おはようございます。嬉野です。
どうで荘の住民の皆さん、ご機嫌いかが? 私は日々"ご機嫌"です。
やっぱりですねぇ、努めて”ご機嫌"でいるようにしないと、人間、ストレスを抱え過ぎては、知らぬうちに病を得ますからね。ストレスフルは剣呑です。
人生は元気であってこその物種だと思いますから、サラリーマンの皆さんも、ここは意識して、日々、ボチボチ辺りを走って満足しとくのが一番と心得ましょう。過度の欲望は病の素です。
さて、そんな私も、「大して好きなものもないってのも困ったもんだなぁ」と、長いこと不満に思っておりましたところ、どうやら珈琲の味だけは性に合ってるようだと、近年、分かりましてね。だって私、どれだけ飲んでも飽きませんからね。これはやっぱり好きなんですね。
それも、当節、世間に溢れるほど出回っている深煎りの真っ黒い豆の珈琲ではない、"浅煎り"と呼ばれる珈琲こそが、私の生きている素になってる元素と寄り添うくらいに相性が良いみたいで。もうね、それさえ飲んでいれば、
「なんだ、オレは気分がいいじゃないか」と、不意に我身のストレスレスに気づくほどでして。
それもあったんでしょう。私も、日々が、"ご機嫌"になってまいりました。
ところが。この浅煎りの珈琲を飲ませる珈琲屋さんが、日本にはまだ少ないのか調べてもなかなかヒットしない。
ですが、このところ様子が変わって来たようで、ちょこちょこヒットするようになってきた。なので私、東京に出張するたびに時間を作って、電車を乗り継ぎ、乗り継ぎしながら、あちこち出向いて探し出したお店を訪ね歩くようになりました。
そんな中で今、ロケーションがたいそう気に入ってるところがありましてね。
いや。そこが何処だかこれから教えるってわけではないんですよ。だってそんなもんねぇ、銘々で探し当ててくださいな。それも日々の楽しみのひとつとなりますからねぇ。
さて、そのカフェはですねぇ。川のそばにありましてね。そこのデッカいガラス戸越しにお店から土手が見えるんですよ。
まぁ、要するに視界は土手に遮られて肝心の川の様子はまるで見えないロケーションなんです。
でもね。川なんて、そんなのどーでもいい、ってくらい、その土手の風情がよろしいのです。
これねぇ、これまでのお店の発想でしたら、やっぱり川を見下ろせる2階にお店を作ったでしょうね。でも、いまさら川を眺めてもぼくらは視覚的に驚きがなかったんです。でも、その店は、あえて一階に店を作り、確信的に、"見るべきは土手だ"と言っているんです。
だって、その土手ねぇ。何処かへの近道なんでしょうね、わりに頻繁に人が行き来する土手なんです。自転車で、その土手を通っていかれる方もおられるくらい。
土手というのは一段も2段も高いところに作られてますでしょ? だから、お店から道を一本隔てたところにあるその土手は、眺める私の視線では若干見上げる感じとなる。
すると、この土手の抜けは、空だけなんです。これが素晴らしい。
空と土手だけ。
なんてシンプルなしつらえでしょう。ですから、そのお店に行くのは、お天気の日を選びます。土手の抜けが青空になりますからね。ですが、ベストは、その青空に1つ2つ3つと、ぽっかりぽっかり雲が浮かんでる日です。雲が浮かぶと背景に奥行きが出ます。複雑になる。これが最高です。
でもまぁ、これは行ってみないと分からないから当たり外れはある。
お店のお姉さんにカウンター越しに味のことをいろいろ聞いて、じゃぁ甘味のありそうなホンジュラスにしてみるかとオーダーして。たしかにほんのり甘みがあって後味もスッキリだなと満足しながら、土手をじっと眺めておりますと、おもむろに上手(かみて)から人がフレームインしてくる。
その瞬間、心が躍ります。
で、その人は、ただ下手(しもて)へと歩いてゆかれる。
それが、独りでゆっくり土手を歩いて行かれるご老人だとしても、ただ歩いているだけが絵になっている。どうしてもずっと見てしまう。それくらい気持ちがいい。
しばらくして犬連れで歩いてくる人がフレームインしてくる。これも良い。2つの生命体の動きがなぜか幸福にマッチしている。
