シャープさんとヤンデル先生の相談室
〜ただまぁ、打つ手はないです〜
第13回
「公式」の先駆・シャープさんと、つぶやく病理医・ヤンデル先生が!
悩みを聞くだけ聞いて解決しない相談室を架空のアパート「どうで荘」で開設。
入居者からの「相談」に、各自の持ち場から答えていただきます。
お悩みはこちらからお寄せください
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☆今回のお悩み☆
10代のころから自己肯定感が低く、ずっとこんな奴は神様が長生きさせないだろうと思ってました。
が、なんとかかんとか45歳の今まで生きて、会社員、妻、小学生の母親、どれも中途半端にやり過ごしております。
先日ショックを受けたのは、弱者として振る舞うのはそれ自体が他者へのマウントと言っていたか、もっと別の言葉だったか、40過ぎて記憶もすぐに曖昧になるのですが、要は高齢の方の病気自慢のようなことはそれはそれで人のことを下に見ているというようなツイートを見てしまい、
ああそうか、自分なんてダメなんです、って言うのは、重責から逃げてるというだけじゃなくて、威張り散らしてる人と変わらない行為なのかと、そのことにハッと気づかされたことでした。
でもそこそこ身体は丈夫、ごく中流な私のような人間が、子供から見て元気で明るいお母さんでいたい、自己肯定感を上げたい、ただ長年のクセのようなものでなかなか自分が好きになれず、それゆえ必要以上に腰が低くなったり、逆にどうしてよいかわからず不遜になったり、はたまたそういったことを悔んだりすることをやめるにはどうしたらよいのでしょうか?
私の自信がないことで得する人なんて誰もいないのは分かっていて、母として、仕事のリーダーとしてハツラツとしたい。
けど鏡を見て「あなたのことが大好きですよ」などという自己暗示をかけても大して変わらない。
自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまう。
そのことをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりするのは、人を下に見るいけないことなのでしょうか?
打つ手はなくても.何かよい視点を教えていただけたら幸いです。(PN:なみ)
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回答:
なみさん、こんにちは。最初に申し上げておきますと、べつにそれ(必要以上に腰が低くなったり、逆にどうしてよいかわからず不遜になったり、はたまたそういったことを悔んだりすること)をその都度やめなくていいと思います。あるいはそれ(自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまい、それをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりする、すなわち人を下に見るといういけないこと)もその都度やめなくていいと思います。
ただ、「やめなくていいです」と私が言ったところで、あなたがすぐに納得してくださって、「ああ! やめなくていいのか! よかった~解決~」となるだろうとは、あんまり……というか全く思っていません。
というわけで、後ほど念押しすることにもなるでしょうが、オチを最初に書いておきますと打つ手は特にないですし、何かの手を打つ意味もないと思いました。もっとも、意味がないことを延々とし続けることが人生で、私の人生も間違いなく意味がないことのくり返しですので、打つ手がないからといって本当に何も手を打たないかは別ですけれども、それはそれ、ここであなたに対して申し上げることではなく、自分でわかっていればいいことです。
なのでここからは、なみさんに対してではなく、世に満ちあふれる「自己肯定感を上げるためにはどうしたらよいか」みたいなことを無芸に書き散らしたツイート、書籍、セミナー、つまりは害虫、もしくは病原体、というか犯罪シンジケートのたぐいを本気で蔑んで呪って祓う文章をダラダラ書こうと思います。つまりここからの文章は、なみさんに対してのお悩み相談にはなっていません、すみません、そちらはやはりまあその打つ手がないです。私が本日こう……ビシッと申し上げておきたいのは、なみさんを含めた多くの人びとを悩ませ続けている、「自己肯定感という言葉で商売をしているバカ者ども」全員に対する処刑宣言のようなものです。
や、じつはずっとどこかで書く機会をうかがっていたんですよ。こうしてチャンスを与えて頂いてありがとうございます。5000字くらいですみます。たぶん。
というわけで、なみさんのメールをそっちのけで大変恐縮ですが、まずは、「自己肯定感という言葉を便利使いして人びとの心を惑わせている一群のバカども」を先に片付けることにします。余裕と残り時間があったら、その節はなみさんに対しても多少なにがしかのことを申し上げる可能性がありますけれどもそこは期待しないでください。
えー、大前提と致しまして、自己肯定感という言葉を用いて人の背中を押そうとしている人たちは全員ほんとうに性格が悪いですね。特にヤバいのは「自己肯定感が高い自分を模倣しなさい」というやり方で書いている人たちです。自分を見て真似しろ! とか商売の文章で書いちゃう人って普通にキモくないですか? しかもそのキモさがぱっと見はわからないように、こまっしゃくれた技術も用いており、なかなかそうとは見抜けないので巨悪の雰囲気すら漂います。多少テクニックを持っているクソライターやクソセミナー講師、クソインフルエンサーの場合、「私もかつては自己肯定感が低くて……でも、こういうやり方をしてみたら、今のように、自己肯定感がちょっと高い自分でいられるようになったんです」みたいな書き方をします。これだと一見して、自分を真似しろとは書いていないように見えませんか? あくまで、自分も乗り越えたのだからあなたもどう? ということで、自分語りじゃないような雰囲気を出していますけれども結局は「私の真似をしろ」ってことで、ウワーッそういうやつらの鼻の穴の中でバルサンを焚いて耳から湯気を出させても除去できないような根源的なキモ!
