みんなで協力しながら、「全部はむり!」っていう気持ちを共有してですね(これ大事)、その場その場で、今はこっちを大事にしようかな、今日は13番札所までとりあえず一緒にいこうかなという感じで、随時相談しながらやりくりしていくということでどうですか。マルチタスクにはマルチメンバーでマルっといくしかないんじゃないか。
ねえ。
それでもなお両立したいって言われたら、まあその、打つ手はないです。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
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第9回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
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入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆
父が67歳で定年、再雇用でまだまだ働くサラリーマンです。平日は仕事、土日はパチンコと忙しそうですが、母が仕事辞めない?ゆっくりしたら??と父に話します。ただ、父の生きがいは仕事であり、その他はオプションなので、やめた後の反動が気になります。私は仕事は続けてほしいと思うのです。なぜなら、生きがいだけでなく、熱意で生きるタイプなので。父は高卒で、学歴を忌み嫌っていて、子供は大学へ!と話し、私は大学に行けました。またマイホーム購入で67歳で一軒家をガッツリ買うと話しております。すごい父親をもったなーと誇らしく思います。母の意見もわかるし、父の性格もわかるので、悩ましいです。母や父にどんなアドバイスやコメントをすれば良いでしょうか。。
(PN:きむら さん)
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毎度お世話になっております。
これはですね、きむらさん、分身しましょう。一人でやることではないですね。なぜなら話を聞く相手がここには3人いるからです。なので3体になってください。きむらA、きむらB、きむらB’(ビーダッシュ)とお呼びします。
きむらAさんへ:
あなたはお母さん担当です。今回のお手紙で最初に、「背中にそっと手をあててお話をおうかがいしたい」と私が個人的に思ったのがお母さんなので、まあ全員にちゃんとお話は聞きたいんですけれども、やはりまあ筆頭はお母さんです。お母さんの「意見」はきむらさんご自身もよくおわかりだと思います。それは「仕事辞めない? ゆっくりしたら?」ということですよね。しかし、これは直感ですが、まだ十分にお母さん自体の「感情」を聞き取れていない気がします。「なぜお父さんに仕事を辞めてほしいのか、なぜゆっくりしてほしいのか」の部分を解像度5000倍くらいでクローズアップしましょう。ズームが甘いと「さみしいから」みたいな話で終わってしまいますけれど、それだと、いやいやまあ人間誰もがさみしいんでしょうがないよね、みたいな塩対応になってしまいがちでよくありません。そうではなくて、お母さんご本人の口から、「お父さんに仕事やめてほしいのはなぜ?」「お父さんが仕事やめてゆっくりするとなったら、どうしたい?」「お父さんが仕事やめない、けど、お母さんの言うこともまあわかるよって言ったとしたら、次に何を言いたい?」みたいに、お母さんが語りたいこと、あるいは、まだ語っていないこと、もっと言えば、言葉にできていない情動的な部分を言葉にするお手伝いまで含めて、しっかり、じっくり、余すところなく、いやまあこれはそもそも終わりもなく途方もないんですけれど、とにかくじっっっっっっっくり聞いてみましょう。そこを丁寧にやるというのがきむらAさん、あなたの役目です。
きむらBさんへ
あなたはお父さん担当です。お母さんから「仕事辞めない? のんびりしたら?」と言われているとき、お父さんはどういう感情でいらっしゃるのでしょうね。「いちいちうるせぇなあ」と思われているのか、「いつもそうだったけれど心配しすぎだ」なのか、「いや、大丈夫だ、もっともっと幸せにしてやる」なのか、可能性としてはいっぱいあるんですけれども、そこ、まだ見えていない話があるかもしれません。気丈に振る舞う裏に不安が控えていないでしょうか。なんとなく大丈夫そうな雰囲気をきむら(合体バージョン)さんの文面から読み取れますが、「お父さんは熱意があるから-大丈夫だろう」の、熱意がある、の部分と、大丈夫、の部分をすぐに繋いでしまうのは尚早かなとも思います。幸い、先ほどきむらAさんがお母さんとじっくりお話をされるとのことでしたので、それと同じくらい……とは言いませんが三分の一くらいの時間をお父さんにもぜひ。それがきむらBさん、あなたの役目です。
