藤村でございます。
もう30年も前の昔話なんですけどね。
大学生のころ、心理学をやっている先輩から心理テストに答えてくれと、まぁ被験者ですね、頼まれていくつかの質問に答えたんです。後日その結果を聞いたら、藤村君はせわしなく動き続ける人で、どっちかというと早死にするタイプ、みたいなことを言われた覚えがあるんですね。
動き続けてないとイヤなのはその通りで、その結果として生物学的に寿命が短くなる、というのであれば、それはそれでしょうがない。逆にそんなこと言われて寿命を長らえるために、自分が好まない行動様式で注意深く一生を過ごす、というのは、どうにも本末転倒というか、あまりに「生きることの方を軽んじてる」としか思えないんですよね。
早かろうが遅かろうが事実として、命は尽きるんですよ、誰だってね。それはもう自分ではどうしようもない。
でもね、生きてる間は自分でどうとでもなる。なにをするのも自分の意思で決められる。生きてる間はずっと「自由」があるわけですよ。
であれば、
「この自由を目一杯享受することが生きることの根本」
だと思うんです。
でもこの「自由」ってのが実は厄介で、誰しもが「じゃあなにをすればいいのよ?」って考えることになる。「生きる意味」とか、そういう思想的なものですよね。で、考えるんだけど、そこに正解なんてないから、だからとりあえず学校を卒業したら就職して結婚して、あとは老後のことを考えて、みたいな、その時代の一般的な生き方に、こう、沿って生きていくわけだ。私だってそうです。
言ってみれば「生きる自由を自分で限定していく」わけだよね。レールを敷くというか。その方がやっぱり生きやすいからさ。その時代の一般的なレールに乗れば「おれの生き方正解」と、乗れなきゃ「努力が足りなかった」と、自分を納得させられるわけだし。でもね、そうやって生きていくと、いつしかこう思うわけです。
「自由になんて生きられないんだ」と。
自分で自由を手放しておいてだよ?そう思うんだよね。
一方でさ、「じゃあなにをすればいいのよ?」っていう、正解のない答えをずっと探してしまう人もいるよね。「自由であるが故に道が見つけられなくて不自由な自由に溺れてしまう」という感じかなぁ。それが深くなってしまうと精神が耐えきれなくなってしまいますよね。
まぁいずれにしたって面倒くさいわけですよ、「生きる自由さ」っていうのはね。
それでね、世間ではとりあえず「生きる意味云々」の面倒くさい話は置いといて、じゃあ人類共通の、誰が聞いたって「そりゃそうだ」と納得するような、わかりやすい指標みたいなものはないのか?と、考えるわけですよ。で、ピッタリなものがあるわけです。
「命は大切」
っていう。
なんかちょっとここまで話してきてこの言葉を出されると
「んなの当たり前だろ!」
って思うでしょう?そりゃあ誰も反論しないですからね、堂々と言ってのけることができる。
でもこれって「思想」でもなんでもないですよね。
「いや、そういうことじゃないんだよ」と言いたくなりますよね。誰もが一度は必死に考えた「自由に生きることとは?」という問いの答えには全くなってないんだから。
だってさ、自殺しようとしてる人に「命は大切」って訴えたってなんの効果もないでしょう。彼は生きる意味を見出せなくて自ら溺れているんですよ。その人に向かって必死に「溺れるな!死んじゃうぞ!」って叫んでるだけのことですからね。そんなのは何の助けにもならない。
そういう人には、生きるための浮き輪のようなものを投げてあげないと。
丸い浮き輪が一番いいんでしょうけど、それがなければ四角でも三角でも、棒切れでもなんでもいいから、少しでもその人がしがみつけるような何かを投げてあげないと。
それがつまり、正解のない中で、それでも「自分なりに考えた生きる思想」みたいなものじゃないですかね。「よくわかんないけど、おれはこう思う」っていうね。
それって結局、自分自身が溺れそうになった時にしがみつくものだから、生きる自由さを手放して生きている多くの人たちだって、実は胸の奥底に持っているはずなんです。はっきり言葉では言えないけど、生きている限り自分の中に存在するはずの「思想」ですよ。
でもね、普段はみんな頭を空っぽにして、顔だけは真剣にこう言うんです。
「命は大切」って。
これさえ言っておけば当たり障りなく、批判されることもないし、自分の身に何か起こらない限りうまくやっていけますからね。
ところが、です。
今はその「何か」が起きているんですよね。
国家が「緊急事態」と宣言してるんですから、これは大変なことです。
にもかかわらず、です。
相変わらず言ってるのは、
「命は大切」
「命を守る」
という通常勤務の標語です。これを少し切羽詰まった表情で、いくらか声量を上げて叫んでいるだけの状態です。
そしてその通常勤務の目標をそのまま緊急事態にも当てはめて、「命は大切だから」「命を守るため」に、生きている全ての人の行動様式を制限し、変えているわけです。
飲食店を始めとする働く人々に、「今は命を守るため」という誰も反論できない標語を使って、いとも簡単に彼らの生き方の自由を奪っている。
それが短期間なら誰も文句は言わない。むしろ「当然です」と協力するでしょう。でもこれがもう1年以上続いている。
「いい加減にしてくれないか!」と思うのは当然です。
にも関わらずこう言い続けるんです。
いいですか?あなたが勝手なことをすると、ホラ見て下さい、こんなに苦しむ人がいる。あなただってこうなるんですよ。こうなったらご家族とも会えませんからね。おとなしく家でじっとしてて下さい。
大切な命を守るために、今は自由に生きることを犠牲にして下さい。それは当たり前のことですから、と。
そうやってこれからも「命は大切」という標語だけで押し通そうとするのなら、感染者0、死亡者0にならない限り、全員の生き方を制限し続けることになります。
しかし、そこに「生きることとは?」という「思想」があれば、別の判断を下すこともできる。選択肢は一気に広がる。でもその「思想」に正解はないから、間違うこともある。でもね、誰かが思想を語らない限り、我々も思想を語れない。「生きることの方を軽んじている」状況がずっと続いていく。
欧米諸国が感染者を増やしながらも試行錯誤している底には、その国家の生きる思想が見えてくる。
日本はどうだろうか。
妻は、学生時代に「藤村君は早死にするタイプ」と冷静に言ったくせに、取り乱して「もう会えないなんていやだ」とメールを寄こし、「大丈夫だよ」と返せば涙を流す。
自分も体温を測るたびに「もし上がっていたら」と緊張する。目に見えない、体にも感じない、そんなものを相手にただ漠然とした不安の中で時間が過ぎるのを待つだけ。
私から見れば、みなさんも同じ状況です。「あなたも油断するとこうなりますよ」と、いつも脅かされている。
これからも、我々の生きる自由を制限するのであれば、もう「命は大切」という標語ではなく、あなた方の「生きる思想」を聞かせてほしい。
政治家でも医療を統率している人でもいい。
「あなた方が胸の内に秘めている浮き輪を投げてほしい」
そう、切に願うのです。
なんの思想も、思いもないところに、生きる自由を制限されて閉じ込められていることに、なんともやりきれなくなるんです。
とはいえ、本日も体調よし。
体温36.7度。
血中酸素濃度97。
以上!
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藤村忠寿から届く日誌を毎日更新しています。
これまでのアーカイブはどうで荘にございます。