で、そんな恥ずかしいことを平気で書き散らかしているヤカラは「自己肯定感の高いライターなんだろうなあ……自分を真似しろって平気で書けるんだもの……」なんて、二重の意味で説得力が生まれてしまい(立てこもり犯に感情移入するみたいな悲しい話ですね)、読むほうも納得して、確かにこの厚顔無恥な人の真似をすれば自分も自己肯定感が高い状態でいられるかも、や、うーん、そこまでは無理かな、この居直り強盗の言う「常時自己肯定感爆上がりパーソン」にはなれないだろうな、でもときどき……たまに……自己肯定感がポンと上昇するくらいの人生は掴めるかも……? なんて、アメリカンコーヒーを白湯で割ったようなうっすーい期待を持たされて、だいたい半年くらいでうっすらとカフェインが切れるようにまた次の自己肯定感激高パーソンを探してしまうわけです。誰かもう取り締まれよこれ。厳罰だよ。
フー。
自己肯定感ってそもそも、「常時ステータス」じゃないんですよ。
そこを勘違いしている人が多い気がする。
というか、前述の国際指名手配ライターどもによって、そういうものだと勘違いさせられている人がめちゃくちゃ多いというのが私の実感です。
あのね、どんな人であっても、「24時間365日自己肯定感が安定高値」なんてことはないです。
ここで、「足の長さ」とか「鼻の高さ」みたいに、ある程度年齢を重ねるとそこそこ固定する数字のことを、「常時固定ステータス」と呼びましょう。
でも、自己肯定感はそういうものではないです。
自己肯定感は、「体のセンサーによって測られる、いつも変動するステータス」です。身長とか顔貌とは違い、「満腹感」に近い。
食えばいっぱいに感じ、しばらくするとまた腹が減る。
自分が何かを達成した瞬間だけ少し高まって、時間が経つと目減りしていく。
ね、どう考えてもいっしょですよね。
ということはですよ。「自己肯定感を高めよう」っていうのは、「常にお腹いっぱいでいよう」というのと同じ類いのアドバイスってことになるじゃないですか。
(※自作)
バカじゃないの?
自分のことを常時スキで居続けろと? なんでそんな不可能なこと言うの? うまくいってる最中の自分がちょっと好きだし、失敗した自分はちょっと嫌い、そのくり返しこそが普通でしょ、うまくいってない自分も含めてずっと好きでいようなんて「武士は食わねど高楊枝」とひとっつも変わらない精神論で、まあ精神論ってけっこう使うタイミングによっては役に立つからときどきそういう気持ちでいるのも悪くはないけれど、有料noteの会員にだけ読ませるテクニックとして売りさばいてるやつ本当に神経を疑う極悪人じゃん。あっ……今日のこの回答……もしかして有料範囲内ですか? 私はなんというダメ人間なんだ。カネを払った人にしか読ませない場所で自己肯定感についての話を書くなんて……吐き気がするほどの邪悪と、やってることがいっしょ! ううっツラい! もう自分が自分で許せない! 今日のこの瞬間の自分は大嫌いです!(でもふだんの自分までまるごと全部嫌いになるわけではない)。
失礼、念入りな自己卑下はいったんおいておきましょう。あなたも私の卑屈を読みたくてここを開いているわけではないはずです。話を戻します。
あらゆる人間は、「常時どうありたいか」と「随時どうありたいか」を本当は分けられます。「おいしいものを食べたい」という感情を、「24時間口の中に美味なものを入れていたい」と解釈する人はいません。逆に、「背が高くなりたい」については、「背が高い自分」という常時ステータスの話をしているわけで、人と会うときとかスポーツをするときに限って上げ底の靴を履けば解決、といった類いの話ではありません。そこはなんか、思考の根っこが別なんです。わかりますよね?