次に下手(しもて)から小さなお子さんと一緒のお母さんがやってくる。親子連れは上と下とで視線の絡み合いがいちいち素晴らしい。
そこへ自転車に乗った社会人が軽快に登場したなり、スッと走り去ってゆく。
それからしばらく土手には誰も登場せず、抜けの青空に浮かぶ白い雲だけが少しずつ形を変えながら流れて行く。
やがて、若い恋人どうしが上手から登場する。何を話しているのか声は聞こえないけれど、ずいぶんと楽しそうに笑いあって歩いている。
このようにバリエーションも幾つかありますから、土手は見応えはじゅうぶん。飽きない。いや、それどころか、永遠に見ていられる。
おかしなもので、それだけで幸せな気分になっている。不思議ですよねぇ。
あの土手は舞台です。演劇です。
でも、あの土手が舞台だと言われてね、「あそこを歩けば大勢の観客に見られるんだぞ」と言われてね、「さぁ、これ以上ないというくらいに自然に歩いてください」とか言われたら、その瞬間から他人の視線を意識してしまって、あの土手を歩く姿がギクシャクしてしまいそうです。
他人の目を意識してしまっては、人はもう自然には歩けない。あの土手の光景も見るに堪えない物になる。ぶち壊しです。
不思議ですよねぇ。
自然な動きって、いったい何?
でも、自然な動きって、普段は誰もが苦もなくやってのけてることなんだなぁってことを、あの土手は、私に教えてくれる。
でも、そんな自然な動きも、それを"やれ"と言われたら、もう訳がわからなくなって人は自然には動けなくなる。
なぜ、誰もが普通にそこら辺をありふれて動いてるときには勝手に溢れさせている自然な動きなのに、どうして、"やれ"と言われたら、出せなくなるのか。
いや、それより。
誰もが普通にそこら辺でありふれて出しちゃってる自然な動き程度のものが、なぜ、私たちの目をここまで楽しませてしまうのか。どうしてそんなありふれたものを、ぼくらはいつまでも飽かずに眺めていられるのか。
本当は、そっちが不思議なんです。
こういうものを眺めて、こういうことを思ったとき、エンターテインメントの目指しているものって何なのだろうって思って。いっつも不思議な気持ちになるんです。
つまり、結論から言うと。
エンターテインメントのお手本は、もう、この日常の世界の中に、すでに、ありふれて"ある"、ということです。
特別なことではなく、ありふれてある、そのありふれてあるものを再現する行為の中にエンターテインメントの役割が存在する。
ぼくらが既にありふれて持っている、日常の中に幾らでもあるとるにたらないものを、エンターテインメントは別の角度から見せてくれる。そうやってエンターテインメントに見せられたとき、その覗き窓の中で、ぼくらがドキリとするくらいに、何かが光る。
日常に飽きていても、ぼくら生命体に一番力を与えているのは、間違いなくこの穏やかな日常。
エンターテインメントは、そうやって忘れそうになることを、思い出させてくれる。
多分、そのような関係性としてエンターテインメントはあるような気がします。
だからエンターテインメントは、"楽しんで終わり"という終着駅ではなく、ぼくら人間の中で燻って、まだ価値付けされていない何かに、私やあなたが自分で火をつけるキッカケをくれる、そんな旅の始まりのような始発駅。
エンターテインメントは、いつも、そんな位置に立っている。
なんだか、そんな気がします。
珈琲を飲むとカフェインの作用で脳が覚醒します。そこがお酒と違う珈琲の立ち位置です。
では、おかわりをもう一杯。
次はエチオピアの浅煎りでエキゾチックな気分になってみようか。グアテマラ、コスタリカ、インドネシア、浅煎りの珈琲は、味の違いがはっきり分かるから飲んでて楽しくなりますよ、と。
いくら言ったところで、依然として世間では、"間に合ってます"的に反応される浅煎り珈琲。
まだまだ、お呼びではないんですね。
これもまた不思議ですよねぇ。
美味いのになぁ。
(2022年2月20日 嬉野雅道)