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嬉野です。日誌です。
なんかですね。さっき、空港を歩きながらふと思ったんです(3/2のことよ)。

うちの奥さんとバイクツーリングしてて何より楽しかったのは、旅の道中、どこまで走っても広がる水田の風景だったんです。バイクで走る間ずっと私の目を奪う日本の田舎は、どこもキチンと人の手が入った自然とともにあってなんとも心晴れ晴れだったんです。

でも、それが近年、キャラバンのバスの窓から見ても草ぼうぼうの耕作放棄地が目立つようになってきて、(竹田の姫だるま後藤さんの実家の周辺も草ぼうぼうの耕作放棄地になってました)明らかに日本の風景は変わってしまいつつあるわけです。

で、これって農家の後継者がいなくて高齢化して耕作が辛くなってきたからってことなのでしょうが、でも、僕が子どもだった頃から始まった減反政策に端を発し、近年はお米の値段が下がって熱心に米を作っても採算がとれない、生活できないと、米を作る農家が減少していることが離農を加速させているわけですから。

国は、食料は外国から安く買えば問題ないからと日本国の食料自給率には、たいして興味がないようですから。
農家に補助金を出してでも日本の農業を守ろうとする様子もない。
となれば、農家としても、きつい思いで働いてるのに食えないのでは叶わんと、離農する人が増え続けているんでしょうから、まぁ結果的にですけど、長い目で見れば、この国の為政者の人はずっと離農を推進してきていたのかもしれないなぁと、さすがの私も本気で思えてきたのです。

でも、そうやって離農しちゃった人らは、結局、仕事を求めて都会に出て企業に雇われてサラリーマンになるしかないという、離農の先にはそんな流れが待っているわけで。

もちろん離農した人は、都会でサラリーマンやってる方が田舎できつい畑仕事やってるより楽だし良さそうだってことだから、それが時代の流れだってことで問題はないのかもしれませんけど。

でも。そうやって農業やる人がいなくなり、漁業やる人もいなくなり、第一産業をやめた人たちが続々と都市に流出して行けば、田舎自体が草ぼうぼうになって、大企業が使える労働力だけが都市に集まり豊富になって、労働力にだけは事欠かないと、人件費は、やがて安く買い叩かれていきそうですし、仕事環境が辛くて嫌でも、その会社を辞めたらなかなか次はないみたいに追い詰められたら、もう、その会社に服従するしかない社会。

そんな〜〜。

だったら、この国の為政者が思い描いてきた日本の未来って、田舎をなくして、都市に当てのなくなった人を集めて安価で文句も言わない労働力を確保することだったんですかねぇ〜。

それはイヤな社会です〜

そんな楽しくない未来に向かわせられるためにぼくらは税金払ってたんですかしら。バカ丸出しじゃないですか。

私ね。いつかYouTube見て知りましたけど、南海トラフ地震とか起きたら日本の人口の半分が何らかの形で被災するって高名な大学の先生が言っておられましたよ。
でも、そんな規模で被災したら、だれが被災したところに助けに行けるんでしょ? きっと何ヶ月も助けが来ないかもしれない。

そんなときに都市で被災してたら、都市の人って、頑張りようって、あるんですかね? 

都市で暮らすには、電気と水道がまず復旧してくれなきゃ生きていけない前提がありますよね。それが何ヶ月も復旧しないなら(名作映画「サバイバルファミリー」を見たら、生きていけないことが、すごくよくわかりましたよ)いざというときに頑張りようもないです。そんなところで暮らしてるなんて、おっかないですよね。

でも。

もし田舎で農家やってたら、電気水道止まっても、それがなかなか復旧しなくても、頑張りようはありそうな気がするんですよね。
だって、田舎で農家やってたらみんなで力を合わせて山から沢の水を引いてくるとかすれば飲み水は確保できる。井戸水が湧いていればそれに頼ることもできる。
電気が復旧しなくてもロウソクやランタンで夜は灯りをとれる。
燃料は、山には木があるから、薪で火を起こせば煮炊きもできてしまう。炭だって作れる。水もあって。燃料もあって。これだったら炊事洗濯ができてお風呂にも入れる。米の備蓄があったり食べ物は自分で栽培してる。

そうを考えると、やっぱり田舎で農家やってたら被災して電気水道のない環境下が何ヶ月も続いたって、頑張りようがありそうです。

それを思うと、今、田舎で農家やってるって、これからの時代、とっても力強い環境だって気がします。そう思って都会から田舎に移住して農業やってる人、増えてそうですもんね。

それと、今世界の中で日本の経済だけが低迷してるそうですけど、別に貧乏は貧乏でも、我々が楽しそうで笑顔になれる未来を目指すのなら、貧乏な国日本でもハッピーは可能ですよね。
それこそ、為政者が、意図的に「経済成長をする気のない不思議の国ジャパン」を目指してるんだったら、それはそれで素敵じゃないですか。

