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夏の終わりの赤とんぼ(水曜更新D陣日誌:嬉野)

どうで荘の住民の皆さまこんにちは。大家の嬉野です。ただいま、千歳空港へ向かう電車の中でこれを書いていますが、今日も窓から見える北海道の風景は爽やかです。それでも札幌は今年の夏、連続20日間も気温35℃に迫るような、蒸し暑い、道民としては経験のない猛暑に襲われました。


いつもの夏であれば我が家のようなマンションの上層階は窓から風がビュービュー吹き抜けますからクーラーなんか要らないのに、今年は窓を開けてもちっとも風が入ってこない。そして蒸し暑い。耐えがたい暑さ。仕方ないから押し入れから扇風機をひっぱり出して、幾分冷たいフローリングの床に身体を投げ出し背中を冷やそうと仰向けになり、扇風機の温い風を受けながら、「あぁ、そうだ。そういえば」と、まだ私が子供だった頃の九州の夏を思い出したのです。

「あの頃、つまり今からもう50年近く前になるけど、あの頃の九州の夏って、そういえば、暑いと言ってもせいぜいこんな程度の暑さの夏だったよなぁ」と。

つまりクーラーなんかなくても扇風機でなんとか凌げるような夏だったということです。それなのに昭和初期に少年時代を過ごしたうちのおとうさんは『夏の気温が30°Cにもなるなんて聞いたことがない!この頃の日本の夏は、おかしい!』と、戦後の高度経済成長に伴う気候変動に大いに嘆いていたなぁということを、不意に懐かしく思い出したわけです。ということは、あの頃の九州の夏なんて、今年の札幌の夏より遥かに暑くなかったということになるじゃないですか。なんだか振り返れば全てが嘘みたいです。

でもそうかぁ、そうだよなぁ。だってあの頃は、日本中のほとんどの家にはクーラーなんてついてなかったし、それなのに誰も熱中症にもならずに、「暑い、暑い」とボヤきながら、かき氷を食う程度でやっていけてたんだよなぁ。

それを思えば、あれから世の中は順調におかしくなり続けっぱなしで、今じゃ北海道以外の地域じゃあクーラー無しでなんか生きていけないほどの暑い夏になってしまっており。その異常な暑さが今年とうとう北海道にまで上陸してきてしまった、ということになるのかぁ、いやはやオソロシい。

中でも私が今年の猛暑で驚いたのは、札幌の公園の草があちこちで枯れていたことです。

連日暑すぎて、雨も降らなさすぎて、本来なら生命がはびこるほど太陽エネルギーが横溢するはずの夏に、その暑さで草が枯れるなんて!それはそれは驚きの光景でした。だって干し草みたいに枯れてたんですよ雑草が。

でも。そんな暑かった夏もやっと終わったようで。このところ札幌では、涼しい日が続いております。

私は毎朝、我が家のワン公を連れて近くの公園まで散歩に出るのですが、その公園の枯れていた草もこのところの気候の落ち着きで、勢いを盛り返し、近頃また草の緑が茂ってまいりました。

昨日は、赤とんぼも飛んでましてね、ワン公と公園にいましたら、1匹だけ飛んできて、ぼくらの目の前のベンチに「よっこらせっと」みたいな感じで、少しだけ不器用そうに、とまったんです。ちょっと赤いシッポの短い、小ぶりの赤とんぼでした。

「あ、この赤とんぼ、2日ほど前にも、この公園にいたやつじゃないか」

あのときも、こいつは1匹でやって来て、公園の入り口の杭のところで、うちのワン公がオシッコしてたら、それが終わるまで待つように、何処にも行かずにずっとフォバリングしてて、オシッコ終わってうちのワン公がどいたら「あ、やっと空いたぞ」みたいな感じでね、「よいしょっと」と、杭の上にちょこんととまってほっとひと息つけた様子を見せ、どことなく満足気だったのです。そのあいつが(まぁ違うやつかもしれませんけどね)今日も公園でひとりで遊んでるんだと思いましたらね、なんとなく微笑ましくて。