そして本日の話題の「自己肯定感」というのは、本当は、満腹感とか、バッティングセンターの打撃の快感とか、脳トレしたときのAHA体験とか(AHA体験って言葉で商売をしている科学者にも激烈なキモさを感じますがその話をするとあと5000字要るのでやめますが)、あと下世話な話で恐縮ですが、射精の快感なんかといっしょです。随時、もしくは瞬時に味わう感情なんです。自己肯定感がいつも高い状態でいたいというのは、四六時中エクスタシーを感じていたいと言うのと本質的に同じことだと思います。
にもかかわらず、「常に自己肯定感の高い自分であろう」というメッセージを、noteの有料マガジンとかインスタのタイムリールに書いちゃう人のキモさ……悪辣さ……非道さ……処刑されてもしかたなさ……が、だんだん見えてきませんか。
このような悪の枢軸の言いなりになって、「常時自分のことを好きでいられないなら人生なんてつまらない」と思ってしまう人が、それこそ何百万人もいることに絶望します。
私がなぜ今日こんなに激烈に怒っているのかそろそろおわかりかもしれませんが、私はその、自己肯定感という満腹感とか残尿感くらいの随時性しか持たない感情を、「大丈夫だよ、自己肯定感の高い自分になろう!」みたいな誤った使い方で意図的に商売のタネにして、あまつさえ、みずからの真似をしたらいいよというメッセージまで込めてパッケージしてリボンまで付けて売って副収入にしている人間たちのことが、本当にこの世の中で数番目に大嫌いで、もうこの10年くらいずっと大嫌い。マジで眉毛ぜんぶ天然パーマになれ。あと陰毛ぜんぶストレートパーマになれ。そういう人はそもそも永久脱毛してる? じゃあ指紋がたまたま国際政治犯の模様と偶然いっしょになれ。
今日の話題、このペースでまだまだぜんぜん書けるんですけど、あとはもう私の怨嗟が発酵して熟成肉になったものに念入りに火を通したような文章になっていくので、気を取り直して、気持ちを落ち着かせて、あなたの書いてくださった大事なメールの文章に話を戻しましょう。
フー。
冷静に冷静に……。いや、ま、いいか。冷静に右往左往するのは今月はもうシャープがやってくれてるはずだ。私はもういいです。あきれてください。
もう始末がつかないので、ここは原点に戻りましょう。なみさんから頂いたメールに。
⑴弱者として振る舞うのはそれ自体が他者へのマウント
→マウント? いいじゃんたまにマウントくらいとったって。たまにだろ、常時じゃなきゃいいんだよ
⑵高齢の方の病気自慢のようなことはそれはそれで人のことを下に見ている
→別に高齢の方という他人が、さらにべつの他人を下に見ようが上に見ようが、はあそうですか、そういうもんでしょうね、おつかれさまです、たまにはそういう目線から自由になれたらいいですね
⑶そこそこ身体は丈夫、ごく中流な私
→常時ステータスの話ですね
⑷子供から見て元気で明るいお母さん
→一方これは常時ステータスじゃなくて随時のほうですね。ここをごっちゃにしないほうがいいですね。「誰かから見た誰か」を常時ステータスで語るというのは、「俳優さんの見た目がかっこいい」みたいな言い方といっしょなんですけど、本来、家族とか大事な人たちとの間柄というのは、その都度(随時)、いっしょに過ごしている時間や体験について語り、物語を更新し続けることです。「いつも元気で明るいお母さん」なんて、それは、「いつも元気で明るく振る舞うように命令されたペッパー君」と同じことで、あり得ません。「元気になる理由があるときは元気なお母さん」「楽しいことがあれば明るいお母さん」がその都度見えていればいいですし、それ以上のことは必要ないですし、人間はそこまでしかたどり着けないはずです
⑸必要以上に腰が低くなったり
→これは随時の話ですね、常時腰が低いというのはシチュエーションとしてあり得ません。たまの場面で「必要以上に腰が低いなー」というのは、そのタイミングにおけるあなたの行動の見え方を左右しますが、常日頃のあなたを否定することにはなりません
⑹逆にどうしてよいかわからず不遜になったり
→これは随時の話ですね、常時不遜であるというのは人としてあり得ません。たまの場面で「不遜な態度だなー」というのはそのタイミングにおけるあなたの行動の見え方を左右しますが、常日頃のあなたを否定することにはなりません
⑺はたまたそういったことを悔やんだりする
