12/3の日誌(D陣日誌:嬉野)
嬉野です。日誌です。
先日、Netflixで「極悪女王」を一気に5話まで見てしまい、深夜にもかかわらず胸を熱くしてしまった私は、藤やんに「あんた、あんな話題作を今頃初めてみたの?」と呆れられ。
でも、呆れられたって、今や誰も知らない小津安二郎監督の、誰も見ない昭和25年制作の日本映画「麦秋」を見ては、いまだに新しい発見をして感じ入ってしまったり、木下恵介監督の昭和19年公開の日本映画「陸軍」のラストシーンの20分に「え?なんでラストだけ、いきなりこんなに素晴らしいの?」と感銘を受けてしまう私ですから、
そんな男が世間を騒がす旬な話題作に敏感であろうはずもなく、何かと世間に遅れを取りがちなことは致し方もないこと。
でもね。
タイミングは知りませんけど、私は「極悪女王」を見ながら胸を熱くしたんです。それは間違いのないこと。だから、重要なのはそこでしょう?
でも、そのお陰で私はあれからずっと、「なんで自分はあんなに胸を熱くしたんだろう…」と、答えなんか出ないようなことを考え始める始末です。
もちろん、「極悪女王」が良質の熱のこもった作品だったから私は胸を熱くしたんです。そんなドラマを通して当時の女子プロの彼女たちの思いが知れたことに胸が熱くなったのです。だから、それが全てだということは分かっているのです。
でも、常日頃より私は、名作というものは「作品だけで完結するものではない」と考えるところがあります。
名作というものは、結局、自分というものに跳ね返ってくる。
名作は、「見る側の人間その人個人の心の扉を開ける鍵になる」と、思うところが私にはあります。
人の心に訴えかけ、胸の奥に降り積もって行き場をなくした「言葉に出来ない何か」をその人の胸から解き放ってくれる。その瞬間、高まるばかりだった水圧が一気に解放され奔流となってほとばしり出て行くときのように、心に湧き立つ解放感、それが感動の正体であるはずです。
人の心の内圧を高めるばかりだったわだかまりに一時的にケリをつけてくれる、そのキッカケをくれるもの、それが名作の効能だと私は思うのです。
だから、「極悪女王」を見て、思わず胸を熱くしてしまった私は、私の心の扉を開けられてしまったはずなんです。
そのとき解き放たれた「言葉にできない何か」の噴出に私は胸を熱くしたはずなんです。
ですが、解き放たれたものが言葉にできない「何か」であるだけに、解き放たれたあとも、「あれはいったい、なんだったんだろう?」と、その感慨を更に考え始めてしまうものだから、こうして書きながらも、いきなり行き先の見えない文章となるばかりで、「これはいかん」と、とりあえず、おいおい書いていこうと思い直し、今回はこの辺りでお茶を濁して筆を置くという段取りです。
それにしても昨夜の「ちょっとだけエスパー」、なんとも素晴らしかったなぁ。ついに伏線回収が始まって、思わずぐっと引き込まれました。
大泉洋の文太がとても良かった。