きむらB’さんへ
「そこはきむらCでいいだろ!」とツッコんでいただきたかったのですがツッコめましたか? さておき、あなたは「あなた自身にお話を聞く」役目です。67歳でまだまだ働いてこれから家を一軒! というエネルギッシュなお父さんと、それを心配そうに見つめながら控えめに自分の主張もなさっているお母さん、両者の間であなたはいったいどういう精神状況なのか。私はですね、個人的には、あなたも話を聞かれるべき存在ではないかなと思いました。仲の良さそうなご家庭で、「大学も出していただいて」、感謝こそあれ不満はないよ、というくらいの雰囲気を感じますけれども、お父さんとお母さんの微妙な差みたいなものを間に立って眺める人間には、死にゃあしねぇけどさ、ちょっとした「微細な引き裂かれ」がある気がするんですよね。いや、死にゃあしねぇんだけどさ。そういう引き裂かれ、もっと気軽に誰かに聞いてもらっていいと思います。死にゃあしねぇけどさ。
今回こうして、一切解決するつもりがない破天荒なお悩み相談企画にメールを送って頂いたのは大英断だったなと思います。お父さんやお母さんが送ってきたわけではなく、きむらさんがメールを送られてきたのですから、私はきむらさん自身のことが少し気になった、というわけです。そういう相談ムーブ、あなたはもっと頻繁になさっていいと思いますよ。もっとも、話し相手もそうそう潤沢に世に満ちあふれているわけではないので、困りますよね。ただこの度、機会あってあなたはすでにAとBとに分裂しておりますよね。だったら、Bさんの一部のエネルギーを借りるくらいの勢いで、「お父さんと向かい合うときのあなたの影」みたいな役割を引き受ける、B’さんにも登場して頂いたわけです。きむらB’さんは、あなた自身の話をもっとじっくり聞いてあげてください。
はい、今回のお悩みに関する私からの感想は以上です。全体的にもっと話をしましょう。「もっと話をする」は令和の流行語大賞にしてもいいくらいだな! と今の私は確信していますが、よく考えると、かつてとあるバラエティ番組が、局所的に流行語大賞にしてしまったセリフ、「腹を割って話そう」というのは、あれ……すばらしいですね……感動するな……。話をしてください。でもだからと言って基本的にはとっくに大人のお父さんととっくに大人のお母さん、最終的にはその二人の問題、というかコミュニケーションのきっかけがコトの本質なのであって、できればあなたは聞き役に徹して、今後は当事者であり続ける必要はないんじゃないかなーとも思いますので、だからひとまず現時点で打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさま、師走いかがお過ごしですか。私はダメです。年々しんどい。起こったことに対処する、頼まれたことをやるという、熱意も意識も低い仕事ルールを敷く私に、気力と体力の低下が追い打ちをかけます。増え続ける一方の頼まれごとに、私は疲弊を差し出すことでしか乗り切ることができません。ウンウン考え、ヨロヨロ動き、ヘトヘトになる一方です。
すでにヘトヘトな私ですから「67歳で定年、再雇用でまだまだ働く」という、相談者さんのお父さまには、素直に頭が下がります。老いてなお盛ん、老いても気力が漲り続ける境地とは、私にはちょっと想像がつきません。
少なくともサラリーマンという、雇用を条件に「させられる」種類の仕事において、自身の衰えを内なる熱意でもって補えるとは、私にはとても考えられないのです。だから相談者さんのお父さまも、あえて「今から一軒家を買う」と家族に宣言することで、内なる熱意を外部化し、半ば強制的に衰えの退路を断とうとされているのではないか。虚弱な私は、ついついいらぬ心配をしてしまいます。
ただし仕事に熱意も意識も低い私でも、意欲や体力の衰えに対する処方を、ひとつだけ知っています。それは習慣です。ルーティーンと言い換えてもいいでしょう。とにかく長年続けてきた自分なりの段取りや行為は、意外なほどに自身の衰えを補完します。長年の習慣といっても、ご立派なものではありません。そもそも雇われの身ゆえですから、サラリーマンの習慣なんて、自ら意識して作り上げたというより、出社時間や勤務地や組織によって半ば強いられた、受動的なルーティーンがほとんどでしょう。
