嬉野です。日誌でございます。例によって長いですからお暇な方だけお読みください。
8年ほど前に目白駅前に気の利いたコーヒー屋がありまして。そこは当時としては珍しく浅煎り系のコーヒーを飲ませるので、わざわざ目白で降りてその店に立ち寄ることもあったんです。店構えは、最近チラホラ目にする浅煎りコーヒーの個人店にありがちな、とんがったオシャレな感じではなくもっと規模の大きなチェーン展開してるみたいなラフな構えだったんですが、チェーン店というには目白店の他には1店舗しかなくて、その店舗も千葉だったんです。おそらく千葉のお店が東京進出を図って目白に2号店を出店したのかもしれませんね。
とにかくコーヒーも甘いものも口にすると気が利いてて美味しいので重宝してたんです。
まぁ、美味いと思う感覚は不思議なもので、ついひと口に「美味しいもの」とか言っちゃいますけど、美味しいというのは、意外に調理の過程で細々としたところが抜かりなくキチンと手当されているから、それが味と食感にしっかり反映されて、口にしたとき、なんか、何がどう好ましいのか分からないながら他の雑多なお店で口に入れるものとは明らかに違っていることだけはちゃんと分かって、すごく印象に残るんですよね。
そう、最近食べた藤村さんの白いトンカツもまさにその工程をしっかり経ているからこそ美味かったんでしょうね。
そのコーヒー店のコーヒーもフードも口の中で丁寧な抜かりなさが功を奏して私の味覚と食感は「いい感じ」と受け取っていたんです。その受け取りは万人に備わった感受性ですからどんな人にも等しくある能力で、そこを良い具合に刺激してもらえると、普段の雑多にして省かれまくった工程の果てに出てくる食生活ではけして刺激されることのなかった長いこと暇してた神経が思いがけず触られるもんだから喜ぶんでしょうね、「やったぞー」的に喜んで、なんか電流的なものを身体中に流すんでしょうね、それだもんで味わう私は、「なんかすごく美味しい」と目が覚めるような思いにとらわれてしまう。そういう仕組みなんでしょう。
でも、その目白駅前のお店もそんな感じで良い店だったんですけど、時代のちょっと先を行っちゃってたのか、当時は浅煎りのコーヒーは今ほど求められていなかったので、ある日、「近日閉店」と告知が張り出されてしまったのです。
ちゃんとしたお店だったのに。まだまだ浅煎りコーヒーが必要とされてなかった時代だったから、経営がうまくいかなかったんでしょうかね。今なら絶対に東京あたりにあれば広く利用されたはずだったんです。難しいものですよね〜行いが間違っていなくても早すぎたばかりに受け入れてもらえないってこと、あるんですね。今はもう千葉の1店舗だけになってしまったようです。
で、私が気になったのは。その、美味しい店だった目白駅前のコーヒー店が、撤退が決まった途端、全ての質が落ちたことだったんです。
ある日、閉店のことも知らず、ちょっと久々にその店に入ってコーヒーを注文して、飲んで、甘いものを食べたんですけど。
私としては、いつもと同じことをしてるのに、「なんか、いつもと違うよなぁ」とどこか違和感を感じて落ち着かないんです。そういえばお店のスタッフの接客の感じから、今飲んだコーヒーの味から、何がどう変わったか、すぐにはハッキリと分からなかったんですけど、なんかいろんなところで違和感を感じてて。そしたら、目に入るお店のいろんな細々としたところから、なるほど愛が失われていることを発見し始めたんです。
まず、客席のテーブルの上に配置された紙ナプキンがスカスカになってるとか、逆に厚すぎる束を捩じ込んでお客が引っ張って散乱しちゃったままにしてるとか。どのスタッフも客をそっちのけでだべってる方に重点を置いちゃっててお店から好ましい緊張感が失われているとか。
おそらく、閉店が決まって店長からやる気が抜けてしまったのか。それとも意欲的だった店長が、上とぶつかって何らかの理由で飛ばされてしまい、その後釜に他所から店じまいのためだけに新店長が赴任してきたから愛を失ってしまったのか。何にしても責任者からやる気がなくなったことで、スタッフにもそれが伝染して全員の気持ちがこのお店から離れてしまったような、実に残念極まりないありさまで、その愛の喪失がここで出すコーヒーやらフードの味やらにもダレた感じを伴って影響しだしてしまってる。
私はあのとき強く思いました。やっぱり「大事にする気持ち」は忘れてはならないんだわと。
誰かが一生懸命大事にしているかぎり、やっぱり他の人も大事にしてくれるものなんですよね。愛は伝染するんです。でも、同じように愛の喪失もまた容易に伝染してしまい、あっという間に全員の心が離れてしまう。その浸透する速度のものすごい速さ。まことに恐ろしいことです。
このように世の流れというものも、ある日を境に急激に変わってしまいますから、この国がこの先どこへ行くのか、私にはもうよくわからないんですけど、でも、だからこそこれまで自分が大事にしてきたものは、これからの世間の流れに関わらず、変わることなく大事にしていく方が、結果的に、自分の人生もきっと得をすることになるに違いないなと、感覚的にですが私は思うのです。
さて、明日は埼玉県熊谷市の八木橋百貨店で14:30から講談師玉田玉山を迎え、お馴染みのどうでしょう講談を聴く会が催されます。どうぞ、多数お越しください。玉田玉山の愛に満ち溢れた水曜どうでしょう講談は生で聴くとその迫力が違います。それではみなさん、明日、八木橋百貨店でお会いいたしましょう〜〜!
