嬉野です。本日千秋楽を迎える藤村源五郎一座「神面記」を、今週の月曜日に見物してきましたが、これが、良かったんですねぇ。上演時間は70分と意外とあっさりした尺だったのですが、見終わって満足感がありました。
物語は織田信長が京都の本能寺で家臣の明智光秀に謀叛の襲撃を受けてその生涯を終えるという本能寺事件に想を得たお芝居ですが、今回は「藤村源五郎一座」お馴染みの笑いがいっさいなかった。しかし、笑いを省いたことは大事なことと思えました。
去年も見に行きましたが、そのときはまだ過去にやった笑いのネタが随所に残っておりました。私、ネタを知っておりますだけに「これをやるならオレの講談で前振りしてからの方がもっと素直に笑えるはず」と見物しながら思ったものでした。だから「この笑いネタはもうやらない方がいいだろうなぁ」と思い見ていましたら、今年の舞台ではそういう笑いが省かれいっさい無かった。さすが藤村さん。
笑いも、ある程度、観客に状況を分からせてでないと笑いはおきないものと私は思いますから「やるなら」笑いの分だけ情報も入れることになり、笑いが増えれば単純に芝居が長くなり、とても70分では終われない。加えてお芝居も物語で見せようとするなら、これもまたいろんな状況をその都度観客に分からせてでないと物語は面白く見せられないから、これもまた70分では終えられない。
でも、今年の「藤村源五郎一座」は70分で客を満足させたのです。
そうなると、そこには客に体感させる効果がふんだんにあったと思わせられるのです。
例えば、去年から取り入れた客席と舞台とを仕切る紗幕の存在。単純な御簾のようであれの効果は大きいのかもしれない。あの紗幕がフィルターとなり役者たちから生々しさを隠し、舞台からも客席からも時間や場所すら超越させる効果があるのかもしれない。だからこそ目の前の舞台が今のことだと思えなくなってゆき、やがて、ここが何処だかも分からなく時間を曖昧なものにさせてしまうだけに時代劇芝居に向いているのかもしれない。
そして、その紗幕に立体的に投影される文字、影、映像。そして紗幕の奥で展開する激しい殺陣、力強く優雅で迫力あるダンス。そして役者たちの立ち姿、声音、セリフ芝居の言葉の中身、情感。それらが見る者の語感を刺激して良い感じに活性化させていたのだと思います。
しかしながら、いかんせん私という人間の理解力が今ひとつゆっくりなので、観劇しながら細かいところはほとんどこぼれ落ちて何を見てきたのかを忘れているわけで。しかし、その時間は心地よい70分間だったとだけ印象は記憶しているということです。
芝居展開に破綻がなく、おそらく藤村さんは随所にいろんな効果を盛り込んで話を展開させていたはずと思いますが、私ばかりがそれに気づかず長閑に観劇していたということかもしれませんが、ならば、それとてこぼさず掬ってしまう体感的な効果もまた同時に与えていたと思われるのです。このことこそ、私は芝居としてデカいと思いました。だっていろんな人が見にくるんですから、ひとつの入り口だけでは足りないのです。
何にしても私は「藤村源五郎一座」はまさに途上にいるのだと感じました。
「なんだよ!まだ途中なのかよ!」と藤村さんは瞬時に私の発言にリアクションしましたが「いや、そうじゃない。そういう途上じゃない。何か、進むべき道を見つけちゃったんじゃないの? という意味での、途上です。だから次がまた楽しみだと思ったのです。この道を進んでいければ何処かで開けた土地に出る、1つの完成形となる」そう、予感した舞台だったということです。
劇のクライマックスで、白い寝巻き姿で、他の誰よりも迫力を出しちゃっているオッカナイ織田信長が、すぐそこに凄んでいたんですが、「あ、でも、あの人って、サラリーマンなんだよなぁと不意に我に帰ったときの一瞬の可笑しみもまた、あの一座の芝居を見る時の醍醐味であることは相変わらずで、それもまた良かったのでございます。
あ、そうそう。藤村さんの次女のふーちゃんの抑制の効いた芝居が今回ヤケに良かったのには我ながら驚きました。ふーちゃん。そんな目もあるんだね。お見それしました。やっぱり人というものの評価は軽々に答えを出せるものではないんですね。