しかし、その習慣は時間を経るほどに驚くべき強度を発揮します。出勤し、仕事をこなし、昼飯を食べ、帰路につく。そこで繰り返されるあらゆる行動や段取りは、自分への最適化を極めていきます。「いつどこでなにをする」が固定された生活は、多少の不調や衰えにビクともしません。それゆえ確立しきった習慣やルーティーンは、時に「生きがい」とすり替わるほどに、スムーズなリズムと強度を私たちの人生にもたらします。長らく同じところに勤めた経験のある人は、頷くところがあるのではないでしょうか。
そういう意味で、相談者さんのお父さまは「平日は仕事、土日はパチンコ」が極度に硬化したルーティーンと化しているのかもしれません。しかもお父さまは熱意をもって、さらにおそらくは学歴社会への反骨心をもって、仕事に邁進されてきた。お父さまは平日の仕事の中でも、高度に洗練された習慣を大小さまざまに確立されていたはずです。
もくもくバリバリと働いてこられたお父さまは懸命に生きる中で、だれにも邪魔できない繰り返しを作り上げた。しかしその繰り返しは繰り返されるうちに固くなるあまり、自身も手が出せないような、不可侵のものになってしまった。だから定年後も「それをやめる」という選択が消えてしまった可能性は、じゅうぶんある気がします。「ゆっくりしたら?」とおっしゃる相談者さんのお母さまには、それをわかっていらっしゃる気配がします。
そのようなケースは、なにも珍しいことではありません。あなたの会社でもあなたの身内でも、習慣の強度ゆえに縛られ、続ける以外に選択肢を持たない人はたくさんいるはずです。人でなくとも「存続させること」が目的になってしまったルールや組織など、私が働く会社の中でさえ枚挙に暇がありません。大げさにいえば、人あるいは組織における習慣の強度を拠り所に社会をゴリゴリ発展させてきた日本は、その恩恵の反動として「変化がしにくい社会的習慣」を作り上げてしまったのでは、と思う時があります。
もちろん強度ある習慣も、それぞれ個人のレベルにおいては、なんら非難されるものではありません。むしろ尊いものです。老齢の職人の所作が無駄なく美しいように、熟年サラリーマンの仕事には一定の説得力があります。それはそれぞれが築き上げた歴史というべきものであり、だれかが否定できるものではありません。おそらく、子どもであっても、親の職業上の固い習慣を否定する余地はないでしょう。そこは人間の尊厳に関わることですから。
つまりは、長年続けた仕事をやめさせることは、だれにもできないのです。それどころか長年の習慣を切断するのは、本人にもできない場合がある。そう考えると、家族には労わり応援する以外にできることはないのでしょう。おそらく私たちは、ルーティーン化した仕事を、雇用が終わるとか体を壊すといった、第三者的無情な事情でしか終わらすことはできない。なかなかどうして、悲しい気持ちになってきます。
働きたいという意思に、打つ手はありません。どれだけ親を気遣おうとも、習慣が習慣を保持しようとする慣性の法則に、子は打つ手はありません。私も親がそういう状況に直面する年頃です。私も親に「仕事をやめろ」とはとうてい言えそうにないから、ただまぁ打つ手はありません。
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山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。
シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第8回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
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☆今回のお悩み☆シャープさん、ヤンデル先生、こんにちは♪お2人のこのコーナーがとっても好きです♪私も何かお2人からのお言葉が欲しい!と、意気込んで、Googleフォームを開き、回答を入力の文字を、何度見送ったことか☺︎肝心のお悩みが、うまいこと出てこないのですよ。せっかくのチャンスなのですから、小洒落た感じのお言葉が欲しい♪そんな欲にまみれた想いでは、採用されないですね。ここは正直に、1番聞いてみたい事を書くしかない!やっとここまできました☺︎ただ、まぁ、打つ手はないです。わかってます。もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか。なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡(PN. ぢぢ@札幌さん)
