嬉野です。日誌です。
全世界の「水曜どうでしょう」がお好きな皆さんへ向けて。ただ、やたらと長いので忙しい方は読んではなりませんよ。
昨日は札幌ドームで、藤村さんとともにラグビーの試合観戦をし、その直前にはドーム脇の吹きっさらしの特設のトラックステージで元ラグビー日本代表選手の真壁伸弥さんと藤村さんのラグビー談義に私もラグビー素人代表として飛び入りで参加し3人でトークしましたが、ラグビーを愛する藤村さんは終始ハッピーそうでした(^^)
ハッピーといえば、「今年の水曜どうでしょうキャラバンもまた、やけにハッピー感があったなぁ」というのが私の今年の常ならぬ印象です。
そして、私がそのハッピーの正体というか、ハッピーの出どころというか、「なるほどここだったのか」と、気づいたのは、ある朝、真にハッピーな藤村さんを宿の布団の上に発見したときでした。詳細は後に述べますが、そのとき私もまたつられてハッピーな気分を新たにしたのです。まさに、人を幸せにするのは人なのだということの再認識であり、それはつまりは、藤村さんをキャラバンでそんなふうにハッピーにしたのもまた人であるということなのです。
つまり、そこに大きく寄与していた人というのは今年のキャラバンを運営したコンテンツ事業部部員たちの人的変化だったということです。
部長、局長、ヒラ部員の果てまでが、ついにキャラバンをお客と共に楽しむメンツで統一されたということです。
このような人的変化がコン事にもたらされた理由は人事による偶然の結果に過ぎないのですが、その偶然の結果の中には、HTBという組織の、人事を司るさまざまな所属長の好みというか、つまり、その所属長たちの好みから外れた者たちが流れつくべくして流れ着いた果てがコン事であった、という、偶然プラスαの事情が作用してなくもないかなぁと、私などには思われるわけです。かつての例を挙げれば私と藤村さんとが水曜どうでしょうを始めることになった28年前の人事的出発点にも「中継が出来ないディレクター」という、どの部署も欲しがらない使い勝手の悪い2人であったというファクターが「ハズレ」という人事的な偶然プラスαの力学を形成した結果だったわけですから、ここにはHTBに特有の、そして今に続く、なにがしか伝統的な力学があるのだと思われます。そして、そういう、社内的にはウケが良くないかもしれない者たちが意外に社外ではウケが良いという、これもまたHTBにありがちな伝統的な価値の系譜というものであり、これが今回も功を奏し、今年ついにスタッフが、藤村さんが待ち望んでいたメンツとなって水曜どうでしょうキャラバンの現場に揃ったのだと思うのです。
こう考えてゆけば、水曜どうでしょうキャラバンというイベントは、つまるところ、藤村さんが、会社の金で、自分とあそんでくれる遊び仲間を多数引き連れて日本中の会場を遊びながら旅して行き、着いた会場にも全国から遊び仲間が大挙して参集し藤村さんを待っている、という。。。なるほど、キャラバンというイベントの成果は、実にそこに尽きるのだなぁと、今年、私は納得するに及んだわけでございます。
事実、旅の道中にはそっせんして藤村さんのモルック練習に毎日付き合う部員がいる。彼らは藤村さんがモルック練習に行けないときも自分たちだけで熱心に、しかも張り切ってやっている。そしてその中にはなんとコン事局長もいる。さらに、藤村さんが釣りがしたいとなれば、どんなに疲れていても夜明けまで11時間だって藤村さんと夜釣りに付き合う釣りバカな部員たちもいる。もちろんアーティストにも1人釣りバカがいる。さらに、その日のキャラバンを終え、気分が盛り上がってどうにもおさまらないときは、夜にお宿で藤村さんと一緒にトランプに付き合ってくれる部員も多数いる、と、こういう塩梅ですから、藤村さんはキャラバン移動中もオフ日も退屈する間もなく大満足となる。
