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嬉野です。

まさかの戦争がヨーロッパで始まって。戦争を始めた方の国が嘘ばかりつくので、連日、テレビやネットで厚かましい嘘を日常的に耳にすることとなり、さすがに私も、あまりの露骨な嘘にげんなりしてきました。

でも80年前は、私たちの日本も中国大陸で正当な理由も見当たらないまま戦争を始めた国だったし、最後には世界相手の戦争まで始めた当事国だったから、やっぱりあんなふうに嘘ばかりついているヤケに攻撃的で信用できないヤバイ国と思われてたんだろうなぁって、改めてそのことを実感しました。

まったく、この時代に、このような戦争を見せられることになってようやく実感したんですね。ははぁ、これだったんだなってね。こんなふうに日本もかつては嘘ばかりついて他国に酷い侵略戦争をやってる相当ヤバイ国だと見られていたんだなぁという、かつての国際社会側の目線に立って、かつての日本を見れてしまったわけですね。

かつての日本も、戦争を始めたいときには「相手が悪いんです。私らはやむなく戦争を始めたんです」と国際社会にバレバレの大嘘をついて戦争を始め、そのうち自分で始めたその戦争に負け始めると今度は自国民に対して「我が国は、また勝ちました。この戦争は順調です。日本の軍隊は世界最強です」と毎日のように真っ赤な嘘をつき続けていたわけですね。

でも、素朴に考えたらですよ。戦争が始まってから嘘ばかりついてるんですから、その政府には正直なことが言えない状況があるってことが世界からは丸わかりですから、戦争は相当負けちゃってて、もう、このあとどうして良いのか分からないくらい、かなり焦ってるんだと、ウラハラに世界に白状してるようなものだったかもしれませんね。

とはいえ。

つい、戦争みたいな大きな話から書き始めてしまいましたけど。

してみようと思ったのは、嘘をつく、という話なんです。

まぁ、嘘をつくこと自体は、わりと日常的なことだと思いますから。人間が嘘をついたとて、それほど驚くことでもないし、恥じることでもないと思います。まぁ要するに嘘も程度問題であって、状況しだいで、ついても良いとは思うんです。エイプリルフールなんて日もありますからね。

でも、もし、呆れるくらい平気で嘘がつけるようになってしまっていたら、そのときは用心した方がいい。

だって、嘘は毒を出しますから。そして知らないうちに嘘の出す毒は人の体を蝕みはじめますから。

いや、ほんと、嘘はオッカナイんですよ。とにかく嘘ばっかりついてると、その毒が最後には顔面に滲み出てきて、その人は、なんとも不幸せな顔になってしまうんですよ。

私はこういう人を、かつて会社の上層部に何人か見て来ましたからねぇ。なんかね、その人たちね、知らないうちに妙にあくどい顔になってたんですよ。

「あれ? あの人、あんなヤバイ顔してたっけ」

これは恐らく、60歳を過ぎてね、徐々に肉体にも衰えが出てくると、もう隠せなくなるんでしょうね。だから嘘ついて来た毒の量がレットラインを超えてしまったら容赦なく顔に出ちゃう。

若くて、まだ元気だった頃なら、どんだけ嘘ついてても、明るく快活な顔してられたんでしょうけどね。でも、それが還暦を過ぎてもまだ嘘ついてると、土手が決壊するように、一気に顔に不幸せが押し寄せてしまうんですね。だから会社の上層部で権力を持っちゃったような地位にいる人の顔が、突然こんな2度見するような顔になってたら、

「ははぁ、やっぱりあの人、けっこう長いこと平気で嘘ばかりついてたんだなぁ〜」と思って間違いない。

年取ったら嘘つきは顔に出ちゃうんです。ということは、嘘も、つき過ぎると美容にも良くないってことですよ。

で、これも本当のことなんですけど、正直な権力者って、実際、明るい顔してるんですよ。そして、そんな明るい権力者のスピーチって、それを聞いてるこっちの気持ちまで明るくさせるんですよ。これは驚きですよね。つまり、それだけのチカラを持ってるってことなんですよ正直者は。

正直者は人の気持ちまで明るくし、反対に嘘つきは人の気持ちまで暗くするってことですよ。

だから、正直でいられる人の数が増えはじめたら、やがて間違いなくその社会は明るい社会になるんです。なんで、もし、なんとなく社会が暗かったら、これは嘘つきが凄く多い社会なのか、あんまり正直なことが言えない社会ってことですよね。

このことはね、忘れないでおこうと、私なんかは戒めのように思うんです。

だから、私も中年を過ぎたら、自分に嘘つかないで済むように、できないことは、「できないですよ」と、公言するようにしました。まぁ、もともとそういとこあったんですけどね。

もちろんこの社会ではね、仕事ができるフリをしてる方が得なのかもしれませんよ。いや、そういう顔でもしていなきゃ上司や同僚や後輩にまで心ない嫌味を言われたり軽く扱われたりするかもしれませんからね。人間、いくつになったって軽く扱われるのは気分が悪い。それで、ついね、「できない」と正直に言えなかったりすることもあるでしょうし、もしくは、プライドがそれを言わせないとかもあるかもしれないしね。

でも。これだって、嘘をついてることに変わりはないんですよ。

だから、こんな嘘でも、つき続けていると、つまりできるフリし続けてると、いつかその嘘で自分が苦しくなるときが来るんですよ。

で、もしも自分が苦しくなってきたら、それはもうしょうがない、そのときは「できないことは、できませんよ」と、会社の中であろうと少しずつ正直になって行くしかないわけです。