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どうで荘にご入居のみなさん、ごきげんよう。@SHARP_JP の山本です。聞くだけ聞いて解決しないお悩み相談は毎月連載ですので、これが載るのは11月。ボーナスとかクリスマスとか、なにかとみなさまにモノを買わせる12月に向け、私が勝手に忙しくなる月です。無粋なごあいさつでした。
さて今回はポエティックな相談です。あるいは人々が口ずさむポピュラーソングのフレーズのような相談だと思いました。
「もう会えない人に、会いたくなった時、どうしたらよいのでしょうか」
切なく、美しいですよね。こういう美しいフレーズに出会うと、それに言葉を続ける役割の私は、どうしても尻込みしてしまいます。だってもう、完結しているのですから。このお悩みはもう完結している。それゆえ美しいフレーズだと、私は感じたのだと思います。
尻込みする私は、結論を急ぎます。
会えない人に会いたくなった時、われわれはもう、その人と会っているのです。会えなくなった人とはすなわち、記憶です。あなたは「どうしたらよいのでしょうか」と私に送信した時、会えなくなった人にすでに会っていた。あなたは記憶を手繰りよせることで、かろうじて会えることを知っていた。だからその問いは、あらかじめ完結していたのです。
私たちは、会えなくなった人を思い出すことで、何度でも会う。いや逆かもしれません。会いたいから、何度でも思い出すのかもしれません。たとえ会える人でも、思い出さなければ会う行動を起こすこともありません。実際に会っても、思い出すことがなければ、それはほぼ他人です。人間は介在する記憶さえあれば、会うのも会わないのもさほど違いがないのではないか。そんな極端なことすら、私は考えてしまいます。
もちろんわかっています。思い出すことで会うたびに、もうその人がいないという事実を突きつけられることを。私たちは思い出すことで何度だって会えるけど、もうこれ以上思い出が増えることがないこともまた、同時に思い知るわけです。私たちは記憶で会う能力を、小さな痛みと引き換えに獲得したのかもしれません。
会えなくなった理由はなんであれ、私たちには、会えなくなった事実に打つ手はないです。悲しいほどに、ないです。それでもやっぱり記憶を縁にその人と会おうとする、相談者さんの日々が穏やかでありますように。そう締めざるをえないほど、私にはただまぁ、打つ手はないです。
こんにちは。
冒頭からいきなり挨拶もそこそこに本質的なことを申し上げますと、今回、ぢぢさんからいただいたご相談は、今までの中で一番難しいです。なんとか「回答」しようと思い、何度も何度も書き始めてはみたのですが、どうにもうまくいきません。
悩んで、キーボードに両手を置いてバカスカ叩き、しっくりこなくて、右手の中指をおもむろにバックスペースに伸ばして全部消す、あるいは左手でCtrl+Aと押して全選択して、左手でdeleteするというのを、もう4回ほどくり返しています。
本来、そこまで苦しんで書くようなコーナーではないはずなのですが。
最後、オチの部分を定型文の「打つ手はないです。」で締めるという本連載のシステムは、書く方としてはとても楽です。なぜなら、これによって、悩み相談系コンテンツの一番難しい部分を回避できるからです。結論が「打つ手はない」ということはすなわち、「解決」しなくていいということですからね。他人の問題に解決策を提示するほど難しいことはないですから。
私どもは、お題を見て、思ったことをただ書けばいい。それだけでいい。
疑問や懸念に本気で向き合うことなく、肩肘を張ることなく、ぢぢさんの書かれた文章から着想したイメージを随意に記していけばいい。シャープさんとはこの企画に関しては一回も相談をしたことがないので、彼がどういうやりかたで書いているのかはわからないですけれども、少なくとも私はこれまで「随想形式」で書いてきました。
しかし、今回は、どうもそれがうまく行きません。
