広島へ行く途中で京都に寄った。「途中下車をして京都観光だなんてオレも大人だなぁ」と子ども時代の自分を思い出しながら感慨深げに新幹線を降りてみた。
京都駅を出て歩きながらつらつら思うに、新型コロナの時代になって1つだけ息のつけたことは、気後れするほどの人混みが観光地からなくなったことであろうか。お陰でひっそりとした風情の中を気紛れにひとり旅できるようになった。
地下鉄に乗って京都市役所前で降り京都の町を歩きだした。いつの頃からか昔ながらの町屋さんが古民家cafeに化けたのが三条辺りではよく目にするようになって、最初の頃こそ京都の町の生活感が薄れていくようで寂しく思えたが、この頃はもう慣れたのか、そんなことも思わない。それどころかcafeの数もこれだけ増えれば、味の良し悪しさえさておけば、予約なしでふらりと訪れても大丈夫な町屋cafeもけっこうあり、こういう場所がこんなに多くあってくれるならば、京都の町歩きに疲れたときにはありがたい。
店構えで見当をつけて町屋cafeの敷居を跨ぐと芳しくカレーの香辛料が匂ってきた。この匂いでカレー好きの気持ちは単純に盛り上がる。古民家cafeの佇まいは風情があるから席についたあと旅人の心を落ち着かせてくれる。この頃は席も離されるから尚のんびりする。ひょっとしたら、今は、ひとり旅にはもってこいの時節かもしれない。私はレンズ豆と挽肉のカレーを食べた。まぁ取り立ててここで書くほどの感動もなかったが不満もまたなかった。あてもない町歩きに疲れた旅人には充分すぎる味であった。ありがとう京都。
町屋cafeを出るときにふと思い立って、東山七条辺りにある三十三間堂まで、午後の陽の傾く頃だったけれど40分ほどの道を歩いてみた。三十三間堂は平安時代の末に建てられた長さが120mもある横に長い大きなお堂で、中に金色の千手観音が千一体もおわしますという。もちろん観音様のご利益を求めて向かったわけでもなかったが、なんだか心誘われて行ってみたくなった。
そういえば子どもの頃に聞いた「わらしべ長者」という昔話も観音の夢のお告げを信じて歩き出したホームレスの男の旅の物語だったように思う。
ある晩、観音が夢で男の枕辺に立ち「明日の朝、おまえが最初に手にしたものを大事に持ち西へ旅立つように」というお告げを残した。未明に、「あぁ、今のは夢であったか」と目が覚めて男は不思議な気持ちになった。だが、明くる日、男が最初に手にしたものは、実につまらないものだった。
それは男が顔を洗いに木賃宿の寝床から土間に出てすぐのことだった。男は不覚にも足がもつれて土間で転んでしまった。お陰で手首の辺りをしたたかに打って擦りむいてしまった。情けない気持ちで立ち上がった男は、無意識のうちに自分の手が何かを握りしめていることに気づいた。見ると、それは、なんということもない、そこらに無数にこぼれ落ちているわらしべの一本であった。男はヒリヒリする擦り傷の痛みを手首に覚えながら昨夜の観音のお告げを思い出しては言いようのない空しさを覚えた。
「明日の朝、最初に手にした物を大事にしながら西へ向かえ」と観音は言ったが、こんなわらしべを大事にしてなんの利益があると言うのだろう。やっぱり自分はほとほと運のない男なのだ。観音はこんなわらしべを拾わせて自分が悦ぶとでも思ったのだろうか。とは言え、男にはそもそも行く当てなどなかったから、観音のお告げの通り、わらしべを玩びながら西へと歩き出すしかなかった。
その日は朝から良く晴れていた。旅の初日が雨降りでなかったことは幸いだった。しかし夏のこととて少し歩けば、それだけで汗が噴き出てくる。だが、そのお陰で時折り吹いてくる風が汗ばんだ身体には冷たく爽やかに感じられもした。