ということで、昨日の夜、わたくし、なんだかえらい疲れてまして。で、ひと晩ぐっすり寝て、お昼頃起き出して午後に川崎から横浜に出て相鉄線で大和まで繰り出して、大和の駅近にあるストーリーボックスさんという珈琲屋さんで2、3杯美味いコーヒーを飲みましたら、テキメンに元気になりました(^^)ケニアのホットと、コールドブリューと、どっちも美味かった。ご興味のある方はぜひ行ってあげてくださいませ〜〜愛あるコーヒー屋さんですから〜〜。
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☆今回のお悩み☆
会話をうまく続かせることができません。特に初対面の人ですが、仕事関係、プライベート、性別、年齢問わず、話題が次から次へと出るようになるといいなぁ、と思っています。
『水曜どうでしょう』やYouTube等での藤村さん・嬉野さんを見てると、どんな相手でも会話が途絶えることがなくてすごいなぁ~、と思います。 何かよいアドバイスはありませんか?
(PN:t-aoao@川崎)
どうで荘にご入居のみなさま、いかがお過ごしですか。@SHARP_JP の山本です。さて今回は、私もその答えが切実に知りたいお悩みです。私もなかなかどうして、口下手な人間です。特に初対面の相手となると、いっそう「会話を続けること」自体が目的化してしまい、焦ったり、よくわからないことを言ったりと、不審なムーブをとってしまいがち。人との会話が怖い、とまでは言いませんが、会話が負担となる場面は多々あります。なので、そもそも自分が知りたい回答を、はたして自分でひねり出すことができるのか、はなはだ難儀な気持ちになりながら、進めたいと思います。
いま私は前文で「進めたいと思います」と書きました。おそらく私はここから先、つらつらと話題を提示しつつ、途絶えることなく文章を書くことができます。できます、というと正確でないかもしれません。今この瞬間はまだできていないけれど、数瞬後にはできているという確信があります。少なくとも私は、書くことにおいては、相談者さんのようなお悩みを抱くことはありません。書くという行為に限って、私は「うまく続かせることができない」という心配を回避できています(もちろんそうやって書かれた文章がおもしろいかどうかはまた別の問題ですが)
なぜ私が書くことにおいて、うまく続けられないという不安から自由であるかといえば、それはもう場数の問題といえるでしょう。なぜか私は、書くことが大きなウェイトを占める仕事に就き、書いたものを発信するという職務を長らく続けています。自慢する気持ちはありませんが、結果として私は、一般的な人より膨大な量を書き、それを世に放ってきました。その経験が私から、書くこと(そしてそれが読まれること)への苦手意識を取り去ってくれたのだと思います。
と、ここまでつらつら書き進めました。続けましょう。
では私はなぜ、書き続けるのは平気なのに、おしゃべりを続ける行為に苦手意識を抱くのでしょうか。たぶんそこには、書くこととしゃべることの本質的な違いが横たわっているのではないか、と思っています。
少々乱暴に言いますが、おしゃべりが他者との会話であることに対して、書くことは自分との対話です。たとえ書かれたものが、最終的に読まれることで他者とコミュニケーションを図るものだとしても、書いている間は自分との対話によってしか、書くことを進めることができません。冒頭で私が「今この瞬間はまだできていないけど、数瞬後にはできているという確信」と述べたのは、私は私と一文ごとに対話して、次に自分がなにを言うのかを発見する連続こそが書くことではないか、と考えているからです。