このように、全ての時間が隙間なく充実していること、それが今年のキャラバンの藤村さんのハッピー感に繋がっているはずで。なにしろ上記した中で私が藤村さんに付き合っているのはせいぜい水曜どうでしょうくらいなものですから(^^)それを思えば、今年、キャラバンスタッフが藤村さんの遊び仲間で埋め尽くされて本当に良かったなと私は思うのです。
そして、以上のようなことを私が実感をもって感じましたのが、福井県にあります、あわら温泉会場の朝のことであったわけです。
あのとき私はあわら温泉の旅館で藤村さんと同室でした。いつもなら朝の8時半ころには他のスタッフに混じって私もバスに乗ってお宿から会場へ向かうのですが、あわら温泉は会場が近く、徒歩で5分もかからないくらいの近さだったので、当日の朝、私は準備に向かう他のスタッフやアーチストを送り出し、私としては、徒歩でステージが始まる時間に間に合うように出かければよかろうと、部屋に残ってひとり寛いでおったわけです。もちろん藤村さんは現場に着くなり陣頭指揮に立ってあれこれと差配するのが常ですから、いつもならみんなと出掛けてしまっているはずだったのですが、その日の朝の藤村さんは珍しく甚だしい二日酔いだったらしく、私の脇の布団で大の字になって寝ていたのです。
「しかし」と、私はつくづくと思ったのです。「なるほど、たしかに彼は二日酔いかもしれないが、でも、それはおそらく、前の晩、ものすごく楽しかったからなんだろうなぁ」と。「だからついつい飲み過ぎて」それで「楽しすぎて二日酔いになったんだろうなぁ」と思えば、なるほどそれは実に幸福。実に良かった。そしてその二日酔いの気分を押して億劫だったけど、さっき朝食会場へ出向いたところ食ってみたら思いの外に宿の朝メシが美味過ぎて、思わずおかわりまでしてしまった。だから腹いっぱいで、部屋へ戻るなり倒れ込むように布団の上で大の字になり、「ダメだ。食い過ぎた。もう動けない。オレも先生と一緒の時間に行きますわ」と彼は言ったわけです。しかしこの「ダメだ」の訴えもまたメシが美味すぎて幸せだったがゆえのことであったわけです。
私はそのときちょうどウェザーニュースで雨雲レーダーを見ておりました。すると気になる雨雲がどうやら我らの頭上に差し掛かっている。「おや? 藤村さん。これは我々が宿を出る頃、タイミングを合わせたように雨が降りそうですよ」と、それとなく伝えましたところ、布団の上で大の字になって倒れていた彼は即座に答えましたね。
「雨かぁ。。。行きたくないねぇ。。。」と。
それを聞いて私は思わず笑ってしまいました。いやいや、あんたね。あんたが行かなきゃ始まらんでしょうと。そう思えばこそ、よけい可笑しくて、そして同時に、
「なんて自由なんだろう」と、私は全身で自由というものを感じたのです。
「あぁ、これを自由というんだわ」と。あんたが行かなきゃ始まらんでしょうというまさにそのタイミングで、「行くのやめよっかなぁ」と彼は言う。なぜ、そんなことを言うのか。それは、「今の状態が1番幸せだから」です。だったら行かなくてもいいだろう、そう言ってのけてしまえる自由です。
こうなると、これは無責任な発言でもなんでもない。長年彼と付き合ってきた私の見解としては20年近く前から「イベントは藤村に従え」というのが結論でした。その彼が2014年に「水曜どうでしょうキャラバン」を始めてから「スタッフは客以上に楽しまなきゃダメだ!」と、ずっと言い続けてきたことを思い出すのです。言い続けてきたのは、なかなかスタッフが全体でその境地に辿り着いてくれようとしなかったからです。たしかに仕事を楽しめる楽しめないはその人の体質にもよるのかもしれない。けれどでも、少なくとも我々は人を楽しませる仕事を生業としているわけで。その立場にいるという自覚があるのであれば、「自分に与えられた役割の範囲内で仕事はやれば良いということではすまされないだろう」という憤りが彼の中にあったからと思われます。