道中、一匹のアブが男の胸に止まったとき、男は無意識にこのアブを捕まえると、遊び心でアブの胴体に例のわらしべをくくりつけてみた。
胴体のくびれにわらしべを括り付けられてアブは逃がれようにも逃がれられない。男には、わらしべの先でぶんぶんと羽音をさせてとどまっているアブの様がずいぶん面白く、男は自分でも知らぬうちにニコニコ微笑みながら、わらしべの先で羽音を鳴らすアブを面白そうに眺めて飽くことがなかった。
夢中で眺めていたところへ、不意に男を呼び止める者があった。驚いて振り向くと立派な牛車を引き連れた若党が、男に「アブを譲ってくれ」と言う。見ると牛車にはさる大家の御曹司と見える童が乗っていた。あまりにも面白そうに男がアブを眺め眺め歩いていたものだから、それを見て子どもは、そのわらしべが欲しくなったに違いない。男は「最初に手にした物を大事にして」という観音のお告げも忘れて、アブを括り付けたわらしべを気前よく若党に渡してしまった。童は若党からわらしべを受け取るなり牛車の上で相好を崩し、わらしべの先で羽音を鳴らすアブに見惚れ笑みをこぼした。男は幼な子の屈託のない笑顔に慰められる思いがして思わす微笑んだ。去り際に若党は男の両手にズッシリとした瑞々しい蜜柑を握らせた。「アブとわらしべの礼だ」と言う。「金持ちというものはずいぶん気前の良いことをするものだ」と、一瞬、男は鼻白んだが、胸のすくような鮮烈な柑橘の香りを吸い込むうちに気持ちが晴れて行き、「そう言えば」と、詰まらないわらしべが立派な蜜柑に変わってしまっていたことに、そのときあらためて気づいた。
こうして、西へ旅する男が手にした蜜柑はそのあと立派な反物と交換され、その反物がまた他のものと交換され、いつしか男には馬が与えられ、終いには大きな家屋敷と綺麗な嫁を得てしまうというような話だったと思ったが、「わらしべ長者」は、「観音の霊権は、かくも有難い威力がある」と、宗教が世の中に広く宣伝し始めた時代に出来た御伽噺なのだろうから、意外にこれから行く三十三間堂が創建された頃に出来た物語なのかもしれない。それは今から950年ほど昔のことである。すでに今は時代も移り令和の御世であるが、観世音菩薩の霊権は今もってあらたかなのかもしれない。
さて、古民家cafeを後にして歩きだした当初こそ気候も爽やかに感じられ散策も楽しげだったが、京都の風は急に冷たさを増し、四条を過ぎたあたりで、やけに肌寒くなってきた。橋を渡ろうとすると、いきなり冷たく鴨川から風が吹いてきて橋の上で寒くて参ったから、私は足早に橋を渡って鴨川沿いを七条くらいまで下がった。
そのうち人通りもだいぶ減った感じがして、町並みもどことなく古めいていくように思えた。やけに昭和な佇まいの建物ばかりが並ぶ場所があり、「あの辺りはずっと時間が止まっているのだろうか」と妙な気持ちになった。
曇天の空の下、冷たい風が吹くというのに鴨川の河原には、鴨や鷺たちが賑やかに群れて遊んでいる。餌を探して水に潜るやつもいれば、ウォータースライダーよろしく流れに乗って遊ぶやつもいる。鴨川から目を離し左手奥の山あいを見れば赤い朱塗りが鮮やかな塔が見える。清水寺だ。「清水の舞台に上がるのもいいか」と一瞬思わないでもなかったが、三十三間堂におわします観音様を見ばやと、そのまま鴨川沿いを下ってようよう三十三間堂にたどり着いたころには閉館間際の時刻となっていた。
お堂の中に居並ぶ金色の一千一体の千手観音像の存在感は、これはもう圧倒的で、いったいどれだけの年月をかけて、どれだけの数の仏師を集めて、これだけの造形を作り上げたのだろうと思うと、そこから先はもう訳がわからなくなるほどだった。一千一体の観音像というのはそれほどの迫力だったのだ。とにかく広大無辺かと思える気の遠くなるほどの規模だったのだ。