理由はおそらく、ぢぢさんの文章全体から、強く、ねばっこく、絡まり合って、へばりつくような、強烈な苦しみのようなものが感じ取れるからです。それをぢぢさんは半分意図的になさっているようで、でも一部は無意識なのかなとも思います。苦しみの一部はどうやら自罰的にご自身に向いているようで、かつ、どうやら私どものほうにも向けられている。
今回のご相談内容は、段違いに重いです。こんなおちゃらけコーナーに送ってくる類いのものではない、まがまがしいオーラのようなものが、文章の奥からビンビン伝わってくる。
「これに、いつものように答えを用意することなく、シレッと随筆を書いていいのだろうか?」というとまどいが、私のキータッチを途中で止めてしまうのです。
ぢぢさんは、死別か離別かわからないですが、とにかく何らかの別れを経験されたのだということはわかります。そこは「誰もがわかるように書いている」。
しかし、その別れについて、私どもに「詳しいことを知らせる気はない」という意思もまた伝わります。本質の部分をホワイトノイズの中に埋もれさせて、このコーナーを読む人に「あまり心を探られないようにしたい」という、仮にも「相談企画」であるはずの本コーナーに対する本末転倒な心意気を同時に感じとることができます。
「小洒落た感じのお言葉が欲しい♪ そんな欲にまみれた思いでは採用されないですね」
いえ、そこまで厳密に相手を選別するような企画ではないんです、ここは。
ていうか大抵の質問者は「まあちょっとなんか小洒落たこと言ってくれや」くらいの軽い気持ちで投稿してくださってきたと思います。
「欲にまみれた」なんていう言葉をここで目にすると、ぎょっとする。コーナーの空気に合っていない。
「なるべく、笑って生きたいなと思ってるので、そんな時は、どうでしょうさんの力をお借りしてるのですがね♡」
「ですがね」が引き受ける、あるいは逆転させるべきものが、明確には書かれていませんが、普通に考えれば、この「ですがね」からは、「今は笑って生きられない」という意味を読み取れます。テンションが激重です。ハートが空虚です。
「打つ手はないです。わかってます。」
それは私どもの伝家の宝刀、あるいはエクスキューズ(言い訳)です。先に使われてしまいました。ご丁寧に、「わかってます」で無効化までして。
開示と秘匿とを同時に行っているような。軽量化しながら重装備しているかのような。
ここで唐突にごく個人的なことを申し上げることになり、大変恐縮ではありますけれども、「離別の悩み」は、私自身、背骨の辺りに一本貫通している、私の性格や行動に大きく影響を与え続けている、私の人生のテーマそのものと言って差し支えないものです。
この悩みに関しては私自身、誰とも共有したいとは思わないし、誰かが解決できるとも思っていないのですが、ぶっちゃけ、まれに、誰かこの悩みを引き受けてくれないかな、でも絶対に全部はわかってくれないだろうけどニュアンスだけでもわかったふりをしてくれないものかなと、何度も何度も何度も何度も考えて、でもやっぱりやめてきた、という歴史があるので、その……ぢぢさんがこの七面倒くさい形式の文章を書いた理由も、全部わかるなんて怖ろしいことは絶対に言いませんが50%くらいはわかります。「誰にもわかるわけないんだけど多少は他人に伝えておかないと苦しんでいる甲斐がない」みたいな感覚が、半分弱はわかる。
ぢぢさんが今回の相談文に書かれた言葉は、一文ずつ切り取れば明るくも読めますが、しかし総体として伝わってくるニュアンスは暗黒です。音符も絵文字もこれみよがしに「明るさを演じている」ように見えるし、「これだけやってあげれば、明るさを演じている私に気づくでしょう?」という、探偵が気づきそうなヒントをあえて現場に残す怪盗のような挙動にも見える。
あるいはぢぢさんは日常生活では、カムフラージュに成功しすぎてしまっているのかもしれませんね。周りに「明るく振る舞っている元気な人だ」と思われているのかもしれない。だから、相談文では、我々に「本当のつらさが伝わらない可能性」をおそれて、このようなある意味わかりやすい重さを配備した文章を書かれたのかもしれない。
そしてぢぢさんは今、あらゆる他人の言葉を、あまり自分の中に入れる気がないのではないか、とも感じます。誰に何を言われても私はどうしようもないのだということを、ご自身の中で何度も咀嚼して、あきらめるまでの時間を稼いでいる。だからこんな文章を私どもに送ることを思い付かれたのではないか。
こうしてひたすら読みとろうと試みていくと……そのいくつかはピント外れだったかもしれませんが……、しみじみ感じます。
打つ手がないです。
今回ばかりは全く打つ手はありません。
本当にそうだろうか?