「お客を楽しませることが仕事」と、まず思わずして我々の仕事は成り立たない。であればまず、お客以上に自分が楽しもうとしなくては始まらない。自分が心底から楽しめていれば「楽しめていない者たちが自然と視界に入ってくる」それがお客なら「自分に何かできないものか」と考えることもできる。けれど、楽しめていないのが自分であり、かつ、楽しそうではない自分がお客の視界に入ってしまった場合、楽しんでいるお客の気持ちをスタッフが削いでしまうことになる。こんな本末転倒なことはない。これこそを無責任というのだと喝破した彼は、そのことを知れよと長年に渡ってスタッフに強く言い続けてきたのです。そして彼はそのことを去年から言わなくなった。言う必要がなくなったのでしょう。
しかるに、今年彼は、あわら温泉会場でまさにキャラバンが始まろうとしていた時刻にもかかわらず、まだ温泉宿の部屋から出ず、敷かれた布団の上で大の字になったまま、「雨が降るなら、行きたくない」と言い出すわけです。これを水曜どうでしょうを知らない人が見たら「なんて無責任な」と思うかもしれない。でも、水曜どうでしょうを知っている人が見れば、このタイミングで放たれるその発言に笑ってしまうはずです。事実、あの発言を聞いて私は笑ってしまい、バカみたいに気持ちが緩んで、かつてないほど気持ちが楽になる瞬間を経験したのです。
そして私は、あのとき、この人のありように感心したのです。この人は、本当に誰にも搾取されない人生を生きているのだと。だからこの人は、自分が搾取されることに一番憤りを感じてしまう。なにより搾取していることに気づこうともせず搾取を続ける者たちのあり様に憤りを感じないではいられないのだと。だからこの人が作る番組は誰からも搾取されない番組であり続けようとするのだろうし、この人が作るイベントは誰からも搾取されない、誰ひとり搾取する者のいないイベントになっていくのだろうと思ったのです。
社会を営み、社会の中で生きていくしかない我々人間は、でも、我々がボヤボヤしてる間に上席を奪って世の中の構造を作ってしまう者たちから、何かにつけて搾取され続けるものです。搾取といってすぐ思いつくのは金銭ですが、ぼくらの楽しいはずの人生の時間もまた、頑張っているのに意味なく辛く苦しいものにされてしまっているのなら、それもまた何者かに人生を搾取されている証に違いなかろうと私は思います。でも、そんな中にもかかわらず、自分が「辛い、苦しい」と感じるのは「全部自分の責任なのだ」と考えてしまう人が増えて行くことは、搾取する者から見れば実に都合のいいことで。だって、働くだけ働かせて搾取しているのに、奪われていると思うことをせず、だから文句も言わず、ただ「このような辛い人生になるのは全て自分の責任なんだ」と勝手に思い込んで自滅してくれるのなら、搾取し続ける者には、そういう自己責任の物語を刷り込まれてがんじがらめになる人ばかりになってくれれば搾取し放題で天下は泰平でしょう。
こんなことではいけないのです。自分の人生の時間は自分で楽しいものにしなければならない。搾取されないように気をつけていないといけない。もし、楽しい人生にしようと頑張っているのに、いつまで経っても楽しくならないのであれば、それは誰かから搾取されているからにほかならないと考えるべきなのです。そう考えれば、この藤村さんという人は搾取されることから最も遠い人。そしてこの人を見ていて分かることは、搾取されない人生を生きている限りぼくらは自由でいられる、ということ。
まさにこれからキャラバンが始まろうとしているのに「雨が降るなら行きたくない」と布団の上で大の字になって言っている彼を横目にして、私は、「なんて自由な時間の中に自分はいるんだろう」と最上のハッピーを感じてしまったのです。
