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嬉野です。
この前、不意に思い出したことがあって。

30年くらい前だったと思うんですけど。サハリンの田舎で大火傷をして瀕死だった男の子が、北海道に緊急搬送されて札幌医大で受けた皮膚移植の手術が成功して、元気になって、またサハリンに帰って行く、みたいなことがあったんですよ。

サハリンで大やけどをしたコンスタンチン少年が札幌医大に緊急搬送

男の子の名前はコンスタンチンくん。年齢はまだ3歳になったばかり。可愛いらしい男の子でした。今、40歳以上になる日本人なら、まだみんなコンスタンチンくんのことは、「あぁ、そんなことあった、あった」って覚えていると思うんですよね。なんか、それくらい、当時の日本人にとってあのニュースは印象深い出来事だったと思うんです。

だって、ソ連のサハリンに住んでいた男の子が緊急搬送された先が、首都モスクワではなくて、当時国交のなかった日本の北海道だったんですからね。

もにろん、距離はモスクワなんかより北海道の方が近いにきまってるんだけど、なにしろ冷戦時代だったからソ連は近くて遠い国だったんですよ。

そんな時代にソ連のサハリンからやって来たコンスタンチンくんが、日本の北海道で皮膚移植手術を受けて、それが見事に成功してね。入院先の札幌の病院で日毎に回復していく様子を連日報道されるテレビニュースで見るのは当時の日本人には、なんだかとても嬉しかったよなぁって、今も覚えてますからね。

コンスタンチンくんはたった3歳だったけど、ソ連に対して日本人が戦後ずっと抱いていた暗い思い出と暗い印象を明るいものに変えてくれた、なんかそんな気がしたんだと思うんですよね、

それまでソ連といえば、北海道の漁船が操業中に領海侵犯でソ連の巡視船に拿捕されては、乗組員が何年も日本に帰してもらえない、みたいな怖いことが、ぼくが小さい頃から頻繁にテレビニュースになっていましたからね。

それが、コンスタンチンくんの手術が成功して、幼い彼が元気になっていく姿を見ると、なんか、単純にソ連の人たちと上手くやっていけるじゃないか、って思えて、日本人は安心したのかもしれませんよね。

サハリンと北海道はすごく近いから、だからサハリンで火傷を負った子が北海道に治療に来た。冷戦とか、国交がないとかいった国の事情を超えて、人と人とが交流できたじゃないか、というのがね、とても明るいニュースに思えた。その思いは30年ぶりに思い出した今も変わりませんよね。

そしてね、こんなことを30年ぶりに思い出したのも、きっと、ウクライナで起きてる戦争のことで、ぼく自身、気が重い日が続くからだったでしょうね。でも、コンスタンチンくんの記憶は、あれから30年経つのに、未だにぼくを慰めてくれるんですよね。

当時3歳だったコンスタンチンくんも、あれから32年経って今は35歳くらいになってるんでしょうね。でも、当時、本人はまだ小さかったから何も覚えていないかもしれませんね。

ネットで、当時のことをいろいろ検索してたら、日本で、すっかり元気になったコンスタンチンくんを連れて、家族3人がサハリンに帰るとき。日本のマスコミの取材に答えて、お母さんがコメントを残していて、それが、ぼくには、とても印象的だったんです。

お母さんは、ぼくら日本人に対して、こう言っていました。

「彼らの(日本人の)優しさは、おそらく、無限なのだと思います」と。

この言い方って、なんか、ふつうとちょっと違うなって思えて、なんか胸に来るものがあったんです。

「感謝しています」とか、「ありがとう」とかじゃない、なにか、それを超えたもののように思えたんです。とにかく、ぼくにはとても印象深いことばに思えて、いつまでも噛み締めてしまったんですね。

「彼ら(日本人)の優しさは、おそらく、無限なのだと思います」

でも、たしかにコンスタンチンくん救出の経緯を見ていくと、当時の日本人が本当に「なんとかしてあげたい」と官も民も一緒になって、終始、懸命に心を配った様子が見えてきますから、コンスタンチンくんのお母さんの口からあの言葉が出たのも不思議はなかったかもしれないと、ぼくにも思えてくるところがありました。

当時のソ連は、体制が崩壊寸前で、暮らしのいろんなことが不便になっていて、ましてやコンスタンチンくん家族が暮らす極東のサハリンは、首都モスクワから遥かに離れた田舎でしたから、なおさら不便になっていたはずなんです。

蛇口からお湯もまともに出ないような状態だったから、コンスタンチンくんのお母さんは、大きなタライに水を汲んで、そこへ直接電熱棒みたいなものを漬け込んで、それでお湯をぐらっぐらに沸かしていたんだそうです。コンスタンチンくんは、そのぐらっぐらに沸騰したタライのお湯に可哀想にうっかり尻もちをついちゃったんですね。

でも、日頃からお母さんに「危険だから絶対に近づいちゃダメよ」って、きっときつく言われてたんでしょうね、コンスタンチンくんは火傷しちゃったことよりお母さんに怒られるって思って「お母さんごめんなさい」って言いながらお母さんの前に現れたらしいんです。

コンスタンチンくんはそのときすでに全身の90%近くを火傷してしまっていて、お母さんは驚いて近くの診療所へコンスタンチンくんを連れて行ったんですけど、当時のサハリンの医療事情では皮膚移植など出来る設備なんかなかなくて、「残念だけど、ここでは手の施しようがないですよ」と、死を待つしかないことをドクターから告げられたらしいのです。

