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D陣日誌
- スタッフより
2024.04.18
嬉野です。日誌でございます。例によって長いですからお暇な方だけお読みください。
8年ほど前に目白駅前に気の利いたコーヒー屋がありまして。そこは当時としては珍しく浅煎り系のコーヒーを飲ませるので、わざわざ目白で降りてその店に立ち寄ることもあったんです。店構えは、最近チラホラ目にする浅煎りコーヒーの個人店にありがちな、とんがったオシャレな感じではなくもっと規模の大きなチェーン展開してるみたいなラフな構えだったんですが、チェーン店というには目白店の他には1店舗しかなくて、その店舗も千葉だったんです。おそらく千葉のお店が東京進出を図って目白に2号店を出店したのかもしれませんね。
とにかくコーヒーも甘いものも口にすると気が利いてて美味しいので重宝してたんです。
まぁ、美味いと思う感覚は不思議なもので、ついひと口に「美味しいもの」とか言っちゃいますけど、美味しいというのは、意外に調理の過程で細々としたところが抜かりなくキチンと手当されているから、それが味と食感にしっかり反映されて、口にしたとき、なんか、何がどう好ましいのか分からないながら他の雑多なお店で口に入れるものとは明らかに違っていることだけはちゃんと分かって、すごく印象に残るんですよね。
そう、最近食べた藤村さんの白いトンカツもまさにその工程をしっかり経ているからこそ美味かったんでしょうね。
そのコーヒー店のコーヒーもフードも口の中で丁寧な抜かりなさが功を奏して私の味覚と食感は「いい感じ」と受け取っていたんです。その受け取りは万人に備わった感受性ですからどんな人にも等しくある能力で、そこを良い具合に刺激してもらえると、普段の雑多にして省かれまくった工程の果てに出てくる食生活ではけして刺激されることのなかった長いこと暇してた神経が思いがけず触られるもんだから喜ぶんでしょうね、「やったぞー」的に喜んで、なんか電流的なものを身体中に流すんでしょうね、それだもんで味わう私は、「なんかすごく美味しい」と目が覚めるような思いにとらわれてしまう。そういう仕組みなんでしょう。
でも、その目白駅前のお店もそんな感じで良い店だったんですけど、時代のちょっと先を行っちゃってたのか、当時は浅煎りのコーヒーは今ほど求められていなかったので、ある日、「近日閉店」と告知が張り出されてしまったのです。
ちゃんとしたお店だったのに。まだまだ浅煎りコーヒーが必要とされてなかった時代だったから、経営がうまくいかなかったんでしょうかね。今なら絶対に東京あたりにあれば広く利用されたはずだったんです。難しいものですよね〜行いが間違っていなくても早すぎたばかりに受け入れてもらえないってこと、あるんですね。今はもう千葉の1店舗だけになってしまったようです。
で、私が気になったのは。その、美味しい店だった目白駅前のコーヒー店が、撤退が決まった途端、全ての質が落ちたことだったんです。
ある日、閉店のことも知らず、ちょっと久々にその店に入ってコーヒーを注文して、飲んで、甘いものを食べたんですけど。
私としては、いつもと同じことをしてるのに、「なんか、いつもと違うよなぁ」とどこか違和感を感じて落ち着かないんです。そういえばお店のスタッフの接客の感じから、今飲んだコーヒーの味から、何がどう変わったか、すぐにはハッキリと分からなかったんですけど、なんかいろんなところで違和感を感じてて。そしたら、目に入るお店のいろんな細々としたところから、なるほど愛が失われていることを発見し始めたんです。
まず、客席のテーブルの上に配置された紙ナプキンがスカスカになってるとか、逆に厚すぎる束を捩じ込んでお客が引っ張って散乱しちゃったままにしてるとか。どのスタッフも客をそっちのけでだべってる方に重点を置いちゃっててお店から好ましい緊張感が失われているとか。
おそらく、閉店が決まって店長からやる気が抜けてしまったのか。それとも意欲的だった店長が、上とぶつかって何らかの理由で飛ばされてしまい、その後釜に他所から店じまいのためだけに新店長が赴任してきたから愛を失ってしまったのか。何にしても責任者からやる気がなくなったことで、スタッフにもそれが伝染して全員の気持ちがこのお店から離れてしまったような、実に残念極まりないありさまで、その愛の喪失がここで出すコーヒーやらフードの味やらにもダレた感じを伴って影響しだしてしまってる。
