嬉野です。日誌です。
いやいや、なんだか知らぬ間にもう土曜日なんですねぇ。
さて、私もね皆さん。人生、60数年生きてきましたけど。世の中で偉いはずの立場の人たちが、こんなにも大量に悪人になって、しかも、ここまでグルになってふんぞり返ってる時代もなかったもんだと思いますとね、いったい人間ってのは何を契機に悪人になってしまうんだろうと、このところ考えずにはいられない。
まぁ、私が考えたところで、たかは知れてるんでしょうが、それでも、考えずにはいられない。
で、思いついたのは、「正直、不正直」のような気がしたんですね。
あのコロナ禍の3年間というものは、それまでYouTube動画なんか、たいして見てもいなかった私を、しっかりとYouTubeウォッチャーにしてしまったところがありますよ。だってねぇ、テレビや大手新聞ではけして教えてくれないことを、YouTubeでは専門家の方々が、「どうしてこんなにも大事なことをテレビは報道してくれないんでしょうか」と、戸惑いと危機感と憤りを交えながら詳しく開陳してくれてましたから、そんな動画を見て私もハッとして、ついついYouTube情報に信を置いて、それからというもの何かとYouTube動画を視聴する習慣がついてしまいましたよね。
本当に、知らないうちにマスコミは、我々に「てぇへんだ!てぇへんだ!」と教えてくれる存在ではなくなっていて、意外に、偉い人たちに寄り添って、偉い人たちの都合の悪いことには、ダンマリと知らんぷりをするようになっていたんだ〜と、なんだかあまりにも思いがけなさ過ぎて、めっきり気持ちもへこむわけです。
でも、そんなとき思ったんです。
だったら「水曜どうでしょう」は、そんな社会で、なんだって未だにテレビ番組として堕落することもなくやれてるんだろうと、そこもつい考えてしまったわけです。
どうして、「水曜どうでしょう」だけは堕落しないのでしょうか。
おそらく、それって、「水曜どうでしょう」が、一貫して正直であり続けるテレビ番組だから、であるように思えてくるのです。いや、もちろん大泉洋さんには毎回隠し事をして、彼を騙してね、どちらかというと「水曜どうでしょう」は、「不正直で」のし上がってきた印象は、たしかにあります。
でもね。その間も視聴者の皆さんには大泉洋さんを騙していることは逐一詳細に告げながら放送してきたわけですから、大泉洋さんには不正直だったかもしれないけど、世間に不正直だったことは一度もないわけです。
さらに、こまかいことを言いますと、番組チーフDの藤村さんなどは、海外ロケで車を運転してもね、Uターンするまでは、「道が分からなくなった」とは、けして白状しませんから、まったくもって不正直なんですが、さすがにUターンしちゃったらね、「これはもう、これ以上は隠しおおせない」と思えば、キチンと我々に打ち明けて、そのとき我々からは罵詈雑言を浴びせられようとも「正直」に白状するわけです。
もっと重要な「正直の話」をすればですよ。藤村さんは「北海道に家、建てます」のロケ中に「水曜どうでしょう」の作り方が分からなくなって、内心焦りと不安の孤独の中にいたであろうときも(まぁ、これは私ひとりの勝手な推測ですがね)、もう、このプレッシャーをこれ以上ひとりで背負うのは耐えられないと思った瞬間、オニのような判断力で、「迷走してます」と、あえて本番中のタレントを前に正直すぎるまでの爆弾発言をし、まんまと視聴者を含め満座の爆笑を勝ち取るわけです(転んでもタダでは起きない、ここの判断力がとてつもなく大事です)。このように藤村さんは、本番中に、正直と不正直を死に物狂いの馬力で使い分けて番組の流れをコントロールしてきたんだと、私は思いますよね。
大泉洋さんも、ロケ本番中の企画発表で、どんなに藤村さんに誘われてもご自分で気分が盛り上がらない限りは、絶対に藤村さんの誘いに乗ろうとはしない正直さをカメラの前で貫こうとします。ですから、藤村さんにしても、そのことを考慮した上で、話の流れをどのようにもっていったら大泉洋を絡め取れるか、プレゼンの順番から何から周到なシミュレーションをおそらく前夜は徹夜で用意してから毎回本番に臨んでいると思うのです。
さらに些細なことを言えば、食ったうどんが本当に心から美味いと思わない限り、荒々しく「うまい!」と叫ぶこともないという、こんなとこにも自分の気持ちに正直であることを貫く信念が見えるわけです。
つまり、「自分に正直であることを捨ててしまったら、もう、おもしろさには辿り着け得ないのだ」という信条が、我々4人の中には共通のこととしてずっとあり続けているということです。
「正直一途」という、これが、どのような時代になっても、「水曜どうでしょう」を堕落させない要因になっているのであろうと、私には思えるのです。
不正直は、なにか大きなものに流されて、「自分に正直であろうとすること」を捨て、何か大きな存在にハンドルを渡してしまうことであり。
そうしてしまうのは「正直でいるより不正直の方へ流されてしまう方が楽だ」と思ってしまう瞬間が当人にあるからです。だから自ら「不正直へ」進んでしまう。
でも、不正直になったら、もう、おもしろくはならないから、しんどくても正直を貫く。
何があろうと、とにかく最後は、正直に着地する方が人生は楽にもなるし、楽しくもなるということです。
「自分に正直であろうとすること」がしんどくて、不正直に流されてしまう方が楽に思えるときはかならずあるけれど、でも、不正直のままでいても、いつかは辛くなってくる。だったら苦しくなってきたら思い切って不正直を捨てて正直になってしまう。これ意外に人間が楽になれる道はないと、私は思うのです。
なんだか、そんな「正直・不正直」といった、あまりにもシンプルなことが、でも意外に人生にも、この世界にも大事な大事なことであって。
人生いろいろあっても、やっぱり最後には正直に着地するという選択をすれば、人間は悪人になってしまうことはないと、私には思えるのです。
まぁ、そんなこと考えながら、このところ雑誌「kotoba」の原稿を書いていたもんで、うっかりこの日誌も土曜になってしまったというわけでね。
とはいえ、今後はね、日誌は「1回パス」とか、あるんじゃないかしらと思いますし(^^)パスは何回までとかね、その辺りも臨機応変にやって参りましょう。
ということで、皆さんも白いトンカツを揚げたりで楽しそうで何より(^^)
それでは、みなさん。
かくのごとく仕事だけは正直に参りましょうね〜。
-----------------✂︎------------------