さすがに今では観音像の金箔も所々薄れ剥がれ暗い地の色が出て落ち着いた重厚な味わいの渋い色味になっているが、創建当時は今のこの重厚さとはまるで違った、辺り一面に黄金色に輝く一千一体の観音像として並んでいたわけであり、金色の観音像を安置した堂内の彩色も朱塗りの柱に白壁、天井は極彩色に彩られていたわけだから、当時それを見た人々は、さぞかし度肝を抜かれ、皆悉く感動したことだろうと思う。
それに、最初目の当たりにしたとき、観音像の数に圧倒されて、この数なら、ことによると観音像は同じ型から作られた鋳物かと思ったけど、よくよく見れば観音様は1つとして同じお顔がないのである。つまりこれは全てが木彫りの仏であり、一千一体、それぞれに彫られていたわけだ。
そして、この一千一体の観音様を守る役目を担った、二十八部衆という守り神までがお堂の中には居並ぶのである。二十八部衆のその何とも言えないリアルな表情を湛えたその迫力もまた圧巻で、雷神の前では膝を追って下から大きく仰って見上げると一層の迫力が出ると案内板に書いてあったので、その通りにしてみると、たしかにどえらい迫力で、しばし見惚れてしまった。
平安末期のあの頃も、ひと握りの富裕層がこの国を収め、庶民との経済格差は今以上に激しかったのだろうが、当時の富裕層はこのように千年も後の世まで残る文化財を作りまくっていたわけで、そして、これだけの迫力を形にできる仏師というアーティストを多数養って、千年後の我々庶民の目をも楽しませてしまっているのであるから、それを思えば、今の富裕層は、千年先の世に残すような文化財として、いったい何を作ってくれているのだろうかと知りたくもなる。いずれどこかの富裕層が有難い令和の大仏や大観音を年月を費やして高明な芸術家に作らせれば良いのにね。
むかし汐留の再開発が計画されたとき「汐留に森を作ればいい!」と発言した歴史学者がいたけれど、本当に作ったら良かったのになぁと今しみじみと思う。
原宿にある明治神宮の森は、150年先に森がどうなるかまで見越して植樹されたらしいから森を作る技術というかものをかつての日本人は持っていたわけだ。それを聞いたとき「150年も先のことを当たり前に考えて木を植える、森づくりという技術は、実に大したものだよなぁ」とずいぶん感心した。
今みたいな時代にこそ、スカイなんとかツリーとかじゃなくて、そんなもん作ってどうするのよと思えるような、見上げるほど巨大な金ピカの大仏とか、鬱蒼とした森とかを大都会の真ん中に、信じられないほど巨額な金と才能を投入して作り始めたら、作り上げられてゆく光景を、朝な夕なに日本人は目にすることになる訳だから、意外にその光景だけで日本人の心は真人間になって希望を持つようになるのかも知れないと、そんなことを誰かが少し前に書いていたように思うけど、本当にそうかも知れないと、段々と自分も思わないでもないんだよねぇ。
それに世界だって日本人が突如として巨額の投資をして東京の都心のど真ん中に広大な森を作り始めたとか聞かされたら、当然、最初は散々にバカにするかも知れないけど、徐々に注目せざるを得ないようになるのかも知れないもんねぇ。と、このごろ日増しに思ったりするもんね。
聖武天皇が奈良の大仏を作った動機にも、蔓延する疫病が大きく関わっていたという最近の歴史家の話を聞けば、この新型コロナ禍の今ならば、ぼくらも実地に造立されて行く大仏に心癒され励まされる自分を発見するかも知れないよなぁ的なことを、なんとなく思うようになりますよね。と、いうところで、本日のお話は、おしまい。
(2021年10月20日 嬉野雅道)