私が私と対話すること。それが書くための動力です。翻って会話とは、他者を相手におしゃべりすることです。仕事での初対面なんか、名刺くらいしか寄る辺のない他者でしょう。対話の相手は、勝手知ったる私の中の私。会話の相手は、私の外にあるむき出しの他者。どうやら私の苦手意識には、そういう対話と会話のちがいに関係がありそうな気がしてきました。
私もそこそこ年をとりました。職歴も口下手歴もそこそこ長くなりました。おそらく私は「書ける口下手」という微妙なポジションで、ベテランになりつつあります。そしてベテランゆえに私は、対話と会話を分けるものに、おおよその見当がつくようになりました。対話と会話を分けるもの。それは「たわいのなさ」と「段取り」だと思うのです。
暑いね。暑いですね。どこ行くの。ちょっとそこまで。特に目的もなく、なんとなく交わされるやりとり。私たちの日常は、すべて「意味」が付随する行為だけでできているわけではありません。意味のない行為があるからこそ、私たちは息がつまることなく、リラックスして生きることができます。そしてそういう、特に意味を持たない「たわいのなさ」を交換する行為が、会話にも含まれています。終わりも道筋も見通すことなく、ダラダラと友だちと続けるおしゃべりが楽しいのは、おそらく「たわいのなさ」があって「段取り」がないからではないか、と私は思うわけです。
一方対話はそうはいきません。対話は文字通り、相手と面と向かって行われます。上司と部下が机を挟んで話し合うシーンが典型でしょう。そこでは報告あるいは説得、時には叱責が行われます。対話とは、なんらかの目的に向かって双方が話し合ったり、あるいはこの場の意味を両者で共有するためにおしゃべりが進められます。揉めている人同士が話し合うことを会話と呼ばないように、対話には「たわいのなさ」はなく、ひたすら目的に向かうための「段取り」だけがある、とも言えるのではないでしょうか。
そう考えて行くと、私が会話より対話の方に苦手意識を感じないことも、あながち無理もない気がしてきます。私はあくまで仕事や職務的な要請から、書くこと(書き続けること)を、自身との対話を通して追求してきました。仕事で書くのだから、目的があり、段取りが存在します。そうやって私は、とことん合目的化した人間になってしまった。そして会話にも段取りを持ち込もうとするようになった。会話に段取りを持ちこむような人間の話に、たわいもなさが存在するはずもありません。こうして会話が苦手な私ができあがった、そういう風に思えてきます。なんだか切なくなってきました。
さてここで私は、ひとつ恐ろしいことに気づきます。藤村さんと嬉野さんのことです。あの方たちはなにをやってきたか。よくよく思い返せばあの方々は、どうでしょうで、会話のおもしろさをわれわれに見せ続けたのではなかったか。遠慮のいらない男4人が繰り広げる会話には、たしかに「たわいのなさ」があふれ、「段取りのなさ」の魅力に満ちていました。そしてわれわれは、あの人たちの会話を聞く快楽を知ってしまった。だからあのおふたりに、そもそも会話で勝てるわけがないのです。ひとたびあの方たちがしゃべれば、私たちはただ、耳を傾けざるを得ないのです。ただまぁ、打つ手はないです。
(追伸)
「打つ手はないです」で終わるという縛りが設けられたコラムですから、追伸が禁じ手であることは重々承知の上で、今回はどうかご容赦を。実は今回の相談者さんに、うってつけの書籍があります。田中泰延さんの『会って、話すこと。』という本です。目から鱗とはちがいますが、読めばおそらく気持ちが楽になること請け合いですので、ご一読をおすすめします。
毎月のお悩みへの回答はおひとりは全文公開。もうおひとりは「どうで荘」内のみでの掲載です。「どうで荘」は特に意味なく初月無料中!