はい、そうです。本当に打つ手はないです。
永遠の離別に打つ手はないのです。
ただし、待つ手はあるかもしれない。
「打つ手はないです」という言葉がゲシュタルト崩壊するくらい、何度も何度も入力していくと、「手を打たずに待っている棋士の姿」がふと思い浮かびました。長考をする。王も飛車も歩も動かさず、ただ待つ。なんらかの手を指したら局面が動いてしまって、それはあるいは、自分を敗北に導く一手になるかもしれないのだけれど、手を打たずに待てば、その将棋はいつまでも終わらないのです。
だから待てばいいのかなと思う。
将棋だと制限時間があるから許されないやり方ですけれどね。人生ならば待てます。
……まあ人生にも制限時間はあるんですけれども、ここは考えようでして、「永遠の離別」という言葉があるように、別れに伴う時間というのは基本的に無限に引き延ばされるんですよね。その無限を生きるのは本当に辛いことですので、人はしばしば耐えられないほどの辛さを感じます。しかし、無限に続くかのような時を過ごすというのなら、心象風景的には制限時間はなくなっていると言い換えることができます。となれば、いっそ、制限時間のない将棋みたいな気持ちで、いつまでも待つ。そういうことは可能なのではないでしょうか。
待つ間には本を読みましょう。永遠の離別を永遠に待つということは、理論上、永遠に本が読めます。
先日、エリザベス女王を主人公にしたフィクションを読みました。『やんごとなき読者』という本です。白水社から出ています。エリザベス女王は、多くの方よりも長生きしましたので、じつはとんでもない量の別れを経験している方です。もっとも、この本は女王陛下の別れの苦しみを直接書いたものではないですが、手を打たずに待つ女王の姿と、あるタイミングで手を打つ女王の姿とが両方描かれており、テーマは「限りある人生における、自分で選べない別れと自分で選べる別れ」ではないかと思います。湿っぽい本ではなく、ウィットに満ちあふれています。よかったらどうぞ。
あと、少し前になりますけれども、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』という本を読みました。この本の主人公はロボットです。人より長く生きます。この「人より長く生きるモチーフ」というのを私はとても好んで、しょっちゅう読んでいます。よかったらどうぞ。
そう言えば20年以上も前になりますが、ライトノベルで『狼と香辛料』というシリーズがありまして、これ、基本的には経済ラノベでして、かなりよくできているのでいちいち感心するのですけれども、主人公は狼娘で、もちろん人より長く生きます。よかったらどうぞ。
この際ですから申し上げますと、『薄暮のクロニクル』というマンガがありまして、これは機動警察パトレイバーを書いたゆうきまさみさんの著作なのですけれども、主人公は人なんですがもう一人の主人公が吸血鬼で、もちろん人より長く生きますがよかったらどうぞ。
あとは『ダンジョン飯』も……いや、これはあまり語らない方がいいかもしれませんが、よかったらどうぞ。既刊12巻で現時点では完結していませんが、なあに、永遠に待っているうちに必ず完結するはずです。
以上、本日は胸を張って申し上げます。かれこれ8本書いて消してこれが9本目になりますが結論ははっきりしています。永遠の離別に、「打つ」手はないです。
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