→これは随時の話ですね、常時悔やみ続けるというのは人としてあり得ません。ただし、前述のクソライターやゲボコラムニスト、害虫インフルエンサーたちが、「いつも悔やみ続けているあなた、もっと前を向いて!」みたいなレトリック的表現を世に蔓延させ、あたかも人間は常時一定の感情で過ごしているかのような勘違いを広めたために、「自分はいつも後悔ばかりしている」みたいな微妙に正確性を欠いた悩みを抱えてしまった人が山ほどいます。心底許せませんので、私はそのうちnoteの株式を大量に取得し、強い権利を振りかざしてそういうライターやウェブ講師たちを全滅させると思います
⑻鏡を見て「あなたのことが大好きですよ」などという自己暗示をかけても
→常時自分のことが好きな人ってちょっと私は無理なのですが、たまにかかる分にはまあいいんじゃないですかね
⑼自分という小さな枠から外に眼を向けるべきと思ってもすぐに自分の内側に戻ってきてしまう
→えっそういうものです(後述)
⑽そのことをたまに「ああダメだ」と思ったり、SNSで呟いたり、身近な人に伝えたりするのは、人を下に見るいけないことなのでしょうか
→
ほらほら
自分でも書いてるじゃないですか
「たまに」って
たまになら別にいいんじゃないですか
自己肯定感なんて常時ステータスじゃないし、自己卑下だってたまにはある、そりゃ人間なんですから、それくらい揺れ動いてください。揺れ動きましょうよ。人として。常時自分アゲの人ってマジでちょっと、大嘘つきすぎて付き合えない……。
なお私自身は、ツイッターで自分ダメ感情をつぶやく人を目にすると、ぶっちゃけ、「そのツイートはちょっと……めんどくさいな……」って思うんですけれど、それはそのツイートに対してであって、べつにその人が常時めんどくさいかどうかなんていちいち考えてません。他人なので。ああ、今日はめんどくさいツイートをしたい日なんだな~って感じで終わりです。それが普通の人間のやりとりだと思うんですが。
最後になりますけど、「視点を変えれば人生が変わる」っていうの、自己啓発本の定型句でして、ただしこれは本当に真実だなーって思いますが、視点を変えたら人生が変わって見えるのは確かにそうで、ただし、さまざまな視点に立って見え方の違いを実感したあとは、その都度自分の内側に戻ってくるという往復運動をやっているんですよ(さっき「後述」って書いた9番目がここにつながります)。この往還にこそ人間の本質があると思っています。だから、違う視点を仕入れても最終的にはまたいつもの自分の内側に戻ってきて、外を眺めて、「今はここにいても違う見え方をしているなあ」みたいなことをブツブツつぶやいて、瞬間的に自己肯定感を高めていくんです……ああもうこの「自己肯定感」という言葉自体に飽きました。なんでみんな残尿感とか賢者タイムくらいの意味しかない自己肯定感って言葉をそんなに便利に使うの?
おわかりでしょうか。私がいかに「自己肯定感の高い自分でいよう」とのたまう人間たちが大嫌いで、もっと言えば「自己肯定感」という言葉までついでに嫌いになっているということを。それに関してはいよいよ打つ手はないです。そしてなみさん、あなたのお寄せ頂いたお悩みについても、冒頭に予言したとおり打つ手はないです。
どうで荘にご入居のみなさん、こんにちは。すっかり春ですね。春は見知った人と別れたり、知らない人と出会ったりと、人間関係がめまぐるしい季節です。人見知りの民や自意識こじらせ族にとっては、なかなかどうして緊張を強いられる季節でもあり、春めく日々をのうのうと過ごすわけにもいきません。私もそういう傾向にある人間ですから、つまり春はあけぼのです。まだみんなが寝静まっていて、私がだれにも会うことがない、日の出前の時間。あのあけぼのが静かで安心で、私はいちばん好きです。
さて今月のご相談。自己肯定感の低い自分をどうにかしたい。私も身につまされるお悩みです。しかも相談者さんは「自己卑下は相手との関係性の上下を強いるという意味で、他者にも圧をかけている」という視点を知り、さらに卑下を重ねようとされています。らせんが根深くて、なかなか難しい問題だと思います。
私を含めて見回すと、なにかとオドオドしがちな人はたくさんいます。一方、なにかと他人に抑圧的な態度をとる人もまた、うんざりするほどたくさんいます。他人に抑圧的な態度をとる人に対して、時に「私なんてダメなんです」は盾となり、余計な衝突を避けられる場合もあるでしょう。幸か不幸かオドオドは戦略的に採用され、多用するうちにオドオドが固定化してしまった人は、実はけっこういると思います。
卑屈は自分の足元の地面を掘り、怖い人の前から姿を消すような、下方向のマウンティングとして作用する時があります。つまり人間関係がややこしい世間で、卑屈や卑下こそが処世のコツという側面は確かにある。でもやっぱり、相談者さんがお悩みのように、あらゆる方面に卑屈であることは健全な精神のあり方ではないと、私も思います。私たちが関わる他者は、抑圧的な態度をとる人ばかりではありません。ほとんどは対等で、あるいは無関心で、そしてときどき親密に、人はあなたに関わるのですから。
