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嬉野です。
今日は独り言です。

ぼくの中に「死んだらどうなるんだろう問題」というのがあって。

その答えとして、天国に召されるとか。三途の川を渡るとか。あの世で懐かしい人に会えるとか。いろいろあるけど。

でも。
やっぱり。

そういうのはみんな生きてる人が残していった話ばかりだから。それらの物語はみんな、生き残っている人たちにこそ有用な物語ってことだろうな、と思えてくる。

そもそも古今東西「死んだらどうなる」を体験した人っていないわけだから。いたとしても、せいぜい臨死体験した人くらいだろうから。だったら、あの人たちってけっきょく生き返ってきた人たちだから、けっきょく生きてる人の話でしかないわけだもんなぁ。

しかし。

いつも考えながら、おかしいよなぁと思うことは。

こうして世の中には、どんなに考えたって分からない事があるってことね。

だって「死んだらどうなるか問題」も分からないけど「生まれる前は何してた問題」も、どんなに考えても分からないもんね。

でも、なんかねぇ。

このことが、実は、とっても重要なことのようにも思えるんだよねぇ。

だって、それって。

分からないことを、分からないままにしていたって、人間は生きていけるってことなんだから。「そのことを思い出せよ」って、言われてるような気もしてくるんだよね。

つまり、この世界には、人間が考えても分からないジャンルってのがあって、そのジャンルのことは、おそらくぼくら人間は、考えなくてもイイ、ってことなんじゃないのかねぇってことね。

だって、そういうジャンルには、用意されている答えそのものが、そもそもないのかもしれない、って思えてくるから。

「死んだらどうなる問題」も、「生まれる前に何してた問題」も、そのジャンルの話だからね。

でも。

こんなふうには思うんだ。

空から降ってくる雨粒だけど。

雨は、どんだけ高いところから落ちてくるのか知らないけど、落下しているうちは、ずっと丸い水滴という形を保持して落下している。

それが、最後には、大きな大きな海に落ちてしまう。

海に落ちたら、水滴は💧もう水滴じゃなくなってしまう。だって、海に落ちて、海とひとつになってしまったからね。

でも、なくなったわけではない。

海に呑まれて、海とひとつになっただけのことだからね。

なのに、さっきまで落下していた、あの丸い形の水滴は、たしかにもう、影も形も、どこにも存在しない。

今はもう、大きな大きな海の一部になってしまったから。そうなってしまったから。

もう、永遠にとり還すことは出来ない。

つまり、雨粒は、永遠の中に還って行ったってことになる。

人間もなんか、そんなことなんだろうなぁって思う。

つまり、人間が生きてる、ってことも、落下していく水滴も、きっと同じような存在なんだろうなってこと。

それだけのことなんだろう。

でも、そうだとしても、自分が大きなものの一部になるということが、どういうことなのか、そのときになってみないことにはわからないだけに、落下を続ける以上、人間は、意味もなく、そのことを不安に思うときが来るんだろうな。

不安なことを見つめ出すと、そこだけが拡大されてイメージされるから、やっぱり、そのイメージに慄くだろう。

でも、慄いても、結局その慄いてる自分すら永遠の中に消えてなくなるわけだけどね。

だったら、大きなものとひとつになったあとのことは、そもそも考えなくてもイイことであることは間違いがない。

ただ、そうはいっても、不安な意識は、それでも分からないことを考え続けてしまうだろうね。

「どうなるんだろう、どうなるんだろう」って。そればっかりにしがみつこうとする。

しがみつく。それが生きてるってことの一面でもある、とも思う。

でも、自分が消える事がそんなにもオッカナく思えるのなら、オッかながってる人たちは全員、「生きてることは悪くない」って、自分として生きてることを、やっぱり少しは楽しんでいたんだなって、ことくらいは分かる。

そうね。

考えて分かるのは、多分それくらい。
でも、それって意外に大きな収穫かもしれない。

海は太陽の光に熱されて、今日も海から水蒸気が立ち昇り、水蒸気は、どんどん空へ昇って行く。どのくらいの高度まで昇って行くだろう。

やがて不意に高高度の大気に冷やされて。

氷の粒となって落ちて行く。

氷の粒は落ちながら、いつのまにか水滴となり、さらに落下を続ける。

水滴は💧いつ自分が水滴になったか、気づいているだろうか。自分が何処から来て、何処で生まれたのか、覚えているだろうか。

自分は、なぜ高いところにいて、なぜ落下し続けているのか、分かっているだろうか。

自分というものが居て、楽しんだり、哀しんだり、苦しんだりしているから、人間は自分の意思で人生を生きているように思うけど、でも、落下し続ける水滴の意思は、落下にどういった影響を与えることが出来るだろう。

考えても答えの出ないジャンルのことに、人間が影響を与えることはない。

人間は、考えて分かるジャンルのことだけを、マジメに考えて判断していかなきゃならないのだと思う。

それが人間の役割なんだろうから。

そうだからこそ、人間にも考えたら分かるジャンルがあるということなんだろうから。

だとすれば、人間が最後に大きなものの一部になることは、考えたくもなるだろうけど、ジャンルが違うから、人は頭を麻痺させてでも、無批判に受け入れるっていう道だけが、きっと自然な道なんだろう。

雨粒の本人が、落下していることや、最後に海に落ちることを見つめもしないで、当たり前に受け入れたまま、海に落下してゆくように。

人もそのままを受け入れるくらいで、きっと、なんの問題もないってことを、今のうちから信じる方がイイような気が、少しはしてくるね。

(2022年3月20日 嬉野雅道)

 

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