講談師玉田玉山、人生で何度目かの居候である。
齢30を越えた居候となった。幼少のころは「俺は金持ちになるのだ、立派な家を建てる男に違いない。さって弁護士になろうか、社長になろうか、考古学者になろうか」などと鼻息荒く暮らしていた。
10代後半~20代前半には「俺はどうしようもないぼんくらだ。早晩、家を失い屋根を失い、寄る辺もなくホームレス状態になるのだ」と思っていた。
しかし34歳になった今、居候状態になっている。
家があるような無いような、無いようなあるような。不思議な状態である。あまり将来像として描かない立場であろう居候というのは。
己で家を構える力はないが、己に屋根を貸してくれる人が居る。情けをかけてくれる人がいる。これは独りで家を構え、それを墨守するために孤独に金を稼ぐ仕事を続ける、という生き方よりは幸せなことなのかもしれない。生き馬の目を抜くこの社会に於いて、この情けを得るということ、大幸福であろう。幸せ。死んでもいい。
しかしながら細川たかしの『浪速節だよ人生は』(カラオケでよく歌う。すごく大きな声が出るので、人前では歌えない)にもある。
「人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ」
である。
屋根を貸してくれている人が愛想をつかし、情けを折って「出ていきなはれ」と言ったら言う通りに出ていかざるを得ないという不安定な状態、それが居候でもある。おそらく借地借家法等の店子を守る法律も、居候は守ってくれまい。
出ていけと言われば、出ていかねばならず、そこから新しい家が見つかるかどうかはわからないが、荷物をまとめて家を出て、放浪などをしなければならないのだ。それは住処と共に住所を失うということで、住所を失うと就職、転職、転居などが難しくなり、社会的な死につながる可能性もある。それが己で家を構えておらぬ、ということなのだ。
情けの枝を折ってはいけない。
情けの枝を折らぬままに、どうにかこうにか、自らの身を立てて、脱・居候を目指していかなければならない。
当然居候に身をやつすほどのものであるならから、一朝一夕で脱居候ができるわけではなく、少しづつ、居候で浮いたお金と時間を使って実力(体力、財力、能力、人脈)などを時間をかけつつでも蓄え、そして期が来た時に逆転打を放って己の居を構える、ということを目指さなければならない。
その機が来るまでは情けの枝を折らない必要がある。
そのためには居候仁義、のようなものを学んでいかなければなるまい、と思っている。
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』でも主人公一家の家に書生という形で居候している男が出てくる。仲野大賀氏の演じるその男は司法浪人で、一家の主の勤める銀行でアルバイト的にだろうか、日中は働きながら夜学で法律を学んでいる。
階段横の狭い3畳くらいの部屋を与えられている。机と、布団と勉強道具程度しかないその部屋。壁にとにかく司法試験に受かりたい旨の習字などが貼ってある。
その彼は、今のところ3回司法試験に落ち続けている(しかも落ちて当然である、というような描かれ方だ)が、今だに追い出される気配はなく、主人公一家と食卓を囲み、弁当を作ってもらい、主人公の良き相談相手になったり、一家の戸主である主人公の父からは「いつまでいてもいいから」と言われ、闊達な居候ライフを送っている。
司法試験どれくらいの期間をあけて行われるのかはわからないが、劇中の経過時間で言うと彼は2年は居候しているはずだ。もしかすると彼に学ぶところは多いのかもしれない。
勿論一人でどうで荘に居候をしているわけだから、他人の家族と暮らしている『虎に翼』の彼とは違う。
もちろん、己なりに居候だから、と遠慮をしていることもある。
例えば全裸で部屋中をウロウロしたりするのはいけないような気がしてしていないし、リスク管理としてトイレもあまり我慢しすぎないうちに行くようにしている。自宅があるときに何度か大事故を起こしたことがあるのだ。あと、サンマが安くても購入しなかった。あれを焼くと大変強い臭いと煙が出てしまう。慎みながら暮らしている。
しかしやはり『虎に翼』の彼に比べて我が暮らしはあまりに傲慢である。
風呂でひたすら鼻歌(鼻歌、と言っても我が声は大きく、放歌。と言った方が状況を正しく伝えられているかもしれない。ちなみに、野口五郎、吉幾三など)を歌ったり、大量の本、森喜朗の自叙伝やら、村山富市の回顧録やら、を旧宅から持参して本棚を二つも設置したり、アホほどてんぷらを揚げて一人でてんぷらパーティをしたりしている。
居候が揚げ物をする、アホほどてんぷらを揚げる、一人でそれを食っている、というのはあまり聞いたことがない。
『虎に翼』の彼はご飯をお替りするのでさえ遠慮がちだというのに。こっちはてんぷらを揚げててんつゆと塩を用意して味変をしながら食べて居るのである。翌日には余ったてんぷらを使って天とじうどんを作る始末である。
どうにも良き居候的な態度ではないような気がする。
では金輪際てんぷらパーティを辞めるのか、と問われると、それは相当に辛い決断となる。一人で好きなだけてんぷらを揚げて食べる喜びは大変なものがある。
てんぷらを食べすぎる、という体験は一人で家で、でしかできないんじゃないか。
鼻歌・放歌の類も辞めたくはない。
そういったことはしていない、と隠蔽すると良いのかもしれないが、これらを隠蔽する力というのが私には欠如をしている。天ぷらパーティをして美味しい思いをしたら、それを報告せざるを得ない。鼻歌・放歌の類は隠蔽には全く向かない行為である。森喜朗の自叙伝も村山富市の回顧録もそこにあって、講談にしているのだ、隠しようがないではないか。
妙な隠ぺいはそれこそ信頼というのものを損ない、情けの枝を折る一助となってしまうであろう。
であるからこちらとしては、どのような暮らしをしているか、どのような居候暮らしをしているか、をここでリアルに書き綴り、真正面から「こんな様子なんですが、いいでしょうか、これでよければ情けをかけてください、その枝を折らないで。あ、もしダメなところがあったら直しますから」とどうで荘入居者をはじめ、そのリアルさを、情けの枝を折らぬ支えにしつつ、関係者の方々に伏して願うしかないのである。
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