だって、江戸時代まで日本は紙一枚まで再利用を繰り返して持続可能社会を実現していた国なんですから。160年も前に完成させていた国なんですから。もし、これからもう一度その実現を目指すというのなら世界の先頭を進む持続可能国家ジャパンになれますよ。そしたら少子化が進んでることだって当然の流れに思えて来る。
江戸末期の日本人の人口は3千万人だったそうですから。輸入に頼らないで自活しようとすりゃそのくらいの人口がこの国土が養える人口の上限だということですから。自然と日本人が減っていくことも、無理して食い止めなきゃならないことでもないのかもしれない。

でも、日本の為政者のみなさんは、そんな不思議の国ジャパンを目指して、あえて経済を低迷させているわけでもない。なのに、どうしてだか日本だけ景気が低迷して、ニセコでは、ハンバーガー1個が¥3.700で売られていて日本人だけが、おったまげている。

なんかもう。ダメなんでしょうね。
ダメなんだなぁって、みんな分かってて、でも、なんか、おかしげな為政者の人らがのさばってて。どーしようもない状況が続いてて。

だったら、せめて、本当にダメになる未来がやって来るのを、少しでも遅らせる方がお国のためです。
我々は、お国のために、お国の破滅を少しでも遅らせる、ブレーキになるべきです。

ということでみなさん、本日も、上手にサボって、楽しそうなこと見つけて、楽しい時間を⏰増やしていくことで、みんなでちょこちょこブレーキを踏むことを、皆さんめげずにお気張りくださいますように、祈念してやみません。それ、もうみなさん、めいめいにやっておられるようで安心しておりますけどね。

そして、何もできてはいませんけど、能登の皆さんのことを考えない日はありません。もちろん、どうしてるんだろうなぁって、考えるくらいが関の山なんですけどね。

でも、ぼくらも昔、水曜どうでしょうの「試験に出る石川県富山県」のロケで、能登に参りましてね。
そのとき、輪島の漆器屋さん稲忠さんで、うちの大泉校長のために生徒の安田くんが輪島塗の般若のループタイを買いました。

そしたら、あれからもう23年ほど経つと思うんですけど、その間に番組のファンの皆さんが能登へ遊びに行っては稲忠さんに立ち寄ってね、買い物をして行ってくださいましたと、先日の能登の大地震の後に、稲忠さんの社長さんからHTBの方にメールを頂きました。
残念ながら稲忠さんのお店は全壊だったそうです。でも、やっぱり地震の後もね、水曜どうでしょうのファンの皆さんからさまざまに励ましのメールを頂いて嬉しかったですと。そして、またなんとか頑張りたいと思いますと。そして、お店が再開できたときは、またお立ち寄りくださいと、実に丁寧なるお便りをいただきました。

僕らがロケに伺ったのは今の稲忠さんのお父さんの時代だったそうです。今は息子さんが社長になっておられるとのことです。

この場で、稲忠さんから、そんなメールを頂いたことを、みなさんにお知らせいたします。
ぼくらもね、皆さんが稲忠さんに活発に買い物に行かれていたこととか、地震の後にお見舞いのメールをたくさん送られていたこととか、全く知らず、稲忠さんからのお礼のメールで知った次第でございます。稲忠さんも、本当はそんな皆さんにお礼をおっしゃりたかったんだと思います。なので、HTBにメールをくださったんだと思います。

本当に、皆さんの行動力は大したもんです。お門違いなアホなことにも大活躍、そして大事なことにも大活躍、そこになんの分け隔てもなくて、あれもこれも熱心に活動されておられることに、わたくし改めて、大したもんだわと、感心したのでございます。
皆さん本当に、ブレーキと、アクセルと、上手に使っておられますね。

以下に、頂いた稲忠さんからのメールを転載して本日の日誌は終わります。

水曜どうでしょう     40歳代  男性      石川県輪島市      

以前番組で、お店にお立ち寄り頂いた、輪島塗の稲忠の代表の稲垣充治と申します。
父親の代の時に、番組で取り上げて頂いて、その後大変多くの水曜どうでしょうのファンの皆さまがお立ち寄り頂きました。
そんなお店も、今回の能登半島地震で、全壊になってしまい、大変残念な気持ちです。
しかしながら、お立ち寄り頂いた皆様から、ご心配の連絡やご支援を頂き頑張っていきたいという気持ちでおります。
当時、番組を見たファンの方々にもご心配の連絡を頂き、本当に感謝をしております。御礼まで。
再興しましたら、またお立ち寄り頂けたら嬉しいです。

との、ことでございますよ。
また、時期が来ましたら、皆様、銘々のタイミングで、活発に活動してまいりましょう。

嬉野でした。

 (2024年3月5日 嬉野雅道)

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