私はあのとき強く思いました。やっぱり「大事にする気持ち」は忘れてはならないんだわと。
誰かが一生懸命大事にしているかぎり、やっぱり他の人も大事にしてくれるものなんですよね。愛は伝染するんです。でも、同じように愛の喪失もまた容易に伝染してしまい、あっという間に全員の心が離れてしまう。その浸透する速度のものすごい速さ。まことに恐ろしいことです。
このように世の流れというものも、ある日を境に急激に変わってしまいますから、この国がこの先どこへ行くのか、私にはもうよくわからないんですけど、でも、だからこそこれまで自分が大事にしてきたものは、これからの世間の流れに関わらず、変わることなく大事にしていく方が、結果的に、自分の人生もきっと得をすることになるに違いないなと、感覚的にですが私は思うのです。
さて、明日は埼玉県熊谷市の八木橋百貨店で14:30から講談師玉田玉山を迎え、お馴染みのどうでしょう講談を聴く会が催されます。どうぞ、多数お越しください。玉田玉山の愛に満ち溢れた水曜どうでしょう講談は生で聴くとその迫力が違います。それではみなさん、明日、八木橋百貨店でお会いいたしましょう〜〜!
ということで、昨日の夜、わたくし、なんだかえらい疲れてまして。で、ひと晩ぐっすり寝て、お昼頃起き出して午後に川崎から横浜に出て相鉄線で大和まで繰り出して、大和の駅近にあるストーリーボックスさんという珈琲屋さんで2、3杯美味いコーヒーを飲みましたら、テキメンに元気になりました(^^)ケニアのホットと、コールドブリューと、どっちも美味かった。ご興味のある方はぜひ行ってあげてくださいませ〜〜愛あるコーヒー屋さんですから〜〜。
講談師玉田玉山、人生で何度目かの居候である。
齢30を越えた居候となった。幼少のころは「俺は金持ちになるのだ、立派な家を建てる男に違いない。さって弁護士になろうか、社長になろうか、考古学者になろうか」などと鼻息荒く暮らしていた。
10代後半~20代前半には「俺はどうしようもないぼんくらだ。早晩、家を失い屋根を失い、寄る辺もなくホームレス状態になるのだ」と思っていた。
しかし34歳になった今、居候状態になっている。
家があるような無いような、無いようなあるような。不思議な状態である。あまり将来像として描かない立場であろう居候というのは。
己で家を構える力はないが、己に屋根を貸してくれる人が居る。情けをかけてくれる人がいる。これは独りで家を構え、それを墨守するために孤独に金を稼ぐ仕事を続ける、という生き方よりは幸せなことなのかもしれない。生き馬の目を抜くこの社会に於いて、この情けを得るということ、大幸福であろう。幸せ。死んでもいい。
しかしながら細川たかしの『浪速節だよ人生は』(カラオケでよく歌う。すごく大きな声が出るので、人前では歌えない)にもある。
「人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ」
である。
屋根を貸してくれている人が愛想をつかし、情けを折って「出ていきなはれ」と言ったら言う通りに出ていかざるを得ないという不安定な状態、それが居候でもある。おそらく借地借家法等の店子を守る法律も、居候は守ってくれまい。
出ていけと言われば、出ていかねばならず、そこから新しい家が見つかるかどうかはわからないが、荷物をまとめて家を出て、放浪などをしなければならないのだ。それは住処と共に住所を失うということで、住所を失うと就職、転職、転居などが難しくなり、社会的な死につながる可能性もある。それが己で家を構えておらぬ、ということなのだ。
情けの枝を折ってはいけない。
情けの枝を折らぬままに、どうにかこうにか、自らの身を立てて、脱・居候を目指していかなければならない。
当然居候に身をやつすほどのものであるならから、一朝一夕で脱居候ができるわけではなく、少しづつ、居候で浮いたお金と時間を使って実力(体力、財力、能力、人脈)などを時間をかけつつでも蓄え、そして期が来た時に逆転打を放って己の居を構える、ということを目指さなければならない。