でも、辺りを見回しますと、そいつ以外に赤とんぼがいなくて。ひょっとして、北海道の赤とんぼの時期は、早くも終わったのかしらと思いましたら、目の前のこいつのことが少し心配になったんです。

どんな生き物にも生まれてくるタイミングって、あるんですよね。ちょっとだけ遅いタイミングで生まれちゃうとね。「ワーイ!」と、生まれてきたのに、もう仲間が1匹もいなくなったあとでね、自分だけひとりみたいなね、ことってあるんですよ。

昔、バブルが弾けた東京で、私もフリーでしたから仕事もなくなって、仕方ないから伝手を頼って新宿で発掘のバイトをしてたことがありました。まぁ、発掘のバイトと言ってもやることは土方でしたよ。デリケートな発掘は専門家の連中がやりますから、私らは穴を掘って土やら石くれやらを運んで、みたいなことばかりでした。

なんか、大型店舗を建てるときには、必ず、遺跡が埋蔵されていないことを確認してからでないと建てられないと法律で定められているらしく、なんで、そういった発掘のバイトが発生するんですね。私の現場は新宿のJRの南口のそばでした。そこには高島屋が建つのだとのことでした。今からもう30年も前のことです。

とにかく発掘現場は私たちが毎日掘っていますから、至る所が穴だらけです。そこへ秋の長雨が降りますから、あっちこっちに水溜りが出来る。これが都会の昆虫たちには都合が良かったらしく、どこで噂を聞くのか、赤とんぼが大量に飛来して、水溜りの周りで羽を休めておりましたねぇ。

とにかく彼らにとって生きている時間というのは、恋をする相手を見つけて交尾して卵を産んで自分の遺伝子を繋ぐことですから、それはもう毎日盛大に繋がった赤とんぼが現場の空を飛んでおりましたから実に賑やかでした。

でも、そんな赤とんぼ大量発生の賑やかな光景も、それが毎日のこととなると不思議なもので人間は興味を失うのか、目の当たりにしているのに、まったく意識に留めなくなる。

あるとき、仕事の手を休めたときに、水溜りに1匹の赤とんぼがやってきて、ポツンとまるのが目に入る。

「お、赤とんぼだ」

と思う。そういうときって、あんなにいた赤とんぼが、もうすっかりいなくなって久しいときなんですよね。意識に留めないことも、無意識は常に見てるんでしょうね。だから赤とんぼがいなくなって久しいことを無意識は知っている。そこへ、おくれて時期外れに1匹だけ赤とんぼが飛来してくるから無意識は違和感を持つ。すると、その違和感に意識も触発されて、人は赤とんぼに目を向ける。なんか、そんな順番があるんですよ。

だから、そんなとき、ふと辺りに目をやると、あんなにいた赤とんぼがすっかりいなくて、水溜りにやって来たそいつだけになっていることに気づくんです。

そいつは、せっかく生まれて来たのに、恋もできず、自分の遺伝子も次へは繋げない。でも、そんなことも知らずに無邪気に飛んでるんです。なんとも寂しい光景なんですけど。でもね、ぼくはわりと好きなんです。そういう寂しいのはね。

なんか、人間っぽく見えるんです、はぐれ者の赤とんぼがね。おそらくぼくにとって人間って、ひとりぼっちっていうのが、イメージの根底にあるのかもしれませんね。だから1匹だけで飛んでる赤とんぼに人間臭さを重ねてしまう。だって、タイミング悪く出遅れて生まれて来て、ひとりぼっちなんて、良くてね。赤とんぼ自身も事情が分かってないから、ポツンとなわりに呑気にしてるところが可愛いのですよね。

あいつは無為に生きて無為に死ぬんだろうけど、でも、そこにも生きてる甲斐があるように思えるんです。

きっと、多くの生き物が無為に生きて、無為に死んでいるような気もするのです。だから、きっとそんな人生にも生きている甲斐はある。そんなふうに思うから、1匹だけで遊んでる赤とんぼに共感するんでしょうね。

今日はなんか、そんな、とりとめもないお話でした。そろそろ羽田空港に着陸します。

それでは諸氏。本日も各自の持ち場で奮闘されますように。

 

これまでの日誌アーカイブはどうで荘にございます。

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