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(43)
好きなどうでしょうはユーコンです。
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☆今回のお悩み☆
物心ついた時からこうでした。
悩みというより、不思議に思っていることがあります。
幼稚園に行かず、小学校に上がるまで自宅でずっと過した自分ですが、 誰に教えられるわけでもないのに腐っていました。 腐っているという表現はもっともっと大きくなってから意味を知っ たのですが
男女の普通のロマンスの数倍、男同志のロマンスに興味を惹かれてしまう体質です。 誰からも教えられていないのに、変換する脳が備わっていて、 しかもそれがあまり大っぴらにしてはいけないということを幼児に して知っていてこっそり、こうであったらばな、 あれはこういうことであったのであろうなどと、 自らの妄想の世界に一人でいるしかありませんでした。
そして、小さいころあんなに「どうしてこうなったのだ」と悩んでいたのに、長じてみると、 こんなに同じことを考えている人が多くて、何でもないのだ。 それもまた解せぬ。
どうしてこういう芽が種もなく生えてくるのでしょうか?なんの役に立つのでしょうか?男の人にもあるのでしょうか。 (PN:のりぞう)
どうで荘にご入居のみなさま、お元気ですか。@SHARP_JP の山本です。今年はさんざんやばいぞやばいぞと触れ回っていたせいか、夏に身構えるあまり、暑さにどうにか対処できている気がします。信じられないほど世の中が目まぐるし過ぎて、暑さへ注意が向いていないだけかもしれませんが。
さて、今回のお悩みです。お悩みというか、一種のカミングアウトと言えるのかもしれません。物心つく前から腐っていたという、相談者さんの告白です。
物心つく前から腐っていた。まるで意思を宿すことになったゾンビを描く、実験的なゾンビ映画がはじまりそうなモノローグに思えてきますが、そうではありません。腐るとはこの場合、有機物の腐敗を指すわけではありません。ニンゲンが腐るという意味ではゾンビと似ているのかもしれませんが、ここで腐るのは肉体ではなく、どちらかというとニンゲンの脳です。さいきん認知が進んだとはいえ、腐という文字を見て、意味の第一候補にBLが挙がる人はまだまだ少ないのではないでしょうか。BLのBに属し、Lを投影される男性ならなおさらかと思います。
しかし私は違いました。お悩みの文章に忽然と現れる「誰に教えられるわけでもないのに腐っていました」を一瞥してすぐ、これはBLの話だなと理解しました。申し遅れましたが、私はBL方面に話がはやい男性なのです。
なぜ私がBLに話がはやい一般男性かというと、自分がBLの素材としてきわめて親和性の高いマンガの主人公となり、BLを主とする出版社から書籍化されるという、そうとう粘度と難度の高い経験をしたからですが、長くなるので割愛します。気になる人は「シャープさんとタニタくん」で検索してみてください。いまでも書籍は買えると思います。
とにかく私がその時に理解したのは、BLとか腐女子と称する人たちが愛好し志向する目的とは、自身の性的嗜好を満たすのではなく、意識や認識のレイヤーを各人が増やそうとする行為にほかならない、というものでした。言い換えると、日常を取り巻く2つの事物の間にLOVEのフラグやサインをめざとく検知し、あらゆる事象に見えない物語を見出す力、とでも言えるでしょうか。つまり腐ったと自称される人とは、五感による世界の認識に腐という第六感を付加することで、物事の背景と奥行きを常人の何倍ものパワーで構築できる能力者なのです。
そして「腐」がそのような異能を指すのであれば、「誰からも教えられていないのに変換する脳が備わっていた」という相談者さんの述懐も、あながちないとも言えない気がしてきます。腐とはそもそも、人間が先天的に獲得する能力なのかもしれません。幼い子が石や木の枝といった、抽象性の高いモノでごっこ遊びに耽る様子を見ても、人間はそうとう早い段階から事物に物語を見出す能力が備わっているのではないかと、私は思います。
しかしここで同時に素朴な疑問も生じます。相談者さんはこうも続けるのです。「長じてみると、こんなに同じことを考えている人が多くて、何でもないのだ」ということがわかった、と。実は同じような能力者がこれほどまでにたくさん存在することを、大人になって知ったわけです。どれほど多いかというと、私が主人公となるマンガが出版社から書籍化され、それが書店で販売されるほど、です。つまり産業と呼べるレベルで、需要と供給や雇用の仕組みが社会にできあがり、文化と呼べる時間をかけ、歴史や作品が豊穣に積み上げられてきたわけです。
そう考えていくと、腐の能力を天与の才としてだけ語ることもまた、そうとう乱暴であると思うのです。腐は決して先天的なものだけではない。だれかから受け継がれ、育てられる能力という側面もあるはず。だから私はここで、ひとつの仮説を持つにいたります。
相談者さんのご親族、たとえばお母様が腐の者であった可能性はありませんか。物心がつく前から腐っていたとおっしゃる相談者さんは、物心がつく前から腐の指南を受けられていたのではないですか。私は相談者さんが腐の帝王学を修めた方ではないかとにらんでいます。折しも私は知っています。古の時代より腐を極めたベテランの方は、腐ェニックスと称されることを。もし可能であるなら、お母様と腐に関して、腹を割ってお話をされるとよいのではないでしょうか。ただまぁ、打つ手はありません。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
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