つまり、私の脇で布団に大の字になっている人だけが自由なのではないのです。その人が大の字になって寝ていることで、そばでその発言を聞いた私もまた果てしない自由を感じたのです。
そして、そのことはスタッフ全員もまた同じだろうと思ったのです。
つまり、このまま布団に寝て、本当に藤村さんが会場に姿を現さなくても、スタッフもお客も動揺することはなく。スタッフがおもむろに、「えぇ、藤村さんは昨日の二日酔いが祟ってまだ部屋で寝ております」と会場でアナウンスしたとしても📣おそらく会場で聞かされたお客はきっとそんな状況を笑って「愉しんで待つ時間」にしてしまうことだろう、と、私にはその絵が見えたのです。だから彼の「行きたくないねぇ」という発言に私は笑うことができたのだと思います。そして、彼もその絵が見えたからこそ、そう発言したはずなのです。
であれば、ここに自由の円環がすでに成立しているではないかと私は悟ったのです。水曜どうでしょうキャラバンというこの輪の中では誰もが自由なのです。つまり、この輪の中には搾取する者は皆無。まったく生息していないのです。そういう者がいなくても社会は成立する。彼の人生は、おそらくそのようなコミュニティを作り続けることの上にあるように私には思えるのです。
であれば、「一生どうでしょうします」とは、つまり、そういうことの実行なのだと、私には思えるのです。
「水曜どうでしょう」を始めてから28年。水曜どうでしょうキャラバンを始めてから9年にして、今年、私たちがキャラバンに感じたこのハッピー感。
水曜どうでしょうキャラバンというイベントをスタッフとして支える者も、客としてこれに参加して支える者も、各々その立場は違いながら、しかし、誰もが自分が楽しむためにキャラバンを回しているはずなのです。それはつまり気づかないところで全員がモーターとなってそれぞれがイベントを回しているはずなのです。そのことを実感するから、今年、藤村さんはハッピーでしかたがなかったと思うのです。
来週になれば、「キャラバン音頭保存会」会長の土山女子が、日本中で
来年のキャラバン候補地は「うちだ!」と手を上げてくれる自治体を経めぐりながら、どこに1番の熱意があるのか、どの場所に幸せがあるのかと、出会いを求めて旅に出ると思われますから、来年のキャラバンはもう始まっていると言っても過言ではない。
一年をかけて流れ流れて旅行く土山女子は、ある意味、キャラバンにおけるフーテンの寅さん状態です。
今年楽しくて、来年のキャラバンが今から待ち遠しい人たちもまた、すでに来年のキャラバンを夢想し始めているはずと思えば、誰もが1年越しでイメージを逞しくしながらこれからの日々を過ごし、来年にたどり着こうと指折り数えるのだと思われます。この多くの人のイメージの日々が、キャラバンを銘々で回す原動力になるのだと思われます。
日本社会が、信じられないほどダメな今日このごろ。もし、あなたが水曜どうでしょうというテレビ番組がお好きなら。来年は、世界にも例のない奇祭である「水曜どうでしょうキャラバン」に、お越しになりませんか。そして、なんでこんなものが楽しいのだろうと、実感されてはいかがでしょうか。「水曜どうでしょう」がお好きなら、おひとりでも楽しめるようですよ。お気に召せば、会場を何ヶ所か追いかけて通ううちに友だちが出来ることもあるようです。出来なくても楽しいらしいです。とにかく、あたりには「水曜どうでしょう」が好きな人しかいないという環境だけでも世間的にはかなり珍しい状況ですから。そして、搾取から逃れて、自由であり続けるよう、楽しい人生という実感を唯一の羅針盤として標榜し生きて参りましょう。
以上、分かりづらかったかもしれませんが、私は実に得ることの多かった今年のキャラバンであったし、我々は実に不思議な未来へ向け全員で進んでいるぞと実感してしまった今年のキャラバンでありましたよ、という、本日の日誌でした。
(2023年10月8日 嬉野雅道)