でも、日本でだったら、他人の皮膚を移植して治療しているらしいって、コンスタンチンくんのお母さんは、ドクターとの会話の中で知るんですね。

でも、その日本とは国交がない。そしたら、そのとき、たまたまサハリンに日本人がひとり来ていて、コンスタンチンくんの両親は息子を助けたい一心で、なんの面識もなかったその日本人を、日本人というだけで訪ねて、懸命に息子の窮状を訴えたそうです。

すると、その日本人には北海道庁にたまたま知り合いがいて、「なんとかしてあげたい」と思った彼は、すぐ道庁に国際電話をかけてくれた。

でも、「重度の火傷の子がいるんだけど、日本で治療をしてあげられないだろうか」と、いきなり国際電話で相談された道庁の人も困惑しながら、それでもやっぱり、「なんとかしてあげたい」という気持ちが強かったんでしょう、日本から飛行機で迎えにいくのだから下手をすると領空侵犯でソ連の戦闘機がスクランブル発進をして撃墜されてしまう。これはそんなに簡単な話ではないとは思いながらも、「もしここで、自分が常識的に『無理だ』と断ってしまったら、自分は生涯このことを後悔し続けるかもしれないと思い悩んだ末に、この道庁の人は外務省に電話するんですね。

そしたら連絡を受けた外務相でも「それは何とかしてあげたい」とすぐ動いてくれて、さっそく超法規的な措置をとって男の子を日本に連れて来る段取をつけ千歳空港でサハリンに迎えに行くチャーター機を手配したのだそうですが、ここまでに用した時間が僅か3時間。ものすごく早い。

サハリンにいた日本人が道庁職員に国際電話をかけてから外務省が超法規的措置を段取って、千歳にあったYS11を手配するまでたったの3時間だったなんて、これは実に驚異的な速さだったと思います。(YS11というのはプロペラ機ですね。サハリンの飛行場に離着陸できる飛行機を探して手配したってことですよね)。

当時のソ連のTOPはゴルバチョフさんで、サハリン州知事から日本の外務省に正式に「コンスタンチンくん救援要請」が提出され、日本政府はそれを受理して千歳空港から日本のドクターを乗せてYS11で救援に向かったのです。日本の飛行機がサハリンに近づいてもソ連の戦闘機はスクランブル発進することはせず、日本の救助チームは支障なく、サハリンに到着でき、コンスタンチンくんとお父さんを乗せたYS11は無事に札幌に戻ってくることが出来ました。

こうして何ひとつ言葉も分からない日本にやって来てからも、日本の病院スタッフたちは毎日コンスタンチンくんを手厚く看護してくれるし、可愛がってくれるし、ドクターは皮膚移植手術を成功させ、サハリンでは助けられないと言われたコンスタンチンくんが、日を追う毎に元気になっていって、お母さんもお父さんもどれほど嬉しかったことか。

でも、なんでしょうね。お母さんは感謝しながら、「けど、どうして彼らは、私たち家族に、ここまでのことをしてくれるのだろう」と、気持ちが落ち着けば落ち着くほど不思議に思うようになったのかもしれませんね。

最初こそ、なんとか日本で息子を助けてほしいと必死だったろうけど、でも、コンスタンチンくんの両親には、国交のなかった国どうし、手続きをどうすれば良いのかなんて、そんなことは思いもよらなかったわけで、サハリンにいた日本人に頼み込むのが精一杯のことだったでしょうから、本来なら、その時点で途切れてしまうような状況だったと思うのに、運良く、「なんとかしてあげたい」の気持ちが日本人の間で繋げられて、国の事情を乗り越えて、本当に日本からコンスタンチンくんを救援するための飛行機がやってきたわけですからね。

そして、コンスタンチンくんは、火傷も治ってまた元気な男の子に戻って、家族に幸せが帰って来たわけですから、お母さんが、戸惑うほどの幸せの中で、思わず考えてしまうような、とても複雑な思いがあったとしても不思議じゃない。だって、コンスタンチンくんの治療費も、お母さんたちにはまるで用意できなかったのに、最終的にその治療費に有り余るほどのお金が、日本中から募金されて、その総額は1億円にまで達したのだそうですから、どれだけ多くの日本人がコンスタンチンくんのことを見守っていたことか。それもあって、コンスタンチンくんのお母さんはあのコメントを残したんでしょうね。

「彼らの優しさは、おそらく無限なのだと思います」

ありがとうでは納めきれなかったコンスタンチンくんのお母さんの正直な思いが、あの印象的なコメントになったような気が、ぼくにはして、どうしても噛み締めてしまうんです。

思うんですけど。

きっと、どんな時代になったって、人が、そこに住み、そこで生きているっていう現実は、たまたまのことなんだって思って、良いんですよね。

国籍が違うってことだって、たまたまのことだと思って良いんですよね。たまたま、昔からそこに住んでいたから、それだけのことが理由で国籍が同じだったり違ったりするって。

「もう時代は変わった!」と言われても、ぼくら自身は、「変わった」と先回りするようなことは思い込まないようにしたほうが良いのですよね。

だって、過去を振り返ったとき、思い出にもういちど慰められるようなことをする方が、人間は、過去も未来も幸せなんだと、答えはもうすでに出ていますからね。そういう意味では、何も変わらない。人間がいる限り、その事実は変わらないのです。

そう心に留めて忘れないようにしなければなぁと、なんか、ぼくは、このごろ思うのです。

とまぁ、そんなことが言ってみたかったのですが、そしたら、また長々と書いてしまいましたが、まぁ、これだって誰も読んじゃいないでしょうから、良いでしょう。

(2022年4月24日 嬉野雅道)

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