その機が来るまでは情けの枝を折らない必要がある。
そのためには居候仁義、のようなものを学んでいかなければなるまい、と思っている。
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』でも主人公一家の家に書生という形で居候している男が出てくる。仲野大賀氏の演じるその男は司法浪人で、一家の主の勤める銀行でアルバイト的にだろうか、日中は働きながら夜学で法律を学んでいる。
階段横の狭い3畳くらいの部屋を与えられている。机と、布団と勉強道具程度しかないその部屋。壁にとにかく司法試験に受かりたい旨の習字などが貼ってある。
その彼は、今のところ3回司法試験に落ち続けている(しかも落ちて当然である、というような描かれ方だ)が、今だに追い出される気配はなく、主人公一家と食卓を囲み、弁当を作ってもらい、主人公の良き相談相手になったり、一家の戸主である主人公の父からは「いつまでいてもいいから」と言われ、闊達な居候ライフを送っている。
司法試験どれくらいの期間をあけて行われるのかはわからないが、劇中の経過時間で言うと彼は2年は居候しているはずだ。もしかすると彼に学ぶところは多いのかもしれない。
勿論一人でどうで荘に居候をしているわけだから、他人の家族と暮らしている『虎に翼』の彼とは違う。
もちろん、己なりに居候だから、と遠慮をしていることもある。
例えば全裸で部屋中をウロウロしたりするのはいけないような気がしてしていないし、リスク管理としてトイレもあまり我慢しすぎないうちに行くようにしている。自宅があるときに何度か大事故を起こしたことがあるのだ。あと、サンマが安くても購入しなかった。あれを焼くと大変強い臭いと煙が出てしまう。慎みながら暮らしている。
しかしやはり『虎に翼』の彼に比べて我が暮らしはあまりに傲慢である。
風呂でひたすら鼻歌(鼻歌、と言っても我が声は大きく、放歌。と言った方が状況を正しく伝えられているかもしれない。ちなみに、野口五郎、吉幾三など)を歌ったり、大量の本、森喜朗の自叙伝やら、村山富市の回顧録やら、を旧宅から持参して本棚を二つも設置したり、アホほどてんぷらを揚げて一人でてんぷらパーティをしたりしている。
居候が揚げ物をする、アホほどてんぷらを揚げる、一人でそれを食っている、というのはあまり聞いたことがない。
『虎に翼』の彼はご飯をお替りするのでさえ遠慮がちだというのに。こっちはてんぷらを揚げててんつゆと塩を用意して味変をしながら食べて居るのである。翌日には余ったてんぷらを使って天とじうどんを作る始末である。
どうにも良き居候的な態度ではないような気がする。
では金輪際てんぷらパーティを辞めるのか、と問われると、それは相当に辛い決断となる。一人で好きなだけてんぷらを揚げて食べる喜びは大変なものがある。
てんぷらを食べすぎる、という体験は一人で家で、でしかできないんじゃないか。
鼻歌・放歌の類も辞めたくはない。
そういったことはしていない、と隠蔽すると良いのかもしれないが、これらを隠蔽する力というのが私には欠如をしている。天ぷらパーティをして美味しい思いをしたら、それを報告せざるを得ない。鼻歌・放歌の類は隠蔽には全く向かない行為である。森喜朗の自叙伝も村山富市の回顧録もそこにあって、講談にしているのだ、隠しようがないではないか。
妙な隠ぺいはそれこそ信頼というのものを損ない、情けの枝を折る一助となってしまうであろう。
であるからこちらとしては、どのような暮らしをしているか、どのような居候暮らしをしているか、をここでリアルに書き綴り、真正面から「こんな様子なんですが、いいでしょうか、これでよければ情けをかけてください、その枝を折らないで。あ、もしダメなところがあったら直しますから」とどうで荘入居者をはじめ、そのリアルさを、情けの枝を折らぬ支えにしつつ、関係者の方々に伏して願うしかないのである。
編集部注:作者の個性を反映して、誤字脱字・思い込み・事実誤認もそのまま掲載しております。
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