やっぱり人生は、自分が正直でいられる場所を1つでも多く作れた方が明るいものになるんですよ。そのために少々社会的に軽んじられても、正直でいられる環境を1つでも多く獲得する方が人生はハッピーですよね。ぼくは、そのことをね、ある日の昼下がりの飲茶屋で、つくづく思ったんです。

だって、餃子が美味いんだ。海老と竹の子が包まれててね。これに酢醤油をつけて口に入れて噛んでごらんなさいな。まず食感にやられてそのあとで味にやられるから。竹の子がやっぱり美味いんだよねぇ。そして茶です。茶を飲むと、口の中がいっぺんでさっぱりしてまた餃子が食いたくなる。「無限に食べてられるよねぇ」、近くのテーブルから他の客の声が楽しそうに聞こえてくるんです。それを聞いて私もまったく同感ですよ。よし、次は春巻きを食ってやろうと思うから、私はホール係のお兄さんを呼んで、「春巻き4本ね」と追加注文して、また、そばにある餃子を口に入れ、竹の子と海老が口の中でプリっと弾けて、旨味が広がってね、夢中で噛んで飲み込んだら、また茶を飲むんです。そしたらまたさっぱりしちゃって。春巻きがまたねぇ美味いんですよ。椎茸がね、旨味を出しちゃって無茶苦茶美味い。アッツあっですよ春巻きは。口の中、ヤケドですよ。でもねぇ「なんて美味いんだろう」と、心の底からハッピーになれる。

そのとき思ったんです。いま、自分が心の底から幸せを感じちゃてるのは、そうか、この場に、まるっきり嘘がないからなんだな、ってね。そこに気づいて、私は本当につくづく納得したんです。

美味いものを食べてるときに人がハッピーでいられるのは、味だけのことじゃなかったんだって。そこに、まるっきり嘘がなかったからだったんだ、って。

美味いメシを食ったら、「美味い、美味い」と口にすることになんの躊躇いもない。だって正直に発言できてしまうほど美味い状況しかないから。正直でいられる世界では、誰にも気遣いをせずに済んでいる自分がいる。だからハッピーになれるんですね。

やっぱり嘘をつくたびにね、人間のメンタルは嘘のダメージを浴びていたってことなんでしょうね。

嘘は、ついてたら上手くなるし、だんだん嘘をつくことに抵抗も無くなっていくけど、それでも嘘をつく自分に、自分のメンタルは、けして慣れたりはしないんでしょうね。

だから嘘をつくと、必ず本人はダメージを浴びるんです。

そのダメージが、積もり積もると、最後は顔に滲み出してきて、それは防ぎようもなく、その人は不幸せな顔になって行く。

まるで祟りみたいですけど、これ、本当の話なんです。

いや、もちろん嘘ついたってイイと思うんです。だって厳しい親の家庭に育った子供は嘘つきになるという格言すらあるくらいですから、嘘をつくのも方便です。厳格なものに囲まれてしまったら、そのときは、場合によっては、嘘だってつきましょうよ、嘘ついて、やっと息がつけるって状況ならね。

逆に、「私は嘘はつけない」という個人的なこだわりや信条で、ひとっつも嘘をつかずに生きるようでは、かえって人間関係に摩擦が生じるかもしれない。

そんなときは大いに嘘をついてコミュニュケーションを円滑にする方が社会のためだってこともあるでしょう。つまり、ここは嘘をついた方が良いでしょうというタイミングは当然あって、そんなタイミングには、ぜひ躊躇なく嘘をついてほしい。それができない人は融通の効かない人、ということになりますからね。

結局、嘘をつく、つかないは、バランスの問題です。

「自分の肉体と精神を蝕む毒となって襲ってくるほどに、嘘をつき続けてはいけない」というだけのことです。

そこまでの嘘をついていては、その人の人生はけしてハッピーにはなりません。それは人生の大損ですよ。

例えばね、

「すいません。ヅラでした!」

と、言ってね。ある日、みんなの前でヅラを脱ぐ。なんか、そんなことですよ。自分もキツかったんです。だからもうしんどくなってみんなの前でヅラを脱いだんです。そしたら辺りには爆笑が巻き起こる。脱いだ本人は、恥ずかしいと思うかもしれない。でも、そこに起きた爆笑は、けして蔑みや嘲笑ではないんです。みんなも薄々気づいていたってことなんです。でも、だれも言えなかった。つまり、周囲のみんなも黙っているのがキツかったんです。だから本人が自らの手で脱いでくれて、本当にホッとしたんです。ホッとできたから、みんなは笑えたんです。

嘘は、本人の知らないところで、案外バレてるってことありますよ。本人だけがバレてないと思っていただけだった、なんてことね。

だから結果として、正直は、自分だけでなく、周囲の人たちも幸福にするという、これはひとつの例え話です。

ですから別に、これ読んだからってヅラを脱ぐことはありませんよ。脱ぐ脱がないは自分のタイミングなんですから。

私だって、この先でヅラをかぶるときは、やっぱり世間に黙ってかぶってるかもしれませんしね。だって、ヅラの場合、かぶってる本人が、かぶってること自体を忘れてたらねぇ、それってもう嘘ついてることにはならないかもしれませんからねぇ。で、ある日、だれかに「おや?」って顔されたら、「あ、そうか、そうか」って気づいた顔して、まぁ、そのときは脱ぐということにしてね。

だって、いつ脱ぐか、どうやって脱ぐか、コレだってちゃんと考えた上で首尾よくやらないといけない重大事ですからね。正直になるんだって、タイミングはとっても大事なんですから。やるんなら、上手くやらないと。

ま、どーでもイイですね、そんなことは。では、銘々でがんばりましょう。

ということで、今日のお話は終わりです。これ以上はもう、ありません。

(2022年4月3日 嬉野雅道)

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