それにしてもいったいいつから「自己肯定感」なる言葉が当たり前に使われるようになったのでしょうか。自己なんて、肯定しようが否定しようが、おかまいなしに自分の中にデンと居座る存在です。そもそも物心がつく頃から、その物心こそが自己なわけで、自己とは肯定否定よりも奥にある、それゆえ触れることが難しい芯のようなものだと思います。
結局、自己肯定感が高かろうが低かろうが、いつだって自分が自分を追いかけてくるし、自分が自分を邪魔することもある。どうやったって自分は自分を追い払うことができないのなら、私は私という自分を、ちょっと距離を保って、見つめるようになりました。そうやって見つめていると「そうか私はこういう風に思うのか」と気付かされ、なかなかどうして自己は示唆に富み、興味深い対象となって、肯定したり否定するヒマがありません。
話は変わりますが、私は即興とかインプロビゼーションと呼ばれるジャンルの音楽を長らく続けています。ひとりで、あるいは数人で、決めることといったらだいたいの演奏時間だけで、あとはなにもルールを設けず、いっせいに各自の楽器を演奏します。ルールがないので、ただひたすら私は、私と私以外のミュージシャンが出す音を現在進行形で聴きながら、次に自分は何の音を出すか、どれくらいの音量にするかなど、発音に関するすべての行為を瞬時に判断して演奏をするわけです。
こう書くとあたかも私は、制約のない自由な地平に立ってのびのびと演奏をしているように思えますが、実際はちがいます。結局のところ、私は私ができる/知っている方法しか、演奏ができないのです。いくら自由といっても、私は私が思いつく中からしか次のアクションを選べないし、私は私ができることの中からしか、次の音を思いつけません。つまりそこにあるのは、私の持つ可能の順列組み合わせでしかないわけです。
ただの順列組み合わせに不満を感じた私は、いかに自分が自分を裏切る演奏ができるかを模索しました。利き手と反対の手を使うとか、自分で制御できない機械を介すとか、目を瞑るとか、知らない楽器を使うとか、いろいろ試したのですが、最終的に私が行き着いたのは「酔っ払う」でした。
なんてことのないアイデアでしたが、効果はてきめんです。飲みながら前後不覚になりつつ演奏する方法は、自分の中の順列組み合わせを狂わせるどころか、人見知りが人前で演奏するジレンマまで、みごとに解消してくれました。ひたすら酔っ払う。自分の音楽スタイルが確立された瞬間です。
しかしそのスタイルも、私はあっけなく放り出すことになります。ややこしくて、聴く人も限られるようなジャンルの音楽でも、続けていると海外に呼ばれるようになります。ある年、私にロンドンで演奏する機会をくれた現地の人が出演前にアドバイスをくれました。ロンドンではどれだけいい演奏をしようとも、その人が酔っ払っていると酒のおかげと解釈されるよ、というものです。だから飲みながらやらない方がいい、と。
それを聞いた私は、なんだか心の底から納得したのでした。ドーピングしているように見えるならバカバカしいことだなと、思ったのです。それ以来、私は酒を飲みながら演奏することをやめました。いい演奏をしたくてやっているのに、あれはドーピングのおかげだと思われるなら、これほど損なこともありません。とはいえ演奏前には少し飲むけど。
「自己肯定感が低い私」も、なんだか似ているような気がするのです。オドオドは自分の中の問題のどこかをカバーしてくれるのは確かです。「私なんて」は自分を守る盾になりえる。でもオドオドしている状態を「オドオドを選択している人」という目で見たとたん、その人は自分を卑下させるダウナーなドーピングをしているように思えてきませんか。もしそうなら、それはしんどいながらも自己と向き合おうとする人にとって、どうにもバカバカしい印象だと、私は考えます。
もちろん根本的な解決は別です。私が酒を飲みながらの演奏をやめたからといって、私がものすごく評価されたわけではありません。それはいまの私を見れば明らかでしょう。あいかわらず私は、演奏前にオドオドします。そういう意味で、ただまあ打つ手はありません。
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【回答者プロフィール】
山本隆博
@SHARP_JPの運営者。どうでしょうをサラリーマン目線で見直すのが好きです。
病理医ヤンデル/市原真(44)
好きなどうでしょうはユーコンです。