Facebook Facebook Twitter Instagram Youtube 藤村忠寿 嬉野雅道 星アイコン 入居者募集中

はい、こんにちは。どうで荘アパートにお住まいの皆様、ご機嫌いかがでしょうか、嬉野でございます。

さて、先日のYouTubeで藤村さんがドラマ「北の国から」の話をずいぶん熱心にされるものですから、私もさっそくFODに登録して「北の国から'83 冬」を手始めに、次も次もと夜通し見続けておりましたら、現在、たいへん寝不足です。

結局、「北の国から'89 帰郷」までを一気に見終えたところで、やっぱり最初から見たくなってしまい、さっき81年制作の「北の国から」第一話を見始めました。いしだあゆみさんが出て来られましたねぇ。

あらためて振り返りますと「北の国から」は、1981年から2002年までのおよそ20年間に渡って制作され続けた、今から40年も前に始められたドラマなんですね。

だったらもうお若い方はご存じないのかもしれない。

同じキャストを同じスタッフが20年、北海道の富良野で追い続け撮影したドラマなんですねぇ。まだ、ほんの小さな子供だった純くんも螢ちゃんも、ドラマの中でどんどん成長してゆくわけですから、その驚異的なリアリティーがあまりにも自然すぎて、我々も「北の国から」を見ながら一緒に成長していったような錯覚すら覚えるわけです。

しかも「北の国から」は、時を経て、回を重ねて常に面白く、それが尚更我が身の実人生の思い出にまでシンクロして価値を与えてくれるようで、ぼくら世代には忘れられない作品になっているのだと思います。

私はあのドラマを見て富良野という地名を覚えました。ドラマの中に毎回出て来る北海道の自然に憧れて、行ってみたくなったことを思い出します。もし、あの「北の国から」というドラマがなかったら、北海道の商品価値も今ひとつ確かなイメージを持てないままだったかもしれない。あれは、それほどの作品なのだと思います。

日本という国は70年代の後半から「一億総中流」と言われるほど、国民全員が「お金持ちになりました」と自覚するほどの金持ち国家になっており、それでも長らく染み付いた日本人の貧乏人根性は拭えず、堅実で派手さのない慎ましい生活というものは、あの頃の日本人の文化とも言えるものにまでなっており。だれも彼もが有事に備えようと蓄えをしておりましたから、日本の郵便貯金の額は相当なもので。貿易相手国である欧米には「エコノミックアニマル」と揶揄されるほど、日本の商売はうまくゆき過ぎており、欧米との貿易摩擦は年を追うごとに甚だしく。いま思えば日本は戦後の経済戦争に一人勝ちしていたという、驚くべき状況だったわけなのです。

それだから時の総理大臣がテレビで日本国民に向かって「みなさん、日本人はもうお金持ちになったんです。これからは、一人頭、年間、何ドル以上は使っていきましょうよ。日本人は、もうお金を使っても大丈夫なんです」みたいな、そんな呼びかけまでするという異例の事態を引き起こすほどの好況を呈していた、その80年代初頭に「北の国から」は制作されたわけです。

そんな時代に東京暮らしについていけなかった黒板五郎さんは、小学校低学年の純くんと螢ちゃんとを連れて、自分が逃げ出した故郷へ戻って来るわけです。そして、電気もない、水道もない、あばら屋からの再出発を始めようとするのです。

脚本を書いた倉本聰さんは、1935年生まれです。10歳のときに日本の敗戦を迎えています。純くんが麓郷の里に連れて来られた年齢と同じ年頃だったわけです。その年頃に、空襲で焼け野原になった日本は、自分たち家族は、日本人は、ゼロから再出発をした。その記憶は80年代初頭の倉本聰さんの心にも色濃くあったと思います。

80年代初頭。気がつけば、日本は夢のように姿を変えていたのです。

あのとき、すなはち敗戦後の日本人がやれたことを、今も日本人はやれるんだろうか。そういう実験的な側面は、絶対あのドラマ「北の国から」にはあったろうと思います。だからこそ、倉本さんは、電気もない、水道もない、ガスもない場所に、小さな子供を連れて家族3人で、そこで生きるという試練を与えたのではないでしょうか。そしてそこで今の日本人は、いったいどんなふうに人生を辿るのだろうか、「見てみたい」きっとそんな試みをドラマの中で始めようとしてのではないでしょうか。その倉本さんの想いは、同時に黒板五郎を演じた田中邦衛さんの胸にも同時代人として間違いなくあったと思います。

「電気がなくちゃぁ、生きていけませんよ!」と抗議する純くんに、五郎である田中邦衛さんは「電気なんかなくたって、生きていけますよ」と言い返すのです。それは事実、田中邦衛さんの子供時代の日本の有様であったわけです。電気なんて、あったって電灯をともすだけだったじゃないか。料理はかまどに火をくべて煮炊きしてた。お風呂もそうやって沸かしてた。あの頃やれてたことだ、今だってやれるさ、という気持ちです。

なんか、そんなことを思いながらあのドラマを見ていると、当時のテレビと、テレビドラマ脚本家の凄みを感じます。連ドラという、長い時間の使い方は映画には真似のできないことだったですからね。

いかんいかん、こういうことを書いているとついつい長くなってしまう。お知らせがあったんです。

どうで荘にお住まいの皆さんに向けてお知らせしなければならないことがです!

このたび、応募してくだすった、どうで荘にお住まいの皆さんに、もれなく「アクリル板どうで荘」の置物を、プレゼントするのでございます。

何しろ皆さんの住所が分かりませんから、応募していただきたいわけでございます。

今月の24日までは専門の業者さんが発送してくれるので早いらしいです。それを過ぎましてももちろんお送りいたしますが、なにぶんそっから先は、うちの玉木さんの奥さんがひとつひとつ手内職で発送いたしますから、時間はそこそこ掛かります。掛かりますがその分、真心はこもっているかもしれません、分かりませんが。

ということで、「アクリルどうで荘」なかなか良い出来なので、どうぞたくさんのご応募をお待ちいたしております。

 

 

 

 

 

 

  

 

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